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横浜トリエンナーレ『AFTER GLOW光の破片をつかまえる』鑑賞メモ

予定に入れていなかった横浜トリエンナーレの鑑賞、日産アートアワードとあわせて見に来た。完全予約制、チケットを取ってしまったらキャンセル、日程変更はできない。チケットシステムの都合なのかなと思うけど、ちょっと不便だと思う。

日産を後にして、プロット48の会場から訪問してみる。地下鉄の移動を計画していたけれど、横浜駅から徒歩圏内ということは発見だった。

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四連休の賑わい、密を避けるための措置も、行列になってしまったら仕方ないのかな。横浜トリエンナーレのボランティアスタッフになった人の話を聞いたけれど、結構大変みたい。

展示の建物は二つ、キラキラと綺麗な作品や、映像作品などが無造作に、無分別に並置されているといった感じ。学園祭の雰囲気のようにも感じるけれど、どうして、どのように感じるのだろうか。

横浜美術館の予約時間まで見ていたけれど、どうにも解釈が定まらない。面白いことは、面白いのだけど。そして、横浜美術館へも徒歩で移動できることが分かった。

美術館前の人、芝生の前庭は市民の憩いの場になっているんだなと感じた。

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プロット48と同じように、美術館内も所せましと展示がなされている。3階の展示室に映像作品があったけれど、コの字を描くように並置されており、音声を流す作品と、ヘッドフォンをつける作品とがあった。

この頃になると意図的に、こうした並置をしているのだと分かった。

一見無秩序に置かれた作品、展示のあいまいさと鑑賞者の動線のあいまいさから、何が何だか分からないという状況に陥ったものの、これはシルクロード時代のバザールだと思った。玉石混交、玉をつかむのか、石をつかむのか、それは鑑賞者次第、ただし、玉も石も、つかんだ人にとっては価値のあるもの。

そして、疑問に思ったのは、こうしたトリエンナーレによって経済的な価値を高めることができたのだろうかという点。延期されたTOKYO2020、もし開幕されていたとしたら、非西洋的な挑戦になっただろう、そうした場合に西洋な人達が見て、どのような解釈を出すのかが気になった。

仮に人の移動が自由であり、美術関係者がこのトリエンナーレを見たときに、どのような意見が見出されたのだろうか。こうした思いが出てきたのは、そうした提示以上にエンタメな要素が見え隠れしたためだったのかもしれない。

飯山由紀の映像作品、じっくりと没入したいと思ったものの、まわりの騒々しさに若干疲れた。けれども、WAITINGROOMで開催されていた飯山由紀の連動企画には、横浜トリエンナーレから流れてきた人があった。

ノイズの中で集中が生まれる。

やはり拾い上げられたものには、鑑賞者それぞれの価値があったんだ。

いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。