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《Celebration Park》考察メモ


ピエール・ユイグの《Celebration Park》(2006) は、改修工事のために2年以上閉鎖されていたパリ市立近代美術館(ARC/Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris)のリニューアルオープンの幕開けとなった。


ユイグは、1995年にディジョンのル・コンソーシアムで開催された「モラル・メイズ」に参加して以来、展覧会の形式や時間的な枠組みについて実験を行ってきた。自由な時間という概念によって、彼はプロジェクトを「シナリオの制作」として、展覧会をゴールではなく出発点として捉える。

今回の展覧会では、ユイグは自身の展覧会への「プロローグ」を観客に提示し、来るべき大規模な展覧会を示唆する。

《Celebration Park》は、言葉を使ったインスタレーションのように見える。ポスター、ネオン管で象られた言葉、天井のレールから吊るされた扉は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリスの冒険』(1865年)を即座に連想させる。

書かれた言葉は、「Musée d'Art Moderneを所有していません」「デス・スターを所有していません」「白雪姫を所有していません」などのフレーズであり、そのフレーズによって、作品とそれらとの関連性を示唆させる。

ユイグは逆説的に自分と彼らの存在感を呼び起こしたのです。ギャラリーの奥は行き止まりになっていて、出口のドアが開いていて、床に倒れている作家のマリオネットを垣間見ることができた。

この言葉を見た鑑賞者は、「確かに自分は白雪姫を所有していない。でも、白雪姫は知っている。」と思考するだろう。これが文化であるとし、著作権と文化との関係を示している。



「セレブレーション・パーク」というタイトルの意味は、ユイグが次のように答えている。

 「祝賀」という言葉の意味は、「参加する」ということです。テートとパリで開催された「セレブレーション・パーク」では、お祝いをするということ、外の世界を観察するということではなく、この世界に参加しているということです。批判的になるのではなく、参加的になるということです。

祝賀会については、展覧会のオープニングは常に祝賀会であるとし、パリの美術館の再オープンだったことから二重の意味での祝賀だったのだろう。

この展覧会は次回以降の展覧会のモデルになるという。

「セレブレーション・パーク」は展覧会の集合体であり、特異な体験の集合体です。展覧会という形式は、それ自体が形になっています。通常、アーティストは展覧会を終着点、何かの解決策として考えています。彼はスタジオで作業をしていて、プロセスがあり、そのプロセスの最後に、展覧会と呼ばれるもので作品を発表します。私はそれに興味はありません。展覧会がプロセスの終わりではなく、どこか別の場所に行くための出発点であることに興味があります。ある意味では、そういうことなんです。

インスタレーションでは、天井にレールが回され、そこを白い大きなドアが動いている。動く白いドア、通常ドアは固定されているものであり、それが天井からぶら下がって動いている。また、ドアはある空間からある空間への移動の手段を提供する。ドアによって、内か、外かを認識するが、それが動いていると、内なのか、外なのか、自分の立ち位置に関する認識が薄れていく。

そして、「私は白雪姫を所有していない。」というネオンで提示された言葉、どうやらインスタレーションには、白雪姫の歌が流れていたらしい。この歌を流すから、法的な問題として所有していないと表明する必要があった。

前述したけれど、白雪姫を所有していないことは確かだが、白雪姫は知っている。歌も知っている。こうしたことが文化であり、文化を知っているか、知らないかという遊びが必要であるとしている。

物語がどのように循環していくのかということにとても興味があります。昔は、物語を持っていて、それを語り手を通して循環させることができました。しかし、今日ではそれができなくなっています。物語は拡大することはできますが、著作権の問題で常に元に戻らなければなりません。ここだけの話ですが、白雪姫の歌は歌えますが、公には歌えません。これは物語の循環についての話で、お互いに物語を伝えることができるかどうか、これがどれだけ流動的かどうかについてです。

白雪姫の著作権を所有しているという事実がある。語り部による物語の伝承あるいは同人誌的な二次創作による物語の拡大流通、そうしたものを元に戻すのが著作権であると。

ハコをあけたら煙が出る。煙は広がっていくが、ハコの蓋が閉まるときに、拡散した煙が再びハコに戻るという不思議な現象、時間の逆行のような。そうした力が著作権にあるという。

そんな中、ジブリのニュースに驚いた。


ドアが動いていれば、もう内側も外側もないんじゃないかな?それは間違いなく境界線と文化と流動性のことです。自分はいつも外にいることができると思っているけど、もしかしたらいつも内にいるかもしれない。とてもシンプルな比喩ですね。

著作権の善悪、適切に権利を保護する。これは間違いない。ただ、著作権によって親しんでいた物語に制限が加えられる。ジブリの画像公開は、著作権によって元に戻るのではなく、文化として広く伝搬していくという願いがあるらしい。





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