キラ・ムラートワインタビュー(2016)

2016年5月13日、聞き手:アレクセイ・アルタモーノフ
http://seance.ru/blog/muratova_interview/

*キラ・ムラートワ監督は、2018年6月6日に83歳で亡くなりました。彼女の残した業績は伝えられねばなりません。ムラートワ生前のインタビューを訳出しました。

*2016年、サンクト・ペテルブルグの映画館ローヂナで、哲学者・批評家ミハイル・ヤンポリスキーの著作『ムラートワ:映画人類学試論』(第2刷)刊行記念としてムラートワ・レトロスペクティヴが開催された。上映作品は、『無気力症シンドローム』(Астенический синдром、1989)、『熱情』(Увлеченья、1994)、『二流の人々』(Второстепенные люди、2001)、『調律師』(Настройщик、2004)の4作品。以下は、それに先立ち、ムラートワが住んでいたオデッサで、『セアンス(Seans)』誌が行ったインタビューの全訳。

——ヤンポリスキーの本は読まれましたか? 自分の映画について他人が書いた本を読むことは容易なことでしたか?

だいぶ前、最初に出版された時に読みました。理解するのは難しかったと、認めなければなりませんね。監督とのインタビューや対話というものは、そもそもとても奇妙なものです。どんな監督だってそうですよ、わたしが思うに。わたしは家の中、あなたは道路にいて、それで窓をはさんで家についておしゃべりするようなものです。「家」という言葉でわたしが念頭に置いているものと、あなたが念頭に置いているものは——あなたはその「家」の中には入ったことがなく外から眺めるだけで、わたしはと言えば内側から眺めるだけなのですから——まったく違うものです。ある人が映画を撮る。別の人がその映画について本や論文を書く。それからこの論文や本について人がまた何やら話す。ここには、ある種のインテリ的不合理があります。わたしは結局こんなふうに思っているんです——「映画が撮れた——これでお終い、ごきげんよう」と。その先は話したいことを話せばいいし、したいことをして、思いたいことを思えばいいのです。その権利があなたたちにはあります。わたしには、そっぽを向いて黙っている権利があるんです。それにしても、この本には単純に分からないことがたくさんありました。良いとか悪いとか言っているのではないですよ。たぶん良いことなんでしょう、とても賢い人が賢いことを書いたということなんですから。ただこれがこの家の中に座っている私に常に関係あるとは限りません。

——でもいずれにせよ、それは各々の生命をもつあなたの映画たちに関係しているわけです。

もちろん、そうです。そこが大事なところ。そうじゃなきゃ抗議してもよかったのです。映画たちは子どものようなもので、独立したものです。わたしは死んだり、頭がおかしくなったりするかもしれないし、その他どんなことでもあり得ますが、映画たちはそれぞれ各様に存在するだけです。この感覚が一番大きな愉悦だと言ってもいいでしょう。いいえ、一番大きな愉悦は、映画をつくっている時ですね。それで二番目の愉悦が、つくった人抜きで存在するような何かをつくることです。素晴らしいことじゃないですか、わたしは散歩にでも出かけることにしましょう。『短い出会い』(Короткие встречи、1967)以前の映画についてひとが語るのをわたしが望んでいなくたって、お構いなく彼[ヤムポリスキー]はその先行する映画を選んだわけです。それならそれで仕方ありません。わたしはこれらの作品との関係においては、もう故人も同然です。唇を震わせて、何かしら声を出すことはできますけれど、それはもう現実とは何の関係もありません。

——ご自身で、ご自分の映画を見返すことはよくありますか?

いいえ、よくあることではないですが、でも時々何かのきっかけがあって、昔の映画のうちどれかを急に見返すことはあります。「どの映画が一番気に入っていますか?」と尋ねられると、わたしはその都度いろいろな映画を挙げます。自分の映画に対するわたしの態度は、見返すたびというだけでなく、思いだすだけでただ変化していくのです。比較的ひどい態度をとる映画もありますし、批判的に接するものもあり、切り詰めたいと思う映画もあります。わたしの人生はとても長いんですから。

——あなたの映画には、以前つくったもの・したことを再度吟味しているようなところがあって、これがあなたから何らかのリアクションを引き出し、新たに次の作品に反映されていますね。

そうでしょうか? そうかもしれませんね、あなたがそう思うのなら。こういうことは傍から見たほうが分かりやすいのです。数学じゃありませんから。

——例えば、最新作(『永遠の回帰』(Вечное возвращение、2012))です。あの映画の中には、あなたの出発地点にあったもの、つまりパロディ的要素へのアイロニックな態度があると思います。具体的に言えば『短い出会い』に関してです。

それが現れるのは、たぶん特徴的なある種のユーモアについてよく話されるからだろう、と書いている人がいました。わたしはそれを狙ってはいませんし、それとこれとを結びつけるつもりもありません。だからといって誰かがこれを発見したこと、目にしたことを妨げるものではありません。それが普通です。

——いずれにせよ、これは観客にあてがわれた場所に関わることですね……。

わたしがいったいどんな場所を観客にあてがいました? そんな場所はありません。

——観客は登場人物と同一化できるでしょうか……。

もしわたしがそういうことを考えていたのなら、もっとお金を稼げていたはずです。冗談抜きで。

——あなたは、自分の映画が見られているかどうかなどどうでもよかったとでもいうように話されますね。そういう本質をもった映画なのだから、と。

ソ連時代『長い見送り』(Долгие проводы、1971)の後になって完全にはっきりしたことは、わたしがどんな映画をつくろうとも、それは絶対に非難を受けるだろうということでした。それでわたしは、「わたしに映画を撮らせてくれればいい、あんたたちはそれをどこかにしまっておけばいい」というようなことを空想するようになりました。「上映しないでいい、映画を見ないでもいい、ただわたしにこれをやらせてくれ、だってこんな低予算で映画を撮ってるんだから、そんなに高くはつかないでしょ」と。わたしは長いこと、自分の映画がどこか地下室にあって、誰も見ることはないはずだという考えで生きていたのです。そういう生存の方法に、わたしは完全に満足していました。ところがある時、わたしにフィルムが全く支給されなくなり、解雇され、あらゆる人が弾圧的な行動をとるようになったことがありました。これにはもちろん、とても傷つきました。映画を単にお蔵入りにしたり地下室に放っておく代わりに、どういうわけかわたしに……。まあ、いいのですが。もちろん自分の友だちや、人生がずっと映画の周りでくるくる回っているのが好きな人に映画を見せることができたら嬉しかったでしょうね。でもこの人生が映画の後に存在しなくなったとしても大丈夫。大切なのは、私たちが映画をつくり、それは完成し、こんなふくふくとした素敵な小品が出来上がったということです。自分が満足できるくらいのものは勝ち取ってきたと言うべきでしょうね。

——『この世界を知りながら』(Познавая белый свет、1979。以後『この世界』と表記)以降、個々の例外は抜きにして、あなたの映画はまったく異なるつくられ方をしています。観客が一体化できるような直線的なナラティヴはなく、エクセントリックな部分のほうが多く、様々な語りのモードが存在します……。

 観客のことは関係ないのですが、わたしは『この世界』が好きです。第一に、これはわたしの初めてのカラー映画で、そのことがわたしを刺激し夢中になったからです。第二に、これは建設(strojka)についての映画だからです。これが本当に気に入っていて、〈建設〉はもう一つの美的媒体となっています——それは今も昔も映画にはほとんど存在せず、おそらくはジガ・ヴェルトフという例外を除きほとんど美学化されていないものです。そこにおいて美学はまだ始まったばかりで、ルールなどまるで存在していなかったのです。それはインテリアでありウルバニズム的なものですが、そうでなければならないのであって、その時こそ良い趣向になるわけです。『この世界』はわたしにとって飛躍の一作で、フェルナン・レジェとかそんなようなものです(よく分かりませんが)。ヤンポリスキーは、基本的に自動車(機械)の中にあるあらゆるものについて書いています。自動車(機械)もまた当然ながら〈建設〉の一部分であり、そこにおいてわたしにとっては〈建設〉こそが最も大切なことなのです。それは、何か醜悪(異常)なもののように、無から生じるところの何かです。実際にはどんな醜悪(異常)なもののなかにも美があって、そのときに初めて動きがはじまるのです。そうでなければ、つまらない。

——『この世界』の美学についておっしゃったことは、あなたの映画を構造的観点からみた場合の成り立ちに似ています。あなたの映画には、動作やプロットを貫くような確固としたヒエラルキーが存在しません。例えば『調律師』(Настройщик、2004)にはプロットがありますが、それでも動作はあたかもぐるりにばらばらに取り散らかっているようです。

あっちこっちへふらふらしていますよね。もちろん何かを、何らかの分岐=小枝をいっぱい詰め込んで、一つだけのプロット=幹だけがあるようにはしたくなかったのです。こうした分岐=小枝で埋め尽くすという欲望は、わたしだけに特有のものではなく、多くの人が持っていますが、わたしにとっては常に存在するものです。そうでなければ面白くないですから。

——周囲の世界があなたを鞭打つことで、内面に何かしらの抵抗が呼び起こされ、それによって映画が出来あがるということはあるでしょうか?

取りまく世界と、抵抗——これは『無気力シンドローム』だけに関係することでしょう。これは唯一、社会評論的な部分を持つ映画です。砂漠のなかの叫び、そんなようなものです。他の作品は……わたしにもよく分からないんです、これが何かなんて。何かと何かの比較精査です。

——ですが、その中にもしばしばあなたの態度が見てとれます。

態度というものは常に見てとれるものです。それは、何かを目にして、それについて賛成か反対かを表すような映画をつくりたい、ということではないとしてもです。もうあらゆることが何度も何度も言いつくされてきました——善だの、悪だの、それだけ……。悪は——いつも言っていることですが——絨毯の模様に編みこまれているようなものです。悪を除去したければ——糸を引き抜くことになり、そうすると絨毯全体が崩壊するでしょう。それは不可能であり、あるがまま、与えられたものなのです。興味や好奇心をもって、気に入りそうなもの、気に入らなそうなものを吟味することはできますが、それは何かと闘うことだったり、何かに逆らうことではない。それは違います。

——では〈誠実さ〉というカテゴリーはあなたにとってどういう位置を占めていますか?

いったいここにおいて、誠実さを措いて他に何があり得るでしょう? 「わたしはこれこれをつくりたい、誠意を尽くしてこれをつくりたい」「いや、わたしはもうつくりたくない」。ほらね、これはみんな誠実さです。そうでなければ何ですか?

——わたしが言いたいのは、ある人を観察するにしても、いろいろな立ち位置から見ることができるということです。自分の姿を見せずに安全な場所から見ることもできます。そっと逃げ出す可能性を常に残してね。ところがあなたの映画では、あなたの視点はご自身に対しても妥協がないものに感じられます。あなたがそっぽを向いて知らん顔することはありません。わたしはこのことを〈誠実さ〉、眼差しの鋭さと言っているんです。これ[『無気力症シンドローム』]は社会評論的な映画ではありません。というのも、この映画が何らかの一義的な道徳的判断を下すことはないからです。ただそこにおいては美学的な審級が常にその内に含まれていて、そしてそれはとても鋭いものだ——そうわたしには思えます。

たぶんそう名付けることはできるでしょう。それでは、このプロセスの中でまだ取り組む余地のあることはいったい何でしょう? 「鋭さ」とは、「面白い何か」ということです。あなたは何かを目にして、そのために面白い形式(フォルム)を見出した。たぶんそれが〈誠実さ〉ということなんでしょう。それならその他には何が存在するのか、わたしにはよくわかりませんね? わたしにはこれはこんなふうに見えるのだけど、別のやり方でやったほうがよかった? でも別のやり方、ってどうやるの? わたしはここでストップして「他にどんなやり方があるのか、知らないんです」と言っておくに留めましょう。そうでなければもうわたしはうんざりして、面倒になって、何もしないことにしましょう。「さようなら」と言ってね。分からないんです、〈誠実さ〉の意味するところが。わたしに分かったのは、あなたがここに何かしらわたしの美点を見出したいんだな、ということです……。

——それは単にあなたの映画に特徴的なものだ、ということなんです。

わたしについて、よくこんなことを言う人がいました。「とても勇気ある監督だ、とても誠実だ」なんて。何が「勇気ある」ものですか。わたしはただ興味の赴くもの、見えるもの、複雑なもの、特徴的なもの、あるいは逆に単純につくられたものをそうあるがままにつくりたいんです。そのことを〈誠実さ〉と言うこともできますよ。でもそうすると、いったい何が「不誠実」なのか、理解するのが難しくなる。

——単純に、あなたの映画はいつも変化していきました。そこには、様々なものに対するあなたの——内面からの、そして外面からの——リアクションが見てとれると思うのですが。

そうかもしれません。そうなるともう、それは無意識的に起こることです。あなたも変化していくでしょう——生きながら、変わっていく。

——[あなたの作品のように]絶えず撥ねつけられるような感覚をもたらすことは、どんな人、どんな作品にもできることではありません。

わたしは生きているんです。完全に生きていて、死んだような部分は私のなかにはほとんどありません。人生において、わたしはむしろ日和見主義者です……。わたしには自分が生きている間ずっと憎んでいるものがあります。何だと思いますか? 重力です。物質性や重力——こういうものがわたしの内面・外部に巣食う恐ろしく忌まわしい敵なのです。そして映画のことを、わたしはいつも〈自由の王国〉と呼んできました。わたしには本当にそんな風に感じられます。それは呼吸する自由であり、どんなことを考えていたとしても、「すみません」「ちょっと退いていただけますか」「言いたいことはそうじゃない」「意図していたのは別のことです」とかそういうことを考えなくても、したいこと・思いついたことを何でも行う自由です。もちろんそれはわたしにできること、わたしがうまくやれることに限られますけどね。もしわたしが何かをやりたいと思ったり何かを見つけたということは自分で分かるんだけれど、自分にはうまくできないという場合、わたしはすぐさまそれを放り出すことにしています。単に打っ棄るんです。つまり、わたしにはそれをすることができない、それはわたしの仕事ではないけれど、誰か他の人ならできる人もたぶんいるだろう、ということです。わたしは他の形式(フォルム)を模索するか、そもそも自分の関心の方向性を全く転換することにしています。わたしではうまくやれなかっただろうなということは、自分で分かるんです。最近のわたしの映画で『手回しオルガンのための音楽』(Мелодия для шарманки、2009)というのがありますが、そこにたくさんの子どもが寄ってたかって聖愚者(ユローヂヴイ)を虐めるシーンがありました。これはうまくいかなかった。子どもたちに、その場面でとるべき残酷な振る舞いをさせることができず、何かがわたしを引き止めていました。何かに気後れしていたんだと思います。ともかくこのシーンは自分がイメージしていたのよりも、ソフトに仕上がることになりました。駄目だと思ったので、このシーンは無くしました。打っ棄ったんです。わたしがうまくやれないなら、それはつまりうまくいかないということなんです。

——いつだったか「ベルイマンは野蛮さが足りないところが不満だ」とおっしゃっていました。〈野蛮さ〉はあなたにとってどれほど重要なものなのでしょうか? このことばによってあなたが考えていることはどんなことですか?

もちろん〈野蛮さ〉は大切です。わたしがそう名づけたので、もしかしたら他の呼び方もできるかもしれませんね。結局わたしも、その意味を定義することは全然できないんです。〈野蛮さ〉——それはたぶん、物に向けられた真っ直ぐな眼差しです。そこには自分なりの先入観、自分なりのルール、自分なりの理解(概念)があるものですけれどね。もはや、わたしが〈野蛮さ〉という概念で示そうとしたものは存在しないものです。ほら、あの人たち[いわゆる「イスラム国」]がパルミラ遺跡を占拠して破壊したときに、私たちは「おいおい、なんて奴らだ!」と言うわけです。そのくせ「パルミラ」がいったい何かなんて分かってさえいない。ただ他の神々を立てたということだとか、こっちは正しくない宗教なんだとか、お前らはみんな莫迦で野蛮人だなんて思っているんです。ね、ここにも野蛮な何かがあるでしょう。彼ら[「イスラム国」]は斬首する様子をカメラで撮って見せるわけです。当然そこには見世物芝居があるのであって、言ってしまえばそれまでで、文明的な人間が公にできるようなこともあれば、(その人がどんな人間であろうが知ったこっちゃないですが)公にできないものもある——しかしその中にはここでいう〈野蛮さ〉というものはありません。〈野蛮さ〉は、モノに注がれた真っ直ぐで素朴な眼差しのようなものです。

——そしてどうやらある種の境界線がお互いに入り交ったり、上位のものと下位のものとが逆転したり……。あなたは、こうしてカードをシャッフルするかのようです。

それは「良い趣向」とか「悪い趣向」と呼ばれるものです。私たちは、禁じられたものが好きです。「悪趣味」の禁止、それは人間のメンタリティのあまりにも深いところで禁じられているがために、禁を破ったり放棄したりするのはできないほどです。しかしそれは存在していて、肝臓や、あらゆる人の身体にあるその他すべての器官のどこかに居座っています。わたしは人間ですから、人がよく言うように、人間的なものでわたしに関係のないものはありません。私たちは、こうしてカードをシャッフルするようなふりをすることができます——赤いカードはここに置こうだの、ジョーカーは別々にどこかに置こうだのと。しかし実はこのために特別にカードを混ぜているのではなくて、すでにこのようにシャッフルが済んだ状態で人生に存在しているのです。これを破壊することよりほかに、元に戻す手段はありません。罪を犯すことは、おそらく破壊の一つの形態(フォルム)です。わたしはもしかしたら、ただこのごちゃ混ぜの状態を描きたかっただけなのかもしれません。

——教えてください、あなたはなぜ反復や同語反復(トートロジー)をこんなにも好まれるのですか? おそらくもう何度も同じ質問を尋ねられてきたことかと思いますが。

ええ、何度もね。わたしには分からないんですよ。初めはただ、人生においてあらゆることがこんなふうに起こるものでしょ、と感じていただけでした。彼らが話すように、私たちも話し、私たちはあらゆることを行い、あらゆることを繰り返すのだと。わたしが注目していたそのようなリズム、生命のリズムを感じていました。このことに関して多くの人に惹き起こした驚きも目の当たりにして、よくよく考えるようになりました。映画『この世界』の中にこんな瞬間があります。たくさんあるんですけれど、その内の一つです。ニーナ・ルスラーノワとミハイール[セルゲイ・ポポフが扮する役名]がトラックに座っている時に、あるシーンに通りかかって、ニーナは外に出ていく。この時にはまだ音楽が流れていて、その中にはこんな繰り返し(正確に言えば変奏=ヴァリエイション)があります。彼女は一度トラックから外に出て戻り、そしてその変奏曲(ドゥーブル)は残り、二度目に外に出ます。ニーナはわたしに尋ねるんです。「ねえ、どうしてわたし、あなたの映画では二回もトラックから出ていくの?」と。どう説明したらよいでしょう。簡単に、手短に答えるとしたら? わたしは答えます。「リズムのためよ。詩の韻律(リズム)は分かるでしょう? 韻律、語末が繰り返されること……それがリズム」と。そしてそれはその通りだったんです。その瞬間にわたしが考えついたことです。どうしてそんなふうに答えたかは分かりません。美しい答え方だったからでしょうか。これは恋愛映画です。この瞬間に、主人公たちが恋に落ちるこのシーン(靄のようなもので2人はすっぽり包まれます)がもつシチュエーションや音楽、状態を結び合わせて考えてみれば、それが自然だったのです。ダンスのようにね。そもそもモンタージュ中に、多くのダンスの要素があります。考えてみてください、バレエとはいったい何か? すべてが完全に不自然=人工的なものではないですか! 詩とは何でしょう? これも不自然なものです! それが芸術ということなんです。

——しかし、それ[反復]が登場人物の話し方に起こるときには……。

私たちはずっと延々とずっと同じことばかりべらべら話すじゃないですか。

——それは誰も他人の言うことに耳を傾けないからですか?

誰も他人の言うことに耳を傾けないかというと、そうではありません。よく聞いていると思います。ディスコミュニケーションというもの自体、わたしにとっては全く存在しないものです。当然、私たちはそれぞれに多種多様です。それが悲劇的になる場合もあれば、とても楽しいことになる場合もあります。ここに生きるということがある。分かりますか? そうじゃなければとても退屈だったことでしょう。ナポレオンだったか、誰かが「偉大から滑稽まではほんの一歩だ」と言っていました。こう付け加えましょう。「そして私たちはしばしば、その間の小さな空間をうろついているのだ」と。時には一生うろつき回ることになります。「偉大から滑稽まで」に限らず、多くの様々なものからほんの一歩離れているだけなのに、私たちはなぜかその方向に足を踏み出すことはせず、その場に留まってうろつくことを止めないのです。
同じことをべらべら繰り返すのは、私たちの特性であって、まったく同じことを際限もなくしゃべくり、違う調子で話すこともありますが、話の調子さえまったく代わり映えしないこともあります。分からないのは、どうしてこのことがそんなに注目を集めるのかということです。他のあらゆることに比べて、このことが取り立てて奇妙だとはわたしは全く思いません。しかしなぜかしらこれにこだわって、何度も何度も繰り返し尋ねられる……。こうやって一生懸命に何をしようとしているのでしょう? わたしはすべて言い尽くしました。その先わたしはべらべら繰り返ししゃべることに取りかかる。ほらいま、この瞬間にもね。

——分かりました。それではそちらの方へ一歩踏み出すことにしましょう。現代の映画はご覧になりますか?

もちろん、際限なく見ますよ。いつも最後まで見るわけではありませんが、その努力はしています。

——何が好きですか?

好きなものはとてもたくさんありますし、嫌いなものも多いです。わたしが完全に一目置いているのは、ミヒャエル・ハネケです。ほら、例えば彼の『愛、アムール』(Amour、2012)ですが、他に例のないほど構成がシンプルで、ふらつくところが一切なく、結果として完璧で、率直で、強烈な印象を与えるものに仕上がっています。あの映画には小細工や傍道に逸れるようなことはほとんどなく、しかもずっと上へ上へもっと高みへと進みつづけ、常に全てを包括するような何かがそこにはあります。わたしが好きな映画は多いですし、時にはわたしが言っていることとは正反対の映画も好きになります。なぜか今ロシアの映画を思い出せませんが、いつも希望と好奇心とを持って見ているんですよ。そして映画の半分だけとか映画の中のいくつかのエピソードだけ気にいることもよくあります。しかし永遠に記憶に留め、決して忘れないものは……。ハネケは決して忘れません。ソクーロフも決して忘れません——全部ではないですが、いくつかの映画は。最新の映画の中では『ザ・トライブ』(Плем'я、2014)だけがそんな映画でした。

——スラボシュピーツィクィイ[ムィロスラフ。『ザ・トライブ』監督。露語表記からミロスラフ・スラボシュピツキーとも]のどこがそんなに印象的だったのでしょうか?

ただただ、とても気に入ったんですよ。印象深かったのは、この映画が唖の人たちについてのサイレント映画[*「唖」も「サイレント(映画)」もロシア語では同じ形容詞nemojで表す]だというところです。ここには、何かしら倒錯(転覆)のようなものと要領の良ささえあります。このことがわたしをどこかへ投げ出したんです。そもそも芸術がどんなふうに生まれるのか、ということを考えさせられました——粗暴な人たちのところで、なにか儀式的な物ごとのなかから、恥と怖れから……どう生まれるかということです。むかし人は、例えば虎や、襲撃の矛先となった誰かを呼ぶことを怖れていました。呼ぶことは、すでに敵の注意を自分に惹きつけることを意味していたのです。だから彼らはこれについて話すのではなく、何らかの方法で示したり踊ったりするのみだったのです。これはアレゴリーだったのです。アレゴリーとは何か? それは一般的に芸術なるものの形象であり基礎となるものです。このゲームのように、私たちがどこにいたのかということは話さないで、したことを示してみせましょう。物をその名で呼ばないことにしましょう。そしてすべて要点を避けて遠回しに言うだけにしましょう。それは無作法なことかもしれませんし、あるいは恐ろしく、あるいは恥ずかしいことでもあるでしょう。おそらく監督はこういうことを意図したのではないかもしれません。しかしわたしは、こうしたことと結びつける方向に誘われてなりません。つまり、この映画はただ唖の人についての映画に留まらず、唖の人がこのような生き生きとした形象性=比喩性(obraznost’)を表現しているものだということです。わたしはそもそもパントマイムや身振り言語、その他諸々がとても好きなのです。唖の人の会話にはまさにそのパントマイムが存在します。おそらくそのためにわたしはこの映画が気に入ったのでしょう。それを抜きにしてもこの映画は本当によく出来ています。
こんなふうに、〈台所〉映画で良いものはたくさんあります。〈台所〉と呼んでいますが、これは非難ではなく、単なるジャンルの名前であり定義です。マーシャおばとワーニャおじが台所に腰かけていて、ワーニャおじが面白おかしく話しかけると、マーシャおばは彼に答える。それで誰かが扉の後ろで盗み聞いている。そんなふうにぺちゃくちゃぺちゃくちゃするわけです——誰が誰と結婚したとか、誰がシングルマザーになったとか。「ねえ、ほんとのところ何が起こったか知ってる? じゃあ教えてあげる」みたいな感じでね。これは良い映画です。どうも色々なものを反復してはいますが、とても良い映画で、時おりただただ素晴らしくさえあります。似た映画を思い出します——『クレイマー、クレイマー』(Kramer vs. Kramer、ロバート・ベントン監督、1979)です。その後何度となく変奏され繰り返される、使い古された単純なシチュエイションですが、あれほどまでの完成度があります……。わたしはそもそも俳優の仕事に驚嘆を覚えることはあまりありません(チャーリー・チャップリンは例外です)。俳優目的で映画を見に行くことはないんです。わたしが聞くのは——「監督は誰?」とか「どうやってつくられたの?」ということです。あの映画でも、わたしが気に入ったのはあの単純で原始的な、過剰なところもなく、緊迫したシチュエイションや転回もないストーリーであり、ただあるがまま、穀粒のなかに収まるように映画の中にすっぽり収まっているストーリーそのもので、そんなふうに初めから終わりまで、すべてが素晴らしく微細な陰影(ニュアンス)がつけられています。わたしはもちろん、ただ誰かが何かをすることに成功しているというそれだけで感嘆してしまい、心奪われてしまいます。それから、小さな何かに対して顕微鏡的な眼差しが注がれているとき。このへんにはたくさんのバクテリアや微生物、その他良いものも悪いものもたくさんありますが、変化はほんの少しずつであっても、変化することによって強くなっていく。そもそも戦闘やら爆発、それから銃撃も、スピードレースも必要ないものなんです。わたしは反対するものではありませんが、こういうことにもう長いことわたし自身うんざりしてしまっていますし、誰もこのジャンルで新しいことは何もやっていません。ところがこの映画『クライマー、クライマー』は、最近見直したのですが、それでもやっぱり昔むかし初めて見た時と同じ感覚を得たのです。それは俳優の微細な陰影(ニュアンス)が付けられた非-反復性のようなものが成り立っているからですし、それに大切なことはどんな労力や増幅とも無縁の、そうした些細な物への微細な眼差しなのです。だってプロットに何らかの注射を施すことはしばしばあることですし、増幅が行われるとそこから「ヤバさ」が出てくるというわけですね。これも良いことです、とても良いことです。もし頭を働かせて考えついたのならね。しかし何よりも良いことは、何も手を加えず、あるがままの状態である時です。そんな場合もあるものです。
そんな感じで結局映画はたくさん見ますが、その代わり(当然ですが)全部の映画が見るべきものだったとは思っていません。フランス映画とアメリカ映画とを比べたら、当然アメリカ映画に軍配を上げます。アメリカ映画は映画の草分けとされていますが、それをぶち壊しているのも同じアメリカ映画です。反復に反復を重ねているからです。しかし並行してとても優れた映画も存在します。フランス人は、ね、何と言うか……ちょっとばかし腑抜けたような民族でしょう。「ご覧ください、こんなに洗練されたものをつくったんですよ、分かります?——分からない?——お馬鹿さんだね、もう一度見てもらえれば分かりますから」って感じでね。一方でアメリカ人は、どうしてかもっとスポーツみたいな感じで映画をやっているんです。「分からなければ分からないで、次に行きましょう、次は気に入ってくれますよ、分かっていただけますよ」という感じ。言ってみれば、フランス人よりも健康的な人間の見かたですよね。フランスにも愛着を持っているものはありますけれど、でも何にせよたいてい残念な気持ちになって終わりです。「お分かりにならないのですか、私たちがどれほど……」。いえ、私たちに分からなければ、仕方ないじゃありませんか。そんなに腹を立てないほうがいいですよってね。

——あなたはいま何かに携わってらっしゃいますか? それとも『永遠の回帰』が本当にあなたの最後の映画になってしまうのでしょうか?

わたしはいま映画を撮っていませんし、すっかり放棄してしまっています。そう言ってもいいでしょう——「放棄した」と。わたしが言ったのは、この先もう映画は撮らないということ、そしてそれは健康上の理由だけではないのです。たぶん、わたしの中で何かが壊れ、終わってしまって、もう映画を撮りたくないですし、わたしにはたくさんのことが気に入らないのです。いま気に入らないものは、いままで常に気に入らずにきたものです。それは映画に付きもので、本来わたしの仕事ではないものですが、今の言い方で言えば「(映画)産業」には欠かせないものです。そして映画を「産業」とは言わず、ただ「芸術」と呼び習わしていた時代でさえ、こういうことはみな今と変わらず存在していました。わたしはこれに耐え、脇へ退けてきました。この仕事が好きでなかったあまり、わたしにとって嫌なことは全て見ないふりをしていたほどです。なぜならこの仕事は力では勝っていたから。そしていまそれはどうにかして終わったのです。わたしはもう何もしたいと思いません。結局それが普通のことです。普通のことなんですよ。

——以前にはその仕事抜きであなたが映画を撮ることは不可能だった?

それ抜きって、一体どうやって? ただわたしがしたいことだけできたら良かった。何よりも、わたしは撮影とモンタージュ(編集)が大好きです。ですが準備期間やら、あの探求と発見のすべてがあまり好きではありません。ただそこにも反復の素晴らしい瞬間がありますけれど、それでも何よりも好きなのは撮影で、モンタージュは——わたしにとってはいつも神の仕事なのです。

——純粋な創造だからですか?

いいえ、そこには至るところ創造がありますが、創造には克服することが付きもので、ずっとわたしが言うところの〈アクセサリー(装飾)〉と闘っているのです。その中身は本当に様々です。天気から、金と人間相互の関係まで——それは生身の人間で、紙切れやフィルムではありません。モンタージュ(編集)の過程においては、映画に参加したすべての生ある者を屁とも思わず、彼らがくたばろうが、存在しなかろうが、後にまったく現われなかろうが、どうだっていいものです。部屋に閉じこもって、フィルムや記録媒体でしたいことをする——そんな独立した状態にあります。唯一、常に従属しているものといえば——それは電力ですね。それでもやはり……そこには耐え忍んで従属せねばならないものがたくさんあり、だからわたしはいつも言うんです。「監督は誇大妄想がなければ何もできません」と。誇大妄想とは一体何なのか、私たちはよく分かっています。もしそれがなければ、とても困難でしょう。それはルスタム・ハムダーモフ[1944-。映画監督]みたいに——あるところに小さな弱々しい花があったのですが、すぐにこう言って萎れてしまいました。「嫌だ、ぼくは自分の部屋に戻って、引きこもるよ。支払われるはずのお金を受け取りに出納係に行くのも無理だし。あなた、ぼくのために持ってきてくれない?」なんて。
わたしは、自分の誇大妄想とともにとても巧みにすべてに逆らってきたと、自分では思います。ところが今となってはその誇大妄想はもう不要なものなのです。何十億もいる人間の一人になったわけですから。人類はどれくらいいるんでしたっけ——70億人? 言い慣わしにあるように、「風のなかの塵や葉っぱ」の類というわけです。そんなふうに感じるんですよ。過ぎ去っていってしまい、それでお終いというわけです。

*『この世界を知りながら』:https://www.youtube.com/watch?v=kU6gMImdg3E

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工藤順。ロシア語翻訳など。プラトーノフ『不死』(未知谷、2018)、『ゆめみるけんり』。 noteには、比較的長いインタヴューや記事の翻訳を掲載します。 HP:https://junkdough.wordpress.com/ (illust. by misato fujita)
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