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Seeding, not Giving

娘に読む絵本のなかに、Y氏が買ってくれた「おおきな木」という絵本がある。原題は"The Giving Tree"。(※0歳向けではない笑)

STORY
一本のおおきなりんごの木は、少年に与え続けます。りんごの実・葉っぱ・・・それで幸せでした。と木は言います。でも、少年は大人になり、老人になり、多くを要求しても、木には何も残っていません。木の実も枝も・葉も、少年に与えてしまったからです。やがて、孤独に年を取った少年はかつて大きかった木の切り株に腰をおろします。
『おおきな木』

何もない切り株になってもなお、木は言う。「それでも木は幸せでした」と。

解釈には賛否両論あるようだが、この話の木を「優しい」とするレビューをよく見た。だけど、結局は救えてない。優しさだけじゃ、与えたいときに与えられないんだって思う。

母になって、たしかに「与えること」は幸せだよなあと思う。
だけど、それはいつの間にか依存になるのか、やせ我慢になるのか。与えていたつもりが、枯渇していって、しらないうちに奪ってしまうんだと思う。

givingする、自己犠牲的な愛はきもちがいい。
だけど、自分や相手はもっともっと何かを色々生み出せる可能性を秘めてるのに、それを伸ばす勇気を怠って与えてしまっているだけだと思う。

母親という肩書をもつと、その”与えたい"という思いが限りなく自分自身の願望と重なるから難しい。自分が本来自立して抱くはずのの"want"をいつの間にかかき消して、なかったことにしてしまう。
もっと、自分と相手の可能性を信じなければいけない。

娘が生まれて、自分の母親のことをよく考える。母は明確に私たちに愛情を注いでくれたけど、母の色は消えてしまったのでないかと思います。昔はワシントンD.C.に留学に行ったり、テニスプレイヤーの秘書をしていたのに、私が生まれて母が「自分が好きなこと」「やりたいこと」を口にしているのはきいたことがないから。
母は毎日決して文句を言わず、家族のご飯を欠かさず作り、帰りを待ってくれた。それできっと幸せだったのだろうと思います。
今でも見返りを求めることはなく、自立しているけど、私にはこれ以上できないからこれでいいというような、我慢がまんで内側にこもってしまうような気がしてしまう。(たぶん、私が気がしているだけなんだけれど)

「これで幸せ」って言うのは、意外と簡単に自分をコンフォートゾーンに閉じ込めてしまう魔法の言葉だと思う。

だから自己犠牲はやはり、幸せではないと思う。
本当の意味で周りを輝かせたいなら、自分が輝かなくてはいけない。「恩送り」という言葉があるけど、giveとtakeの関係ではなく、もっとかけ算をしたい。
give「与える」ではなく、seed「種をまく」。
種をまきさえすれば、ちゃんと花開くから。自分の花を枯らすことなく、相手にももっと多くを与えることができる。

トロントに行ったとき、いい意味でみんな自己中心的で、それだからだれも周りに遠慮なんかしていなくて、自分も頑張るから周りもがんばれよって、ただただ寛大で応援の雰囲気が町中に漂っていたことを忘れない。

娘がいるからって、守りたいと思うばかりいろいろ固く構えてしまうけど、娘は大丈夫だから、もっと私自身が自分をアップデートしなくてはいけない。私は娘から、これほど人生でかけがえのない幸せをもらったから、そのままgive&takeで終わらせてはいけない。自分が満たされていないと愛せない。その満たし方が、なかなか難しいけど、もっと自分の内側に矢印を向けて、自分だけの心の声にも耳を傾けて、種をまいていく。


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