完治は諦める

一般的に、何か病気にかかったとき,怪我をしたときには、しっかりと治療をして休養を取ってから復帰するのが良いとされる。
でなければ、また症状がぶり返してきて、結果的に完全復帰できる時期が遅くなってしまう可能性が高いからである。

しかし、精神的な問題となると、完全に状態が良くなるというのはあまり無いし、殊更自身の抱えている心因性頻尿に関しては完治させるというのはかなり難しいと感じている。幼少期の頃から、緊張や不安とトイレに行きたいという神経がリンクしてしまっていて、その考え方や身体の応答は、一旦何か治療に専念すればすぐに正常に戻るという訳では無い。
結局のところ、一度学校や会社をやめて、心因性頻尿を治して、それから復帰するという選択肢は現実的ではない。
世の中には様々な薬やメンタルトレーニングがあるが、脳内にこびりついてしまったものを完全に剥離させる,つまりトイレへの意識を完璧に除去することはできないと思うし、学校や会社で症状が出ているならば、そこを離れたときに症状が出なかったとしても、戻ってきたらまた例の感覚が襲ってくるだろう。
それに、学校や会社をやめてまで治すんだという意気込みは良いかもしれないが、そこまでするからには治ってくれないと困るという淡い期待も込められていて、その期待に現実が追いつかないとますます自己嫌悪に陥るだけになりそうである。
また、問題となっている対象に向き合い続けることは、そこへの意識レベルを高めることになって、自らその呪縛に飛び込んでいくかのように思える。
だから、こうして心因性頻尿について文章を書くという行為自体も、進んでそのことについて考える時間を増やしてるという理由で、改善から遠ざかっているのではないかという疑念が浮かんでくる。

まとまった期間を治療に充てるというのが現実的でないなら、状況を受け入れて、辛いことは承知の上で、なぜ自分ばかりこんなことで苦しんでいるのかを恨みながら、健常者の仮面を被って生きていくしかない。
最早治そうとすることは諦めて、心因性頻尿であるのは仕方ないと開き直る。そうしなければ、何も始まらない。制約を受けた狭い日常の中で、自分にできることを見出すしかない。

他人が楽しんでいても自分にとっては苦痛でしかない、そんなことが心因性頻尿を患っていると多々ある。どうしても、「心因性頻尿じゃなかったら」という想像をして、その世界線と現実とのギャップに落ち込む。自分はなんて悲しい人間なのだろうと視界が闇に包まれる。

生きている限り、排尿から逃れることはできない。いっそのこと電子生命体にでもなって、身体という実体を持たずに過ごしていきたいものである。人間としての、生物としての、あらゆる快楽を放棄することも厭わない。そんな気持ちを抱いても尚、私は私から離れることはできず、ただ打ちひしがれるだけである。

完治は諦める。

忍耐力が問われる物事はすぐに諦めてしまうくせに、殊、心因性頻尿については治すことに執着して諦めきれずにいる。一見矛盾しているように見えるが、どちらも辛いことから早く解放されたいと願う気持ちは同じである。子どものころから、すぐ諦めてはいけないと私たちは教わってきた。しかし、それを都合良く解釈し、心因性頻尿の治癒に適用してしまっては、アリ地獄にハマるだけである。

諦めが肝心だ。

心因性頻尿を、それはそういうものだと、きっぱりと割り切って、別の物事に集中する。抗うことなく、保険はかけつつも、あとは身を任せる。どうにもならない相手は、無駄に刺激しない方が吉である。


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