「映画ドラえもん のび太と空の理想郷」感想

 出木杉くんがトマス・モアの「ユートピア」を読んでいるシーンから始まるんだけど、トマス・モアの「ユートピア」を読む小五ってなんだよ。
 
……そんな小五はいないので、皆様のために「ユートピア」をドラえもんに置き換えてみましたよ、というのが今回の映画。感想としては、面白いかと言われるとうーん、という感じだが、子供向け映画としては異様に示唆的で考えさせられる映画ではあると思う。
 以下、全編にわたりネタバレあり。

 トマス・モアの「ユートピア」は、架空の理想郷を描くことで、現実の社会(宗教改革前夜のキリスト教世界)を批判する意図があったとされるが、この理想郷は現代でいう共産主義の思想を強く反映したもので、後世のユートピア小説ないしディストピア小説では、ユートピアの掲げる「平等」「幸福」が、住民を没個性化させ、自由を封殺し、画一的な思想の押し付けとして批判された。この映画でも人を洗脳する光「パラダピアンライト」としてユートピアの持つ共産主義的な面が強調されていて、かなり踏み込んだ内容になっている。

 この物語の肝は、心を奪われ三賢人の操り人形にされるパラダピアは決してのび太にとっての理想郷ではなかったけれど、パラダピアで行われていたアトラクション的な楽しい学習や、間違えたり解くのが遅かったりしても馬鹿にされず、むしろ皆で応援してくれるような環境それ自体は、「のび太が自分から学校に行きたがるなんて」とドラえもんに驚かれ、自分から野球に誘っておいてエラーしたらぶん殴るジャイアン、明らかに怒鳴るほどでもない場面でもとりあえず怒鳴る教師(アニメ版では「のび太だからどうせ0点だろ」と思い込み採点ミスした前科あり)、明らかに学校の勉強についていけていないにも関わらず、具体的な対策を一切講じず「勉強しなさい」と怒鳴るだけのママなどの環境によって、あるいは理想郷に逃避したくなるほど自尊心をズタズタにされたのび太にとって確実に必要なものだったことにある。パラダピアは分かりやすいディストピアであるが、その全てが否定されるべきではないものであるように描かれている。

 さらに言えば、パラダピアンライトが三賢人(レイ博士)が驚嘆するほどに効きづらいのび太の勉強のできなさや怠け癖は、ただの怠惰や勉強不足ではなくのび太の生まれつきの個性や特性(別の言い方をすれば、知的障害ないし学習障害)であることも示唆されており(他にも、午後八時から午前五時まで9時間睡眠でもまだ居眠りするほど眠いのび太、「科学の素晴らしい才能があったというのに、何をやっても上手くいかなかった」レイ博士の過去など)、ドラえもんや周りのサポートがどれだけあってものび太の望むパーフェクト小学生どころか、人並みにすら決してなれない可能性もある。藤子・F・不二雄は恐らく漫画的なデフォルメとして描いたのび太のキャラクター像が、国民的アニメとなり時代を経るに従ってグロテスクに映り始めた今日この頃、のび太の「ダメ小学生」という個性とのび太本人そして周りの人々はどう向き合ってきたか、どう向き合っていくべきか、というテーマにメスを入れた。

 そして、ここが古沢良太の恐ろしいところなんだけど、この映画はそのテーマに答えを出したようで出していない。ドラえもんの「本当は、そんなのび太のダメなところが(大好き)」という台詞は子供向けに分かりやすいメッセージとして、そしてのび太とドラえもんの真の友情を示すシーンとしてこの映画のハイライトとなっていて、一見すると決定的なシーンに思えるが、その後にのび太たちが現実の世界に帰還すると、ジャイアンとスネ夫はすっかり元に戻って、「野球に入れてやってもいい、エラーしたらただじゃおかねぇけどな」と言って去っていき、空から降ってきた0点のテスト用紙を見たママが感情的にのび太を怒鳴り散らす。ラストカット、のび太が「そのままの僕を愛してよ~~~!」と叫ぶところは、示唆的を通り越してもはやホラーに見える。つまり、この映画のメッセージは視聴者のもとには届いたかもしれないが、のび太が「前よりずっと好きになった」という「この町」には一切届いていないのだ。「そのままののび太」を愛してくれない町や、「個性」というには些か人に危害を加えすぎるジャイアンは、ちょっとやそっとでは変わらない。「ジャイアン、カッコいいの映画の時だけ問題」に代表される、これまでも劇場版ドラえもんが度々指摘されてきた論点をも、古沢は映画の中で問題にした上で、視聴者に思考を促している。子供向け作品が単なる勧善懲悪から離れ複雑化しているといわれる現代においても、かなり考えせられる部類の映画になっていると思う。

 一方でこうしたテーマ性・イデオロギー性とは異なり、エンタメとしてみるとやや面白みに欠けるというか、微妙な印象を受ける。展開自体はありがちで意外性が薄いからか、最終盤までは平板で盛り上がりに欠けるからか、画的な動きの乏しさからかはわからないが、実写の古沢作品(「リーガル・ハイ」や「コンフィデンスマンJP」シリーズ、「ミックス。」など)と比べて勢いを感じない。一応最終盤の伏線回収に古沢節は残るが、話に山を欲しがったのか、散々ドラたちの邪魔をしたケジメをつけさせたかったのか、直後にソーニャを殺してしまった(後に復元されることが明かされる)ことでイマイチ盛り上がり切れないのもマイナス。物語のテーマ的にあそこでソーニャを死なせる(結局死なせられてない)必要はなかったはずで、無意味に後味を悪くする失策だったと思う。

 総評としては、エンタメとしては微妙だが、子供向け映画とは思えないほどテーマ性のある示唆に富んだ一作。スーパーマリオムービーより子供向けだし内容あるので完全上位互換。

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