見出し画像

心を楽にする言葉。

なんだか私はいつも“心地良い言葉”を集めています。
SNSで誰でも自分の考えを語れる時代だからこそ、素敵だなって思う教訓が毎日みたいにTwitterでも流れて来たりするけど、自分に刺さる言葉を見つけてはそれをお守りみたいに心にしまっておくのが好きだし、その受け売りを誰かに聞いてもらうのも好き。

こんな情勢で人と話す機会もめっきり減り、コミュニケーション能力は確実に低下したので、定期的に自分の内側を誰かに見せる機会って大切なんだなって痛感しました。
なんかですね。ブログとかでも良いんですけど、人とゆっくり腰を据えて話す事で『今の自分を書き留めてセーブする&まとめて整理する事』をしていたような気がします。それが失われていたから、チェックポイントも通れないまま先の見えないゲームをずっと続けているみたいに、私にとっては未消化の自分を心に残すような状況でした。
「私は今こんな事を考えているよ。先日こんな言葉を見つけて、なんだか救われる気持ちになったんだよ」って知ってもらう、他愛ない時間が本当に大切だった。

去年末頃、一人の時間が増えた私は敢えて「普段の自分だったら絶対に見ないようなネガティブな物」とかを摂取したりしていました。自分じゃ一生描かないような陰鬱な表現の作品を見たり、これはちょっと悪趣味なんですけど、何かに対するアンチなコメントを読んで人間のあけすけな感情を聞いてみたり…何となく、普段だったら絶対目を逸らしたいはずの物が、何故か急にいろいろ覗いてみたい気分になったんですよね。
で、やっぱり見た後は後悔もしたんですけど「ははぁなるほど、そういう破滅的な美しさもあるよね(私の担当分野とは違うけど)」とか「人間だからそういう考え方もあるよね」とか「案外、それも一理あるかもね」とか。自分の視点以外の世界を垣間見る事で、改めて「私が何が好きで何が苦手で、どう言う性格の人間か」とか「今まで気にしてなかったけど真逆の世界も確かに存在すると言う事」とかを理解して、物事に対する解像度がちょっと上がったような気がします。

自分にとっての「当たり前」と「模範解答」と「憧れ」と、「美しいと思えない物」と「苦手な物」と、いろんな物に触れて、それでも最後まで自分の中に残った考え方が等身大で偽りない自分の本心なんだって気が付く。このわざわざいろんな物に触れていろんな発見を得て行く行為を『思考の濾過』って私は表現しているんですけど、これがなんだか好きなんですよね。心の修行みたいな物でもある。

この数か月くらい私が思考を濾過して残った物は「つくづく、物事に正解なんてないよね」と言う事でした。
「正解」ってつまるところ「自分がこうであるべきって決めた形」の事だと思うんですよね。
みんな、何をして生きてもいいまっさらな世界で、各々自主的に「これはしないようにしよう」、「これはしていこう」って課題を組んでやってるのが密集してるだけと言う感じ。人それぞれで課題が違って当たり前なのに「私は日頃から汚い言葉は使わないように生きようとしているのに何だあの人は!」って、自分の課題を他人に持ち出しても仕方ないし。
間違いも正解も結局全部「本人が勝手にそうと決めてる事」なんだよなぁって思ったら、人から捺される不正解に怯えない事も、自分の正解を信じる事も、割と楽に出来るようになったように思います。
(もちろん誰かを困らせたり、公序良俗に反したらダメだけど)

「正解なんてない」をとことん突き詰めた考え方って言うか、自分が一番納得する物が自分にとっての正解でいいじゃんって言うのが、ここ最近の私の「心を楽にする言葉」だったよ、と言うお話でした。

柔軟な大人になりたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?