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Nicolas Bourriaud『The reversibility of the real Pierre Huyghe』読書メモ

ニコラ・ブリオーといえば、リクリット・ティラヴァニャを連想するけれど、ピエール・ユイグについてもいろいろとテキストを書いている。これはTateで見つけたテキスト。タイトルを訳すと”ピエール・ユイグの本質の裏返し”が、適切だろうか。

ユイグの作品は時間の経過を使い、認識と記憶とをハックするかのような作品であり、白昼夢を見せているような、そんな不思議な感覚がある。

The French art critic Nicholas Bourriaud examines the ways in which Pierre Huyghe enjoys upsetting traditional expectations of how art is perceived, mixing fact and fiction.

ピエール・ユイグは”事実と虚構の間に何があるのか”について興味があるアーティスト、膨大な調査と綿密な計画の上に作った舞台に配置するのは、俳優、虫、植物、動物など、上演の際には、舞台と配役が、どのような事実を提示するのかを眺める。何かが起こる条件を設定する。そうした表現は、美術史を参照しているものの、作品表現は鑑賞者の驚くような方法で出し抜いていく。

ピエール・ユイグに限らず、コンセプチュアルな現代アーティストは、その作品をどのように販売しているのか。ドクメンタ13の庭園型のインスタレーション《untiled》(2011-12)なんて、どうやって販売するのだろうかなんて考えてしまう。初期のコンセプチュアル・アートにあったアート・マーケットへの反発と、後期コンセプチュアル・アートに接続する手前、コスースの作品に札束が積まれる様子、それとの二義性に思いが飛ぶ。

ブリオーのテキストは、現代アートの商業的な隆盛について語る。現代アートがプライマリー、セカンダリーでも流通し、価格がつけられ、取引されている。そうしたコモディティ化とも取れる状況を狭い次元への還元と表現する。現代アートの流通に抵抗しているような雰囲気がありつつも、むしろ利用している節も見られる。そうした強かさが現代アートにはある。

21世紀初頭の芸術家たちが生み出した形態は、野生動物の保護区を構成しているとしよう。ピエール・ユイグの強みは、イメージには常に荷物が付いているという事実を理解していることにある。作品の代わりに商業的なシグナルが増殖し、クローズドループなコミュニケーションが文化に取って代わりつつあり、イメージが普遍的なメディアの腹話術のための仮面となり、常に権力が話をするようになっている今日、彼の作品が非常に重要であるのは、この点にあるのかもしれない。

ユイグが作る作品は、プラットフォームを構成しているとでも言うのだろうか。様式を反復する芸術家とは明らかに違いがある。

永久的な建設現場《Chantier Permanent》(1993/1999)は、ユイグ作品のタイトルの一つであるが、そのすべてに当てはまるだろう。建設現場のイメージには、彼の世界に見られるものの本質的な部分が含まれている。人間の労働の儚い性質、それが構成する関係性、それが必要とする流れ、接続、道具の複雑なイメージ、そしてより一般的には、完成品としてではなく、むしろゆっくりと練り上げられた結果としての形に対する倫理的な概念である。彼の作品では、持続時間、相互関係、形がハブを構成し、それを断ち切ろうとするのは無駄な結び目となっている。ジル・ドゥルーズが哲学者のスタイルは彼の動きであると主張したように、ユイグのスタイルは、一見しただけで本質的なものがわかるように見える多くのファッショナブルな画家とは異なり、様式の反復ではなく、むしろ彼が使用する方法や装置に求められるべきである。1994年の《Chantier Barbès-Rochechouart》をはじめとする一連のビルボード・プロジェクトから、2005年の南極探検を記念した豪華なミュージカル・コメディ《A Journey that wasn't》まで、ユイグは芸術作品を活動の領域、人間の相互作用と経済的、政治的、社会的な現象に満ちた形として主張してきたのである。

ユイグの初期のころの看板プロジェクト、《Chantier Barbès-Rochechouart》では、工事現場の労働者をモデルにしていた。(その他にも街中の人々をモデルにした作品もある。)ラカン的な鏡像段階と解釈していたけれど、疎外についても隠喩していたのだろうか。ただ、ブリオーが指摘するのは、疎外は時間の経過とともに複雑になってきたという。世界の枠組みが拡大してきたから。

マネは都会の群衆の中の個人を描いた。ウォーホルはメディアの罠にはまった個人を描いた。ピエール・ユイグの作品に描かれている典型的な個人は、自分の生活条件をマスターしようとする者、つまり、疎外された労働者とは正反対の存在である。

ブリオーの指摘は、ユイグが重要なアーティストであることを、彼の作品から読み解いていく。古典的なテーマにスポットをあてた《The Third Memory》は、1972年に起きた銀行強盗事件をモデルにした映画の現実との違いを比較した。映画によって事実が、どのようにフィクションになっていくのか。事件の責任者に物語を再現してもらった。映画との違いを提示することで、フィクションについて、記憶について、そして歴史についても暗喩しているように思える。

ブリオーは、自分の身体を使って物語を構築したために、それは著作物であり、著作権が適用されるべきだとしている。個人の体験に対しての著作権。著作権に関して掘り下げたプロジェクトが、フィリップ・パレーノとともに買い取ったアン・リー。

彼女が労働市場にいる人間であるかのように、看板の権利と生産性の条件を検討することにしました。

10人を超えるアーティストによって中身を注入されたアン・リーは、このプロジェクトによって「救われた」ことになっている。

アン・リーは展覧会を丸ごと、美術館とコレクターが購入している。


労働、疎外。

人生と仕事の分離と表現は、政治的な理由で行われたという考え方、つまり人為的なものであったということ。1995年にAssociation des Temps Libérés (Freed-Time Association)が設立された。今では名だたる現代アーティストが参加している。この団体設立を例証として、ユイグの作品にも中心的な概念となっているという。

対立が起こる場所、対立する主体とは何か、その境界はどこにあるのか。

スペクタクルの社会では、誰もがパフォーマーとしての地位を主張することができる。ユイグの作品は、人間の活動がもはや特殊な表面だけに刻まれているのではなく、あらゆる場所に刻まれているという事実を考慮に入れています。哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが書いているように、水泳は絵画と同じように碑文である。一方で、今日のギャラリーでは、「アイデンティティ」や「人間性」を愚直にどもるような作品が常に目の前にあるのではないだろうか。マルクスによれば、人間の本性を定義する唯一の要素は、人間自身が導入した関係システムに他ならないという。人間とは人間間のものであり、すべての個人間の取引である。



ユイグの作品は決まったフォーマットは無い。初期の作品は映像作品が多いが、彼自身、作品の形態には拘っていない。そうした変幻自在な作品群の中で見せるのは「人生を解釈できるような構造」である。アーティストによって再解釈されたストーリーは、スケールを変えて「社会的な時間」を再生する。時間ベースの作品、作家と呼ばれるが、出来上がった作品が映像だからではなく、鑑賞者に時間の概念を植え付けるからではないだろうか。

南極への旅行《A Journey that wasn't》は、「ニューヨークのセントラルパークにある南極の風景を再現したものだが、強烈な光の洪水の下で黒い氷河が黒い海に浸かっていて、観客がパフォーマーになっている。ポジティブ(旅の)からネガティブ(転写の)へと移行することは、すべての発言が翻訳であることを意味し、すべての上映行為はアーティストが参照する出来事を記念するものである。」とユイグは言う。

「私は現実があまりにも信じがたいものであるため、それを正しく伝えるためには、フィクションとして伝えなければならないというこの考えに魅了されている」

これはデュシャンの既製品の理論「物体のために新しいアイデアを発明する」と同じ理論とみられるかもしれない。しかしユイグにとって重要なのは、イメージ産業からアートが参照できる事項は何か、そうしたことを引き出すことである。つまり事実を伝えるのに、フィクションの方が向いているということと、フィクションによってもたらされるもの、ポスト・ドキュメンタリー的な手法について警戒している。警戒というよりも、こうした事実を提示しているに過ぎないのかもしれない。

多彩な表情を見せるユイグ、研究者、旅人、監督。そうした表情から紡ぎだされる物語は、一人の人生、社会、生物と無生物の記憶の一部を切り取ったかのようである。ある状態から別の状態へと形を変換する。あるいは移植によって変容させる。


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