「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」感想

 最初に断っておくと、俺はSEEDおよびSEED DESTINYを角川スニーカー文庫の小説版しか読んでおらず、しかも七、八年前の一度きりなので非常に記憶が曖昧という、半ばファンアイテムとして作られたようなこの作品を楽しむには非常にデバフのかかった状態で視聴している。

 まず最初に指摘せざるを得ないのは、全体的なチープさ。変な効果音とともに顔が大きく歪む演出も、オーバーな演技も、全体的に2000年代のアニメっぽさがある……まぁ元が2000年代のアニメなので、それを敢えて維持しているのだとは思うが。個人的には、ストーリー面と異なり画作り等の演出面は時代に応じてアップデートしていい派閥。
 原作再現で済まされないのは、敵勢力ブラックナイツのMS、ブラックナイトスコードのビジュのクソダサさと、搭乗するパイロットの薄っぺらいキャラクター。最初の一時間くらいはこいつらがメインなので、ここのチープさはかなり全体の印象に影響を与えている。
 しかも、全編を通して見応えのあるMS戦闘はほとんどなく、核ミサイルやレクイエム等の兵器による爆発で派手さを誤魔化している印象が拭えない。ガンダムシリーズにはMS戦闘をかなり期待して観ているので、この点もかなりガッカリ。
 キラとアスランが生身で喧嘩するシーンが割と長回しであるんだけど、こういうシーンは他のところで洗練された画作りがなされているから、泥臭さとのギャップでエモく見えるのだが、この映画では終始間延びしたチープ進行なため、ギャップがなくてあんまりエモくない。
 ただ、最後のマイティーフリーダムの登場シーンとか、ディスティニーガンダム&シンが精神干渉を跳ねのけて分身攻撃キメるところとかはカッコよかった。というか、2時間通してそこしか見どころという見どころがない、という。

 ストーリーに触れると、SEED DESTINY(以下、種死)の当然の帰結である「ディスティニープランを否定したのはいいけど、じゃあ結局争い無くならないのどうするの問題」は、提起はするけれども一切進展はさせず、キラとラクスの愛という火種を新たにぶち上げた。
 ここがこの映画の分かりづらいところで、映画を観終えた時点ではイマイチよくわからなかった。なぜなら、キラとラクスの愛なんてものは種死時点ですっかり成熟しきっているし、無い問題が強引に提起されただけで映画を通してもその関係に変化があるようには見えないためである。
 この点については、監督のインタビューを観てようやく真意が理解できた。以下、pixiv百科事典より引用。https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88#h3_3

監督のインタビューとコメントから抜粋。

───中でも、ふたりの愛情にスポットが当たっています。

「愛情はね、ふたりの間には昔からあります。ただ、いろいろ心に抱えているものが互いに多すぎて、それに縛り付けられている。そこからどうやって彼らが自由を獲得していくのか、その「資格」と「価値」を探るのが今回の物語です」

「(あの家)キラとラクスっぽくないでしょう?見晴らしの良い邸宅だけど、ああいう場所を好む人たちではない」

「ふたりとも、静かに暮らしたい人たちなので。だけどいろいろなものを背負わされて、やりたくないことをやらされている。貧乏ではないけれど、心は満たされていない生活でしょうね」

「キラは誰も信用していないのでシンにもアグネスにも出撃許可を出さない。シンはそのことにフラストレーションを抱えている」

「キラとラクスは、この戦いを通じてようやく他人に託す道をひとつ作ることができたのかなと思います」

 

 また本誌において後藤氏はキラの心情を書くうえで大切にしたことについて「デスティニープランを否定したことで世界に対してすごく責任を感じています。その重圧でラクスにさえも心を閉ざし、結果的に独善的になってしまう。そういうやりきれなさを表現するよう心がけました」と述べられている。


 こうした意図が伝わりづらい理由は、「精神干渉」というノイズが入っていることだ。
 ラクスがタオといい感じになってキラが嫉妬するシーンも、ラクスがキラ迎撃を許可してしまうシーンも、ラクスとキラの愛が大義に係るしがらみによって縛られている象徴的な場面だが、同時にファウンデーションによる精神干渉というノイズが挟まるシーンでもあり、二人の純粋な葛藤ではなくなってしまっている。そもそも精神干渉自体、キャラクターを脚本の都合のいいように動かそうという限りなく安直な舞台装置で、もっと他に描き方があったのではないかと思ってしまう。

 敵勢力のやっていることが完全にディスティニープランの焼き直しで、マクロな視点で見ると全く同じことを繰り返しているようにしか見えないのもマイナス。ファウンデーション独自の視点がなく、アウラやタオの精神的未熟さもあり、SEEDシリーズの歴史に果たしてこの事件は必要だったのか、と思ってしまう。キラ、ラクス、タオ、イングリットの四角関係という、すごくミクロな物語なんだよね、これ。(マクロの中にミクロの対立があるわけでもなく、初めからミクロしかない、という意味)

 ストーリーについて一言で言っちゃうと、アスランがキラを一回ぶん殴れば解決した話を、精神干渉とレクイエムとアコードって舞台装置を使って2時間までめいっぱい薄く引き伸ばした話、ってなっちゃうのがしんどいところ。実際、あの喧嘩シーンで映画としては全部終わってて、後はひたすらキラとラクスによるタオ論破タイム。


 まとめに入ると、2時間でできることを全部やりきったようには見えないんだよね。なんか予算と制作期間が少ないアニメみたいな脚本と演出というか、やっつけ感というか……。もっと色々できたんじゃないか、という物足りなさが残る、そんな映画だった。俺はNTが好き(唐突)。

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