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KOCAスクール:現代アート/哲学入門:イマジナティヴ・クリエイター・ゼミナール 「ポスト・イリュージョン時代の未来を見る/考える」受講メモ

京急線の梅屋敷にあるKOCA、そこで行われるクリエイター向けの現代アート/哲学入門のゼミがあった。クリエイターは、いわゆるアーティスト、デザイナーに限らないということで、申し込んでみた。講師は映像作家の河合 政之。参加者全てが簡単な自己紹介を行い、”映像のはじまりとは”という問いかけからゼミが始まった。


はじまりは何かという問いかけをすることで、「映像」とは何か?ということを探求しようとする試み。参加者から、それぞれの映像の始まりについて視点や意見が上げられる。具体的な映像の話題から、夢、ビッグバンにまで話題が及ぶ。

自由な発想に、自分は映像ということを少し狭く捉えていたのかもしれないと感じる。モヤモヤしつつも、少し乱暴だな、と感じていた。

議論が進んでいくが、そもそも映像とは何かという議論よりも、何が映像たりうるかという意見がでてくる。水面にうつる自身の姿は映像か、はたまた夢は映像なのか。

古事記の引用がある。

イザナギが黄泉の国にイザナミを迎えに行く際の話で、イザナミの姿を見るために火が使われる。この火がテクノロジーであり、ここではじめてテクノロジーを使ったコミュニケーションが成立したとする。

すなわち、これが映像であるということ。

技術を用いてコミュニケーションをとること。
映画はフィルムベース、つまり写真を動かしたいというモチベーションによってうみだされた。一方で、映像はテレビに近い、テレビジョン、テレフォンのテレとは遠くにという意味合い、テレフォンは遠くへ声を運び、テレビジョンは遠くへビジョンを運ぶ。こうした定義付けは、意味を考えるためには非常に分かりやすが、これを前提として議論が進まないところが面白いところ。火を技術とするならば、映画も映像もテクノロジーに基づいたコミュニケーションの手段であり、一緒のように見える。

ゼミ参加者から発表がある。自身の作品と影響を受けた映像作品についての発表で、それについて参加者が意見を言う。

ビッグバンが映像であるという主張にともない、ここでも不穏な感じがしてくる。なぜ、そんな印象を抱くのか考えてみた。

恐らく映像とそれ以外との境界が曖昧になっているからだと思う。乱暴に感じたのは、バイアスだけが境界を持っていて、他者との間に、その境界の共通認識を設定できないように見えるから、この議論の延長線上として映像の外側にあるモノは何かという点に到達できない危うさを感じる。

銀座エルメス、マチュウ・コプランの展覧会で見た映像で、そうしたことを提示していた。それを思い起こす。

https://www.hermes.com/jp/ja/story/maison-ginza/forum/210423/

ではなぜ、今この議論で、ことさらながらに映像の境界を探るのだろうか。
恐らく映像とアートとの交差を考えていたが、ゼミの参加者は、周辺あるいは映像そのものを捉えていたのかもしれない。冒頭にディスカッションという説明があったが、これはダイアローグだと思う。


確かに、作品を作るにあたって、その結果として映像になるかもしれないが、それを映像とする意味合いは希薄なのかもしれない。この対話はWork In Progress(WIP)的な発想だろうか。自己主張的な作品は、日常あるいは、社会との接続が希薄なのかもしれない。

その作品をアートと認めるか否か、作家は、作品として提示するが、既に造形技術に依らない認識があるなかで、果たしてアートたるには、どうあるべきなのか。

今でも月に10~20の展覧会を見る。そうなると、おおよそ100点くらいの作品をみていることになるだろうか。最近、自己主張の強すぎる作品、少し言葉が悪いが、独りよがりの作品を連続して見る機会があった。あまりにも強い内面性に、やや食傷気味になっている。

大学院のゼミ友達に、そうした問題意識を共有した。そうして、少しアートデトックスをすることを表明した。ただ、それも束の間、相も変わらず展覧会には出かけている。鑑賞者としての自分を鑑賞するような、そうしたメタ的な発想を試している。


昨年の哲学講義を思い出したが、それとの違いを楽しんでいる。



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