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佐賀大学 卒業・修了制作展 鑑賞メモ

2年ぶりに佐賀大学の卒業・修了制作展に出かけた。

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前回は地域デザイン学部の一期生が卒業するタイミングの展覧会、多くの学生は大学院に進学した。今回の展覧会は大学院生の修了制作も含んでいる。

思えば、僕は一年早く修士課程を修了したのだな。


二年前に比べると作品点数は少なくなったように感じたけれど、作品が大型化し、包み込まれるような展示空間になっていた。他の卒業制作展も見ているが、佐賀大学の展覧会は見ごたえがあると思う。

有田セラミックの展示、今回も印象深い作品があった。

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桐原里奈の《父へ》という作品である。

犬の磁器が沢山設置され、その犬のモチーフとなった映像がプロジェクターで投影されている。作品名の傍らにはテキストがあり、嫌いだった亡くなった父親が枕として使っていた犬のぬいぐるみだという。

母親はアル中の父親とは離婚し、その数年後に亡くなったらしい。10歳の桐原は嫌いだったが泣いたという。父が、どんな人物だったのか、恐らく思い出が無いのだろう。それを紡ぐかのようなセラミックの犬、そこに流れるぬいぐるみの映像。娘と父の、なんとも言えない感情がこぼれてくるようである。

僕も父親を10歳のときに亡くした。

離婚はしていなかったが、ろくでもない父親だったように思う。この作品ステートメントに書かれている事と同じように思い出らしい思い出もない。彼のパーソナリティを認識するには自分は幼かったと思う。

想像するしかない自分のルーツ、その多層性。

後から聞いた話だけど、一番評価が高かったという。



坂田空の《暈ける fade》

部屋の中に敷き詰められた藁、そこにいくつかの古い日用品や洗濯機、ビニール傘などが無秩序に置かれている。天井から雫が落ち、たらい、ビニール傘、バケツなどに水がたまっていく。水は溢れないように、不定期に中央の瓶に集められるという。

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この部屋は2年前に石本陽の《見える音》が提示されていた。

坂田は北海道出身、佐賀大学にやってきて初めて藁というものに出会ったらしい。その藁を敷き詰めた室内、日差しによって藁の匂いが立ち上がる。その匂いに懐かしさを感じるという。不思議な感覚である。初めての素材に懐かしさを感じるというのは、どういうことだろうか。藁の匂いが根源的に人にとって好ましい匂いなのだろうか。稲藁と日本人の関係は指摘するまでもなく深いものであるが、北海道は最近までコメの生産ができなかった。

稲藁に埋もれるように配置された日用品は、キャンパスの中にあったものという。古いたらい、瓶、錆びた鉄のバケツ、ビニール傘、洗濯機。そこに水がたまり、溢れる前に瓶に移される。

作家の話を聞いていて、これは坂田が佐賀にやってきて、その経験と思い出とを追体験させるインスタレーションなんだと感じた。そうなると稲藁につつまれた白昼夢のような景色が、途端に郷愁を感じさせる。


松延怜亜の《vapor》

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暗転した部屋に白い布で迷路のように空間を仕切り、そこに映像を投影する。白い布は光を通し、何重かに重なった光が、視点によって様々な像を結ぶ。光が強くなる、映像としてはっきりと像を結ぶ。そうした様子が投影される。映像の音源としてノイズが流れ、それが視覚と聴覚との不思議な関係性を励起させる。

ほんの少し立つ位置を変えるだけで、映像作品の見え方が変わる。大抵の人はスクリーンに対面して見ているが、白い布の間に入ってみてもいい。

映像や音声に意味は無いという。個人的な経験を追体験させるかのようなインスタレーションは、自他の視線のどうしようもない違いを提示しているように思えた。

このスクリーンの演出は、ホー・ツーニェンを連想させた。

ゼミの同級生がホーに対して指摘していたあざとさ。その意味合いが少し分かったような気がする。けれども、作品そのものの世界は、テクニックとは別のところにあると思う。


石丸圭汰の《指と1倍速》

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絵画的なインスタレーションである。そのインスタレーションの一部にiPadとフレームが提示されている。iPadには静物の画像が表示されている。その静物の色をフレームにはめ込まれたアクリル板に写し取っている。取り出した色と、その構成、デジタルのスクリーンで展開される時間の経過。デジタル上で展開された色の選択が、アクリル板に落とし込まれ、現実世界に現れてくる。そのフレームを正面から見据えると、取り出された色よりも鏡のような表面に移り込む自分の顔が見える。

iPadに提示される映像は作家の痕跡が見えるが、それはデジタル上に再現されたプログラムなのかもしれない。アクリル板に残った絵具は、筆跡は、作家によるものに違いないが、対面する自分の顔に、自信が無くなっていく。時間を操作するかのような企みがあるのだろう。


石本陽の《ことばの音》

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梁と壁一面に呪文のようなひらがなが書き込まれている。そこに声が鳴る。書かれた文字は意味が捉えられるようでいて、意味が分からなくなる。朗読なのか問いかけなのか、音声が重ねられ、ことばを紡いでいるようでいて、その意味を捉えることをくらましてしまう。

文字は多重に書き込まれ、青字を訂正するピンク、ルビなのか注意書きなのか、黄色の文字で行間に割り込む文字、見慣れた単語を見つけたかと思うと、すぐさま視線が迷ってしまう。

石本によれば、これは修士論文であるという。そこから意味を抜き去り、ことばの成り立ちや、音に興味の対象を拡張しているという。

アニミズムを連想する。

ことばというどうしても人間的なものから、意味を抜き去ってしまった時、人と人外との区別とは何か、という問いが浮かび上がってくる。人は、何に対しても意味を求めすぎてしまうのかもしれない。


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