NER:新しい居住エレメント

ロシアの文化ポータル「COLTA」から、雪解け期ソ連の都市計画プロジェクトNER(НЭР=Новый Элемент Расселения)に関するエッセイを訳出する。

NERは、アレクセイ・グトノフ(Алексей Гутнов、1937-1986)やイリヤ・レジャーワ(Илья Лежава、1935-)を中心に構想された。1970年には大阪万博にもプロジェクトが展示されていて、日本とも意外に縁があるが、このプロジェクトが日本で研究されている形跡はなさそうだ。2003年にはレジャーワらが「サブストリーム」というプロジェクトを発表し、NERの健在をアピールした。その構想の内容については、つづく本文を読んでほしい。

短く現代ロシアの都市整備の現状について。文中に「ソビャーニン式アーバニズム」というタームが登場するが、セルゲイ・ソビャーニンは2010年からモスクワ市長を務める政治家である。「長い掘削シャベルの夜(Ночь длинных ковшей)」方式[ナチスによる粛清事件「長いナイフの夜」(1934)にかけた名称]と呼ばれる強硬な都市整備事業は、彼の指揮のもと行われた。市内の(政府曰く)「違法建築」を深夜にブルドーザーで急襲、破壊するという非常に粗野かつ強圧的な手法で、確認できる範囲では2016年に2度にわたり行われているようだ。グリゴーリイ・レーヴジン(コラムニスト、建築批評家、ベネチア・ビエンナーレで2度にわたりロシア館キュレーターを務める)とアレクサンドル・バウノフ(ジャーナリスト)は、都市整備の推進派である。

現代モスクワにおける都市整備の表面上に、ロシア思想史上長い歴史をもつ「東と西」の問題が露呈していること、また近年脚光を浴びて久しい(もはや陳腐にさえなった)「サード・プレイス」という考え方のソ連ヴァージョンが披瀝されているのが興味深い。ソ連黎明期のプロジェクトについても触れられているが、文中で言及があるミハイル・オヒトーヴィチの「非都市化」構想については、ロシア・アヴァンギャルド建築研究の金字塔=八束はじめ『ロシア・アヴァンギャルド建築』(増補版;LIXIL出版、2015)の308頁〜を参照するとよいだろう。またロシア語版はさておき、『新しい居住エレメント』の英語版(Alexei Gutnov, etc., The Ideal Communist City, NY:George Braziller, 1970)については、日本のいくつかの図書館に蔵書があるようである。

ダリヤ・ボチャルニコワ「NER:各々みなに属する世界」

元記事:http://www.colta.ru/articles/raznoglasiya/12879

*文中NER(グループ)はグループの名前、『NER』はそのグループによる著作『新しい居住エレメント』の略称、「NER」はその著作のなかで考えられている居住スタイル「新しい居住エレメント」の略称である。

*ちなみにロシア語で「消費」と「需要(欲求)」は同じ単語potrebnost’/potreblenieで表わされる。

 2010年代ロシアでは、アーバニズム(都市計画)について活発に議論されている。中でも特に多く議論されているのは、政治的自由にいっそう大きな制限が課せられ、政治的代議制システムが機能しない中で、様々な都市整備プロジェクトに満足することは可能かという問題だ。レーヴジンとバウノフによれば、これは「ヨーロッパの市民(grazhdane)」党 vs. 「ヨーロッパの都会人(gorozhane)」党のコンフリクトであり、政治的自由と快適な日常のどちらをとるかという選択なのであるという。加えて、両党派がロシアの政治的リアリティと都市環境の基準にしている(大文字の)「ヨーロッパ」という概念もまた、2010年代ロシアならではのフィクションである。このフィクションが、時にはゴーリキー公園(モスクワ)や新オランダ島(ペテルブルク)[といったプロジェクト]のなかで実現することになるわけである。しかしこうした個々の成功事例から、論争はより烈しく燃え盛るばかりだ。町の行政は、公園や通りを整備するためのあらゆる進歩的プロジェクトに関して、すでに一度ならず経験のある「長い掘削シャベルの夜」方式を自家籠中のものとしているのだからなおさらである。ソビャーニン式アーバニズムの擁護者レーヴジンにとってさえ、そうした都市整備の方法論は意に沿うものではない。レーヴジンは2016年2月、モスクワでキオスク群の最初の撤去があった後に「ソビャーニン式アーバニズムは死んだ。悔やんでも悔やみきれない」と言い切った。そしてアレクサンドル・バウノフだけが辛抱強く次のような説明を続けている。「中産階級が快適さを志向することは、ヨーロッパの現在地へと向かう道のりであり、我々はみな世界についての我々の幻想的な想像と手を切り、ましてその世界からロシアを除外することをやめるべき時だ」と。バウノフによれば、2010年代ロシア・アーバニズムは他の「普通の」国々のアーバニズムとまったく変わり映えのしないものなのであるという。

 この論争には、当然今まさにロシアに存在する特殊性がとても多く含まれている。だがその基礎のところには、革命のロジックと改革のロジックという[2つの]原理の間の緊迫関係があり、この2つはそれぞれ各様に、社会的・政治的発展事業において都市を変貌させる役割を当然のように要求するのである。この対立は、すでにフリードリヒ・エンゲルスの『住宅問題』[原題:Zur Wohnungsfrage、1872〜73]という統一タイトルで知られる一連の覚書のなかによく表われている。このテクストのなかでエンゲルスは、2つの対立すると思われる潮流に批判の全力をぶつけている。(具体的にはプルードンの)空想的社会主義と保守的(ブルジョワ的)博愛主義の2つである。工業化が進む19世紀のヨーロッパにおいて都市化が急速に進み、住居危機がますます悪化するなかで、この2つの潮流は労働者の生活条件の向上と貧民窟の根絶とを目指して同等の力でもってしのぎを削りはじめていた。エンゲルスにとってこうした努力は、欺瞞であるだけでなく結果の見込めないものでもあると思われた。エンゲルスは次のように主張する。「この住居の欠乏状態に終止符を打つにはたった一つの方法しかない。支配者階級による労働者階級の搾取と抑圧を完全に廃絶することである」。エンゲルスにしてみれば、労働者の状況を改善させるためにどんな改革や一時的な試みをしたとしても、生活を向上させること——つまり工業資本主義システムに内包された、根底的な階級的不平等を根絶すること——はできない。この観点からみると、都市の変貌が不可避であると主張する都市整備計画や(バウノフやレーヴジンといった)社会変革者たちのあらゆる試みは、資本主義社会の社会的不公平を覆い隠しプロレタリヤ階級を世界の根本的改革から遠ざけておく方策に過ぎないのである。

 サイクルロード、公園、キオスクをめぐる現代の論争に際して、一般のロシアの人々は時おり自覚もないまま、次のような話をしようとするようだ。「具体的にどうやってロシア社会を再建するべきか?」とか「そもそも革命的大変動抜きで一定の変革を成し遂げることは可能なのか?」といったことについて、それから「システム的な腐敗を根絶しないことには、あらゆる都市計画が官僚階級だけの利益(つまり金もうけ)のためにはたらき続けるというのは本当だろうか?」といった類である。しかしこうした整備プロジェクトについての会話が、望みどおりの未来のシナリオに基づいてもっと腹蔵なく行われ、また近代都市・近代国家において容認できないことをもっと正直に指し示すものであってほしいと思う。エンゲルスに倣って「都市の変貌は副次的なものであり、変貌それ自体としては社会の軋轢や都市についての論争を許容する能力がない」と考えるにしろ、これは様々な未来のプロジェクトを打ち立てて議論するためにはとても効率的な手段であると同時に、より具体的な条件に則った政治的領域を設定するためにも効率的な手段でもあるが、それはヨーロッパのものは「ぜんぶ良いものだから賛成」だとか、ロシアのものは「ぜんぶ悪いものだから反対」だとかいった話ではない。ロシアではそういう種類の論争には長く豊かな歴史があるのだからなおのことである。革命以前のロシアでも、ソ連時代にも、都市をめぐって多くの議論があった。それに加えて、たとえ1920-30年代の都市派(アーバニスト)と非都市派(ディアーバニスト)の論争については啓発された大衆(そのような人たちが存在すると信じたいものだが)の耳に多少は聞こえたものであるとしても、1940-50年代の都市をめぐる議論や、ましてソ連後期の探求プロジェクトはその大部分が忘れ去られてしまっているのである。

 わたしの考えでは、このアーカイヴのプロジェクトの中でもっとも興味深く、未だ十全に評価されていないものの一つが、1960年代の頃に立ち上げられたこのNERグループのプロジェクトである。1950年代後半、名誉回復と都市建設の原則に関する広汎な議論のうねりのなかで、MARKhI[モスクワ建築研究所]の学生グループが、未来の理想都市を設計するための探求に乗り出した。このプロジェクトの最初の設計案は、1960年に集団卒業制作のなかで提示された。未来の居住「原型(マトリクス)」のより詳細な描写は、NERグループがストロイイズダート出版から出した『新しい居住エレメント(New Element of Habitation):新しい都市への途上』(1966、以下『NER』)というタイトルのマニフェスト本にまとめられた。この後プロジェクトの最終的なバージョンは、同時代のアーキグラムやTeam10といったチームのプロジェクトとともにミラノトリエンナーレ(1958)や大阪万博(1970)で展示された。ジャンカルロ・デ・カルロのおかげで本はまずイタリア語に、その後英語に訳された[英語でのタイトルは”The Ideal Communist City”]。NERグループのプロジェクトは、モダニズムをヒューマナイズすることを目指した1960年代ヨーロッパのネオ・アヴァンギャルドから分けて考えることができない一部分である。それでも内容的には、NERグループの研究は同時代ヨーロッパのチームの諸プロジェクトとかなり大きく異なったものだった。NERのメンバーはスターリニズム修正の波の中で、共産主義に与える建築としての形を見つけだし、少なくともミクロライオン(集合住宅地域)やフルシショフカ[フルシチョフ時代に多くつくられた団地群]に対して「人間の顔をした社会主義」時代のオルタナティヴを示そうとしたのであった。未来社会における日常生活の新しいフォルムを探りだし、またそれによってスターリン亡き後、ソ連のプロジェクトが更新されていったその成果を定着させようとするこの方向性が、NERグループと1920年代~30年代初頭の「文化革命」時代のアーティストや建築家とを接近させることになるだろう。

 実際のところNERグループのプロジェクトは、消費に依らないポスト工業化社会[原語では消費社会の対義語としてのポスト工業化「非-消費社会」]のための、ソ連全土規模の、そしてより広くは惑星規模の居住システムを提起する試みである。この意味でNERは、現代ロシアの都市計画(アーバニズム)に対してはもちろん、消費文化と個人所有といった根底部分に対してめったに疑問を呈することのない世界的な主流に対しても十分にラディカルなオルタナティヴである。NERグループは、「各々みなに属する世界、ロジックとひとに対する敬意に満たされた世界」(『NER』、116頁)をつくることを可能にするような居住構造を見出すことをその課題としていた。NERメンバーは考察を進めるなかで、個人の土地所有というレアリヤに制限を受けることなく、「限定された」大きさの「均一な」住居のネットワークをつくることを提起し、そこでは居住者が10万人以内で、可能性の「平等」が最大限に保証されるとした。NERメンバーは、まさにこのように共産主義の根底的長所をとらえていたのである。具体的には、彼らは以下のように力説していた。

 「共産主義体制において各人は、自由に、調和して、己れの能力を発展させ、創造的な仕事のなかでその能力を用いる現実的かつ均一な可能性を持つことだろう。創造的な個人としての人は、共産主義社会における関心の的である。住居問題の観点からするとこのことは、共産主義体制下においてはどこに住もうとも、自己成長と創造のための良好な社会的・物質的手段を等しく有することになるということを意味する」(『NER』、22頁)。

 この理想像を実現させるため、NERのメンバーは無計画な都市発展に終止符を打ち、「計画的で中断を挟んだ」工業の発展に転じること、そして経済的=地理的区画の規模で考察しはじめることを提起した(『NER』、33頁)。経済的=地理的区画モデルのなかで、NERは仮に次の3基本機能ゾーンを割り当てた。1)農・工業生産ゾーン、2)学術センター群、3)居住ゾーン(居住地)である。工業の今後の発展を見越したゾーンも含め、工業ゾーンは基本的に居住ゾーンから離れており、居住ゾーンは農業生産ゾーンと「自由・自然」ゾーンとに隣接している。学術センター群は、学術・研究機関や設計事務所、研究所、高等教育機関、図書館を統合したものとして想定されているが、これは居住ゾーンと近いところにある。NERメンバーは、ポスト工業化経済(あるいは知識経済)とモノ生産の自動化への移行という条件のもとで、生産過程における知的労働の役割はますます大きくなる一方、工業で使役されている労働者の数は段階的に少なくなっていくだろうと考えていた。このマルクス主義的な想像力が、経済的=地理的区画の空間的な組織化という彼らの理想像の根底にある。NERグループの観点からすれば、工場や農生産の場ではなくまさに学術センター群こそが、次第にますます重要な労働力の要になってゆくはずなのである。学術センター群こそ、最も居住地に近いところに配置される。居住ゾーンは、住居そのものはもちろん、託児所から中等教育機関に至る子どものための施設や自由な交流のためのセンター、社会的余暇ゾーン、公園、そしてクリーニング店や食堂、商店といった多様な社会的サービス企業を併せ持つべきとされた。居住地のデザイン工程のなかでNERメンバーは、高層建築やそれに対応した歩行者用道路を具えたコンパクト・シティという理想像を志向した。

 ソ連時代の都市についての議論の歴史においては、NERを非都市派(ディアーバニズム)と都市派(アーバニズム)の理想像を調停する試みだと読むことができる。我々が目にするのは、生産と社会的再生産の中心を複数もった地域居住のモデルであり、このモデルは交通システムと、そして地域内部の生産物・ひと・情報の流通を担保する種々のコミュニケーションツールと分かちがたく結びついているもので、どこかしら非都市派の主導者ミハイル・オヒトーヴィチの諸プロジェクトを想起させる。同時にNERグループは、大きさが限定されたコンパクトな住居のなかに生活を集約するよう提案した。学術センター群も開館日にはコンパクトな「人口稠密」住居として考えられている。換言するとNERグループは、一方で地域や国の枠内で個々人みなに対して可能性の平等を保障するような均一なインフラストラクチャーの構築を志向しながら、他方では集団であることの重要性や交流・交換のための空間を整備する必要性を信じていたのである。NERグループの観点からすれば、個人の解放や多面的で幸福な人生といったものは集団の外部では実現不可能なことであり、つまり建築家の課題は個々人の要求に応えるのみならず、多様な集団の要求にも応えるような居住のかたちを見つけだすことなのだ。だからNERのプロジェクトは、居住システムのなかで未来の孤独な人間の欲求や交友関係のある人の欲求との間のバランス、そして集団化と個人主義化の間のバランスを探り出す、ソヴィエト史の新しい転換点における試みとして読むこともできるのである。

 この際、1920年代に広く議論されていたような日常生活の集団化の必要性だけが論点になっているのではないことは特に強調しておいていいだろう。生産現場においても、また殊に急速に成長しつつある学術・研究活動分野においても、集団の重要性は大きくなってゆくだろう。NERグループのヴィジョンの中では、ポスト工業化経済は自動化の結果として生まれる疎外の世界ではない。それよりはむしろ集団意識の力によって動かされるような世界なのだ。独りぼっちでの仕事に対して、NERメンバーは集団での仕事を対置し次のように述べる。

 「情報が大量に生産されること、いろいろな問題が複合的性質をもっていること、そして孤独に働いているひとにとっては知識獲得の可能性が限定されてしまうこと。これらの結果、知的労働の性質は変わりつつある。情報の享受・交換・処理は、決定的瞬間において個別にではなく、集団的に行われる。あらゆる複合的問題は、活動のいくつかの側面と直截に関係してくるものである。課題の設定と解決には相応しい人々の集団「課題集団」が必要とされる。(略)従って論点になっているのは、時としてまったく互いに通じない言葉で話をする狭隘な専門家の単純な寄せ集めなどではない。価値ある生産的な関係性を築く能力のある、また協同で情報を処理する能力のある、まったく多面的に調和して育った、使命感のある人々の集団について論じているのである。」(『NER』、31頁)

 NERのヴィジョンにおいて機械は、知力をすり減らすような労働からひとを解放し、より多くの時間を自己成長と自学に充てる唯一無二の機会を人間に与えてくれるものである。この意味でNERのコンセプトは、最大限に「意識的に選択した分野における専門技能を補完し豊かにするような、個々人の嗜好・興味を切りひらくこと」を可能にするに適した生活条件はもちろん、そうした労働条件の創設に向けて働いているのである(『NER』、31頁)。生きることの根底的な領域—労働と余暇—が、相互に補完しあうものとして考えられている。同時にこのことが意味しているのはNERの都市建設コンセプトにおいて、人間は労働者あるいは消費者という像に集約されないということである。

 マルクスとエンゲルスの考えに倣って、NERメンバーは、労働時間が段階的に短縮され、逆に自由時間は次第に増えていくだろうと考えていた。

 「労働時間の理性的削減の限度は一日あたり4時間であるという計算と、それから日常的サービスシステムが理にかなった形で編成されることの結果として、今後10年間で自由時間は(引用者:1966年に出された『NER』にこのように書いてあるのであるが)、おそらく一日あたり8〜9時間にまで達するだろう。休日の日数と年次休暇の長さが増えることを考慮しないならば。」(『NER』、61頁)。

 こうした思索が、NERメンバーを十分にラディカルな住居の再検討へと突き動かしていく。「新しい居住エレメント(NER)」の生活は、文化的な生産・消費・交流・自学といった機能を併せ持つ余暇センターの周囲で成り立つことになる。NERのコンセプトにおいてこのように都市編成の主要な計画として考えられているのが、1920年代の労働者クラブのようなタイプの多機能を有するクラブである。そして「NER」の居住人口さえこうした「文化的な自主活動のための発達したセンター」(『NER』、60頁)を創設する必要から、グループとして計算されている。NERグループの概算によれば6万人の成人人口を含むちょうど10万人の人口が、「興味関心に応じたクラブが活発に活動するための最小限の社会的ベース」(『NER』、65頁)である。

 事実この提案は、より均一なインフラ構築という同じ理念や、文化的価値・組織が首都や主要都市に集中していることへの批判的な評価によって動かされている。1961年のソ連共産党綱領に呼応する形で、NERメンバーは「図書館、レクチャーホール、閲覧ホール、劇場、文化センター、映画館のネットワークを拡大すること。人民大学、演劇集団やその他自律的な文化的組織を広く発展させること。意欲と能力をもつエレメント内の労働者全員のための、みなが利用できる学術・技術研究所、アートスタジオ、映画スタジオの広いネットワークを創設すること」(『NER』、63頁)を提唱した。加えてNERグループが主張したのは、「余暇時間と文化的欲求の増加に応じて」そうした興味関心に基づくユニヴァーサルなクラブは、人びとが「家庭や(必須の労働時間のなかで)職場で過ごすのより多くのとは言わないまでも、それとちょうど同じくらいの時間」(『NER』、65頁)を過ごす場所になっていくだろうということである。まさにこのために、住居にもっとも近いところにクラブがあるのだ。このようにNERグループは「家—クラブ—仕事」あるいは「仕事—クラブ—家」という一定のルートを提起しているのだが、このルートはまったく同時に、個人が独居ゾーンを出て、興味関心に応じた交流エリアを経て、それから仕事上の付き合いのエリアへと向かう運動を反映しているのだ。

 クラブ・ライフへの参加はまた、多段階システム——講義・展覧会・討論会・出し物に比較的消極的に参加することから、技能向上や活動領域変更の目的で教育プログラムに参加すること、あるいは自分の関心ごとへ熱中する者、また生徒として部会やサークルでの活動に積極的に参加することに至る——としても考えられる。そうしたクラブは、知識交換のためのスペースであり、コミュニケーションとエンターテインメントの場なのである。文化的な「生産と消費」は、居住システムのまさに中心に位置づけられている。物質的な生産、日常、消費——これらもまたすべて居住システムに不可欠の要素ではあるが、それらはコミュニケーションと知識を求めるひとの欲求の周辺でしか成立しない。

 こんにちNERグループのヴィジョンを、1960年代のユートピア——教育や文化、人間のコミュニケーションを通じた解放への信仰に基づく、おまけに中央集権化された官僚的管理システムに強く依存した、さらにはエコロジーの問題には無関心なユートピア——として退けてしまうことは簡単である。私は、このプロジェクトを批判するのではなく、このヴィジョンの根底にある価値をよく考慮すること、そして都市整備の新しいイデオロギーの根底にある価値観にもっと注意深く目を凝らすことが大切だと考える。路面カフェ・ショップがある歩道の世界、これは「各々みなに属する世界」だろうか? 新しい[都市]整備プロジェクトにおいて、文化の生産と消費を求める人間の欲求、また消費というコンテクストの外部で行われる他の人との自由なコミュニケーションを求める人間の欲求に、私たちは十分な注意を傾けているだろうか? この価値は首都や大都市の住民のうちの誰かしらにとってアクセス可能なものだろうか? こうした問いを提起しつつ、同時にNERグループが、国が住宅危機の解決に向けて動いているように思われた時代に答えを探し求めていたということを忘れてはならないだろう。とはいえエンゲルスが示した通り、住居問題の解決にははるかに根本的な手段が必要であり、おそらく本当のところは2010年代のロシア・アーバニズムの領域の外部にあるのであろう。

(了)

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