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思い出の品々 その9

野球世代

昭和の、ジャイアンツが黄金期の時代の生まれと来れば、(男の子の)幼い頃の遊びは大体が野球だったんじゃないだろうか。

ただし、仲間が9人集まればチームを作って早速試合!と言う訳にはいかない。

子どもの頃は都市部でもそこかしこに空き地はあったけれど、決して面積的に豊かではなかった。

そんな所で真剣に野球をしたならば、昔の漫画やアニメにありがちだった窓ガラスを割ったり盆栽を壊したりといった事故が多発したことだろう。

幸いにしてそういう怒られ経験はない。

そして、そんな物理的な理由もさることながら、いくら野球が流行っていたからって、いくら少子化の時代ではなかったからって、大人数が即座に集まってさあ試合だ!なんてことは無理だったし考えてもいなかった。

野球をして遊ぶ、と言っても、狭い場所で(場合によっては道路を挟んで)せいぜい多くても10人足らずで野球の真似事をしていたに過ぎないのだ。

それだって、遊べるだけの人数ともなれば、学年はバラバラで小中学生が混ざってるぐらいだった。

使うボールは、硬球は勿論のこと軟球でさえ危ないから使わず、いや使えず、軟球の柔らかいの(何というのだろう?)とかビニールボールだった。

柔らかいもんだから、フルスイングで当たり損なうとボールが激しく回転して、その結果ビヨーンと変形し、落ちるとやたらとイレギュラーバウンドしたものだ。

そんなボールを使っていたからグローブも不要。素手で遊ぶことが多かった。

ちなみに、当時は皆「グローブ」と言っていた。昭和から平成になった頃、本来の発音に近い「グラブ」に、多くの場面で置き換わって行ったように記憶している。

なので、昭和の人間である私は未だに「グローブ」派だ。

ベースなんてもんは持ってなかったし置く必要もなかった。マンホールとか雨水とかのマスの蓋を目印にすれば良かったし、そもそも狭い場所で遊ぶのだから塁は4つも設定出来なかった。

大抵はベースは3つで「三角ベース」と呼んでいたけれど、それって全国共通の呼称なのだろうか?ネットで検索するとヒットするけれど。

ちなみに人数が少な過ぎると空き地すらも不要で、道路のマンホールをベースに見立てて二つの塁を設定し、守る方が牽制球のような感じにボールを投げ合い、走者が封殺されないように遊ぶなんてこともしていた。

あれは何て呼んでいたのか?今や忘却の彼方だ。そう!「ろくむし」だ!

「いちむし」「にむし」とか言って、塁間でキャッチボールをしてたような朧げな記憶が蘇って来た。

そして、誰も遊び相手がいなければ、壁を相手に投げたり打ったりしていた。テニスの壁打ちみたいなもんだ。

今や壁打ちなんてテニスでもやらないのかな?

そんな疑似野球少年だったから、ユニフォームなんてまるっきり縁がなかったのだ。

下手の横好き

ユニフォームを身に着けて野球をするなんてことは夢にも思わなかった少年時代。

そもそも「野球ごっこ」にユニフォームは要らないし。寧ろ、着てたら変だ。

ところが、時は進み、大学時代に思いもしない転機が訪れた。

文科系のサークルだったけれど、何だか知らないうちに草野球チームを作ろうということで急に話が盛り上がり、あれよあれよと言う間にユニフォームを発注した。

サークルだけでは人数が足りないので、サークル外の友人も引き入れたような記憶がある。

そして、各人とも経済的に潤沢ではなかったので、商品カタログの中でもかなり安いものを選んだ記憶がある。

それがタイトルの写真のユニフォームだ。実家の元自分の部屋の押入れで眠っていた。

アンダーシャツやらストッキングやら全部揃ってはいるものの、ゴム部分が加水分解していたり、カビと言うかシミでスッカリ汚れたりしているものは写さなかった。

チーム名はメンバーの1人がファンであった、アメリカのプロレスラーの名前だ。

誰もそれを超えるアイディアを持ち合わせてなかったんだと思う。何せノリと勢いだけで作ったチームだし。

チームには経験者も何人かいた。高校野球出身者、リトルリーグ出身者といった具合だ。

ただ、結成したはいいけれど、どこかの団体に登録するとか、草野球の大会に出場するとか、そんな活動は皆無だった。

記憶の糸を辿っても、もしかしたら1試合しかやってないかもしれない。

1試合のためのユニフォーム。まるでオールスターゲームだ。

思い出よさらば

大学時代にユニフォームを作って草野球をした。その記憶はずっと残っていたし、その時のユニフォームが実家の押入れに入っていることも記憶していた。

けれども40年程の間に、それを出すこともなかったし、当然着たことがある訳もない。

そして、当時の試合の記憶も殆どない。

僭越ながら、当時お気に入りだった巨人軍の投手の背番号を付け、先発で登板し、思いっ切り下手クソな牽制球に失笑され、お情けでボークを取られなかった記憶だけはある。

恥ずかしい記憶は忘れようにも忘れられないものだ。

キャッチャーとのサイン交換もせずに変化球を投げたら、変化球投げるなら先に言えよと文句を言われた記憶もある。

正直なところ、思いのほか変化したので心の中ではニンマリしていた。

思い出はそんな程度なのだ。

だから、身辺整理にあたって処分することに決めた。

保存しておいても、後を引き継ぐ子どもたちに迷惑をかけるだけだろう。

実家の片付けは、いよいよ自らの思い出に踏み込んで来た。

何をするにも、あーでもないこーでもないと激しく逡巡して、亀の歩みに一層磨きがかかることになるのだろうな。