センセまとめ。よかったら読んでよ。

『死』にまつわる話です。(苦手な方はそっ閉じ推奨重くて長いです)

最近、人生初の喪主ってものを経験しました。
親でも親戚でもない方の葬儀を私が執り行いました。
葬儀といってもごくごく小さなもので参列者は私一人というものでしたから、喪主というのはちょっと大袈裟かも知れません。
記録として残すために経緯を書いていこうと思う。

亡くなったのは私の仕事のクライアントである85歳の男性(以下、先生とします)。先生はある研究をしており、私はその助手としてここ数年雇用関係にありました。
後期高齢者で、しかも基礎疾患がたくさんあり、障害者手帳を持っていたので、常に体調には気を配っていたつもりでしたが
先日倒れて、あっけなく亡くなってしまいました。

先生は奥様とは死別、お子さんが二人、孫さんもいらっしゃるのですが、もうだいぶ長いこと没交渉で、孤独死を覚悟していました。思うところはありましたが、他人様の家庭の事情に口を挟むのもなぁと思い何も言えずにいました。
生前、自分に何かあったらここに葬式代ぐらいは入っているから頼むね、と、ご自宅の合鍵とキャッシュカードと暗証番号を預かっていました。仕事場の金庫に保管してありました。

先日、仕事中に、先生が不意に
『買い物に行ってくる』と。
近所のスーパーに原付で行くことが多いのですが、その日は雨だったので私は止めました。代わりに私が行くことも提案しましたが、大抵聞く耳を持たず出かけてしまうので強くは言いませんでした。年輩の男性独特の、一度言い出すと聞かないっていうか、指図を嫌うというか。なので諦め半分の気持ちで送り出しました。

15分ほど経った15時20分、仕事場のインターフォンが鳴り、出てみると警官でした。先生が敷地内で倒れて救急車で搬送されたと。
バイクに乗ろうとして駐輪場で倒れていたのを、施設内の職員が見つけて通報してくださったとのこと。
そこで簡単な事情を聞いて、持っていた荷物を渡され、自分の連絡先を警官に告げ、通報してくださった方にお礼を言ってその場は解散。
その時はそこまで重篤だとは思っていませんでした。
とり急ぎ仕事場に戻り、自分の鞄を持ち、聞いていた搬送先の病院に向かうためタクシーを呼んで待っていると、救急隊、医師から矢継ぎ早に電話が入る。心肺停止だと言う。
早く来てくださいと。生憎雨の週末で道路は渋滞。いつもの倍以上の時間をかけて病院に着くと先生は蘇生に成功してはいたが、呼吸も心臓も機械と薬頼みだった。
これは。。と私にでも理解出来た。
担当医師の話では、心肺停止の時間がどのくらいだったかはわからないが、脳へのダメージが相当大きく、このまま回復する望みは殆どない。回復したところで、意識が戻る可能性は絶望的だと聞かされる。心臓マッサージ等も、身体へのリスクが大きく勧めることは出来ない。
なんだか、ぽかーんと口を開けて聞いていた。
要するにもう、死ぬのを待っている状態なのだ。
そこで担当医師に聞かれた。無理な延命処置に賛成ですか?と。。
もうこのまま、楽に死なせた方がいいってことですか?と私は質問に質問で返した。担当医師は無言だった。
先生は晩年大きな病気をし、常に病院や治療を嫌がっていた。
癌のホスピスなんかの話題になると、自分は延命は受けたくないとよく言っていたのを思い出し、延命処置は断った。
そう答えるしか出来なかった。
ご家族の方に連絡を取って欲しいという話や、入院手続きの書類一式を貰いその後先生は救急の病棟に運ばれた。
コロナの関係もあり、自動ドアの向こうに私は入れない。
今生の別れになるかも知れないと思い、看護師に断りを入れてから、管がたくさん繋がれている先生の手を握って、何かありきたりのことを言ったような気がするが覚えていない。
先生の手は冷たかった。そうだよな。雨の中、倒れていたのだもの。

その後は病棟の受付の方に、入院セットと入院の手続きの用紙を持ってまた来るように言われ、何かありましたらすぐに連絡しますので・・と帰るように促され、倒れていた時に身に着けていた衣類一式を渡されて一旦仕事場に戻った。

持ち帰った先生の衣類は、上半身のものは全て切られていた(処置のためだろう)そして下半身のものは失禁で汚れていた。
それらを持って先生の自宅に合鍵で入る。まずは入院に必要なものをキャリーケースに詰める。お薬手帳や普段のんでいる薬もあったほうがいいだろうとそれも荷物の中に入れる。
そして入院手続きの書類を書き上げ捺印したのが23時。病棟に今から持って行ったほうがいいか電話で聞くと、付き添いも出来ないので今夜は待機して明日持ってきてくださいと言われた。
そこから先生には失礼なのだが、家族の連絡先がわかるものがないか家探し。本当ならこんなことはしたくはないが仕方ない。
郵便物、住所録、一切置いていなかった。スマホも、ロックがかかっている。こうなるともうお手上げなのだ。
先生の自宅は散らかっていたので、簡単に掃除をし、失禁で汚れた洋服を洗濯してから干し、他の衣服は捨てることにして、
病院から一番近いビジネスホテルを調べ、その日は泊まった。

夜遅く、刑事さんから電話がかかってきた。
当時の状況、出る前の受け答え、私と先生の関係性、既往症等小一時間話疲労困憊になった。明日防犯カメラをチェックして、また話を聞かせてもらうと言われる。勝手にしろ、と辟易したが、それも警察の仕事であるから怒るわけにもいかなかった。

いつ電話がかかってくるかわからないのと慣れないホテルで、殆ど一睡も出来なかった。朝、用意した荷物と書類と、先生のキャッシュカードからおろしたお金を持って病院に行くが、やはり予断を許さない状況だった。
行ったり来たりもしんどいので、病棟の椅子で居眠りをしながら時折看護師に今の様子を聞いたりしていたがついに10時半
心臓の動きが悪くなってきました、と告げられる。
14時27分、ご臨終。ここでようやく病室に通された。
担当医師や看護師から、かわるがわる説明を受けた。お礼を言ってこの後の流れを聞くと、警察の検死の後遺体の処置、その後で葬儀屋さんに迎えに来てもらってくださいとのこと。
先生は病院でお借りした病衣を着ていたので、何か着るものを用意してくださいと言われ、病院のコンビニでパジャマを買う。

そうこうしているうちに刑事が到着、別室に通され、事情を聞かれた。先生の死因は、病名のつけようがないのだそうだ。
死に至るほどの不整脈だったようで死亡診断書はそのように書かれていた。
納得がいかないようであれば司法解剖するという手段もあると提案してくださったが、独断でお断りした。
そんなことをしたって、先生は生き返らないから。
そして、防犯カメラにも、突然倒れた様子が映っており、事件性はないとのこと(当たり前だ)
最後に労いの言葉をいただいて警察との話は終了した。
長い時間待たされていたので、その間に葬儀屋とは連絡済みだったので、エンゼルケアの済んだ先生を霊柩車で迎えに来てもらった。先生は、無神論者で菩提寺もなく、葬儀は最低限でやってくれといつも言っていたので、迷わずそういったプランを選択した。新しいパジャマを着た先生は、棺に納められ、病院のスタッフ達がお見送りに来て手を合わせてくれる中、葬祭場へ向かった。
自宅へ運んでもらうという方法もあったのだが、私がどうしても他人の家でご遺体と過ごすというのがこの時の精神状態では耐えられなかったので、ホールで安置していただくという選択しか出来なかった。自分は冷たい人間だなと思った。

残られた葬儀屋の方と、病院のロビーで見積書の確認、火葬の日を決めてから、契約書にサイン。この時点でも、家族の方とは連絡が取れない状態だったので腹を括った。そして火葬の許可証に、葬儀を執り行う人(喪主)として署名と捺印を頼まれるが、私は家族ではないし、故人との関係性を記入する欄に、該当する項目がなかった。これではお葬式が出来ないのではないか、と焦る私に葬儀屋さんの方は、なんとかやってみます!(どうするんだ?)と励まされ一旦ここで解散。

19時を回っていて病院の会計課も終了していたので、支払い等は明日(そもそも入院の手続きすらしていない)と言われたのでこの日は一旦自分も帰宅した。

翌日、朝一番で葬儀屋さんの方から連絡があり、手続きのほうは滞りなく終わりましたと連絡がありほっとする。そして、故人の戸籍に、葬儀を執り行ったものとして、名前が残りますがご了承くださいと言われ苦笑する。もう、なんでもええわ。

翌日は、午前中から、葬儀屋さんが祭壇等のセッティングに来てくれた。よく考えたら遺影がない。今後どなたかお参りに来られた時のことを考えると、あった方がいいだろうと、追加でお願いする。葬儀屋さんとラインの交換をして、先生の写真を送る。
あっさりとしたものだ。明日の葬儀には間に合うとのこと。

私は、花瓶すらないことに気が付いて、花瓶とお花を買いに行ったり、祭壇の前に置く座布団を買いに行ったり、まだしつこく家族の連絡先に繋がるのものはないかと探したりしてこの日は終わった。
手掛かりはなかった。

翌々日、葬儀。とても簡素な葬儀を執り行い、火葬場へ。簡単に骨になってしまった先生。火葬場の職員というよりは、ワインバーのソムリエのような若い男の子に手伝ってもらい拾骨をする。
驚いたのは骨壺の小ささだ。更に驚いたのだが、この地方は、お骨の一部しか骨壺に入れないそうで、拾骨も一瞬で終わった。
私の知っている拾骨は、全てを丁寧に集めて骨壺に入れるというものだったのでえ?え?ってなった。笑
他の骨はちゃんと供養してくださるとのことで、私は、分骨してもらえないか係の方に聞いてみた。
案外あっさりと許可が出たので、指先の骨をほんの一部、ハンカチに包んでもらって帰ってきた。仕事が好きだった先生のために、なんとかして仕事場に置いといてあげたかった。
こういう行為は、宗教によっては故人への侮辱に当たると聞いたこともあるが知ったこっちゃない。私にも神様なんかいないのだ。

火葬場で待っている間、他のご遺族が和やかに談笑しながら、同じように火葬が終わるのを待っていた。恐らく同じように後期高齢者の葬儀らしく、なんだかまったりと待っていらした。
おじいちゃんにおばあちゃん、若夫婦に孫、ってな感じの団体が、退屈する子供に手を焼きながら待っている。
先生には、どうしてこんな家族がいないのか。いや、本来ならばこんなふうに見送られなければならないはずなのにどうしてこうなってしまったのか。
私が簡単に口を挟めるようなことではないのだが、ここ数日の疲れもあってかそんなことを考えていたら泣きそうになった。
故人本人が望んだ最期だから仕方ないのか。

葬儀と火葬はあっけなく終わり、私は、葬儀屋さんに送られて
祭壇に先生の遺骨を安置し、お線香をあげてこの日は終わった。
一般的な納骨の範疇で納骨日を決め、その手配にかかる費用を聞き、葬儀代と一緒に支払い
また、今後の手続きなどについても色々と教えていただいた。

何か、悲しいよりも無力感が襲ってきて、そしてとても眠たかった。葬儀屋さんには、安い費用で、とても良くしていただいた。
感謝しかない。

葬儀翌日は、病院に治療費(というのもおかしいが)を支払いに行った。
依然としてご家族への連絡先がわからないので、とにかく今、私に出来ることはしておこうと、ケアマネや介護サービス、既往症でお世話になっていた主治医等に連絡を入れた。
ケアマネ曰く、最近、先生は本気でホーム入居を考えていたそうだ。。それを聞いてまた切なくなった。

先生は、3月にコロナに感染し、入院治療をした。コロナの症状自体は軽く済んだようだが、退院後、みるみる体力がなくなり、常に顔色も悪く、呼吸も苦しそうだった。
最後に救急で撮ったレントゲンも、肺が真っ白だった。
元々、弁膜症と、呼吸器疾患があったので、予後も関係しているのだろうなと素人ながら思う。
退院してからは、時々意識が混濁したり、倒れこんだり、呼吸が苦しそうにしていたのも何度も見た。

しかし、亡くなった当日は、お昼ご飯も元気に食べていたし、阪神の文句を言ったり、フリーズしたPCにキレたりとても死んじゃう人には見えなかった。。。

身内の死、友人の死、色々な死を経験してきたが。こんな寂しいお葬式で、しかも自分にが喪主になるという経験は初めてだ。苦笑

いずれ落ち着いたら、法律の専門家にお願いして先生のご家族を探してもらい、後は渡そうと思う。(余った葬儀代も含めて)

人の死をみる度、自分なんかどうなってもいいけど、やはり今、自分の目の前にいる大切な人を、今以上にもっともっと大切にしなけばと痛感しました。

今まで先生の相手とお世話、大変だったけど、今度は当分、線香番でございます。。苦笑
先生が数年前、自分で自分のために買ったお墓の場所を聞いておいてよかった。

確認のため見に行ったら、先生の墓石には、自分の名前の代わりに
『絆』
と彫られていました。

なんとも複雑な気分です。。

記録は以上です。
読んでくださった方、ありがとうございました。

※亡くなった直後に、そういや先生との写真が無かったなと思い出して最初で最後のツーショットを撮りました。


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