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『ルックバック』は最後の「マンガ家マンガ」なのか?

 『ルックバック』が話題になると、どうしても原作者藤本タツキの半自伝的作品であること、そして京都アニメーション放火殺人事件が影を落としていることに触れないわけにはいかない。

 漫画家が主人公である以上、本作は「マンガ家マンガ」に違いない。だから堂々と”自伝もの”と銘打っておきたいのだが、”半自伝”に留めざるを得ない理由がある。確かに、あの『チェンソーマン』の作者でもある藤本タツキは、本作の主人公たちとルーツが近いことを考えれば”自伝もの”でいいのかもしれないが、藤本に恥ずかしさがあるのか、自分そのものを描くことは避けているようにも見える。主人公たちを異性に変える、つまり漫画家をめざす1人の少年(青年か?)を2人の少女に変化させているのである。

 よって「マンガ家マンガ」の代名詞とも言える『まんが道』(藤子不二雄Ⓐ)と一致している部分は、「二人で一人のマンガ家マンガ」を通していることだが、違うのは、『まんが道』の2人は実名と言ってもいいくらいの実在の人物だが、本作の2人はどちらかというと1人だけが実在の人物に見えてしまうからである。

 ちなみに、「マンガ家マンガ」というジャンルを細分化された「二人で一人のマンガ家マンガ」は、他にも『バクマン』(大場つぐみ・小畑健)、『G戦場ヘブンズドア』(日本橋ヨヲコ)などと限りなくあるが、漫画家を目指す少女(たち)を描いたものは、そこまで多くはない。

 一見すると、1人の藤本を藤野と京本の2人に分割しているように見えるが、やっぱり本人の分身は藤野だけにしか思えないのだ(ネーム段階では藤野は三船で京本は野々瀬だが)。京本の圧倒的な画力に嫉妬しつつも、結局は『チェンソーマン』で成功している作者だという前提があるので、スケッチブックが山積みになるぐらい大変な努力家だと分かるが、人間的には未熟だ。

 「学校にもこれない軟弱者に漫画が掛けますかねえ?」などと引きこもりの不登校児を見下すような差別的発言をする程度の人間性なのだ。自分のことだから未熟に描くのだろう。

 それに比べると、京本は、不登校児ながら藤野よりはるかに人間性が高い。藤野は、高校卒業時に、「一人の力で生きてみたいので美大への進学を目指したい、もう連載は手伝えない」と決意を口にする京本に向かって、「そんなのつまんない」、「アンタが一人で大学生活できるわけないじゃん!」と全力で否定するのだ。否定する理由の大部分は、ほとんど自分の都合であるものの、一応は京本への心配も入っているわけだが。京本は自分の考えを絵にしてくれるいわば理想のパートナーで都合のいい人でもある。どっかしら自分のアシスタントのままでいいと思っているエゴも読者(観客)には隠していない。自分にはない圧倒的な画力への羨望や劣等感は隠さないものの闇堕ちまではせずに、努力は惜しまない。けれど京本は自分ではないので、理想化はする。ただただもっと絵が上手くなりたい、藤野が表現したいことを絵にしたいから美大に入るのであって、「都合よく使うな」なんて言わないのだ。ただ自分は藤野のようにストーリーを考えて構成することは出来ないと分かっているので職人として支えようと思っているのである。どちらも才能があるのは相手だと思うものの対等ではない。

 こう言っては何だが、藤野は人間性に問題はあるもののコミュ力は高く漫画以外にも一通り何でも出来るのでクリエイターや物書きには珍しいスクールカーストの上位者で、京本は下位者だ。さらに藤野を優位に立たせているその設定にも、藤本の懺悔が見え隠れするが、それは京アニ事件にもつながってくる。京本自体が自分の分身というより、理不尽に命を奪われた多くのクリエイターの象徴とも言えるし(京本という名前そのものがそれを証明しているが)、それは京アニ事件だけでない。東日本大震災にもコロナ禍の中でも同じことがいえよう。京本の死を受け止められない藤野は、思わず「漫画を描いても何の役にもたたないのに…」と吐露するが、それはコロナ禍で”不要不急”と言われ生活も命も絶たれたクリエイターが少なくなかったという事実を藤本が思い知っているのだろう。

 ひょっとして京本(被害者たち)を殺したのは犯人ではなく、搾取していた自分かもしれないと、でもこれはかなりの創作者特有の傲慢さだ。ただ一応はその自覚はあるようで、もう一人の京本は、いつのまにか藤野のようなストーリーマンガが作れるようになっている。その内容は、藤野の作風を模写しているものの、深遠さでは既に藤野を超えているのだ。

 藤本は、犯人の動機をあえて矮小化し決してテーマにはしない。分身である藤野の視点で描かれているので当然の話だ。犯人をステレオタイプにしてしまうのも藤本の意思だろう。京本を象徴化することによって理不尽に命を奪われた多くのクリエイターたちへの追悼という思いもあるだろう。

 最初に「少年ジャンプ+」に公開されたときの台詞、
「オレのをパクったんだろう」は明らかに京アニ事件での被告人青葉真司なのだが、
「絵から自分を罵倒している声が聞こえる」などは確かに総合失調症と見受けられる。

だが青葉は総合失調症だという検証はされていないので、放火殺人と総合失調症を結びつけることに関しては勇み足だろう。

 斎藤環はそこをどうしても看過出来ない。
「一人の漫画ファンとして、これは精神障害者のステレオタイプだ、と判断したのである」と自身のnote『「意思疎通できない殺人鬼」はどこにいるのか?』で語っている。

 その後、藤本(と集英社)と映画監督押山清高が試行錯誤を重ねながら、一度は「パクったんだろ」を「誰でもよかった」、「社会の役に立てねえクセしてさあ」に修正しながら、単行本と映画版では再度、
「俺のアイデアだったのに!パクってんじゃねえ」に戻している。総合失調症につながる台詞は見事になくなっているが。

 斎藤が看過出来ないのは、精神科医の立場としては、無理ない話だとは思う。   だからと言って、最後の修正版になったことはよかったものの、最初の修正版のままだったらそれでいいと思っていたのだろうか?

「社会の役に立てねえクセしてさあ」は京アニ事件の青葉ではなく、相模原障害者施設殺傷事件の植松聖だろう。植松も創作者の一人なので全く関係はないとも言い切れないが。

 「絵を描くことは楽しくない」と京本に言っていた藤野は、
   「藤野ちゃんはなんで描いてるの?」という問いかけには言葉では返していない。「楽しくない」ことは、藤本が青葉だけにということではなく、自分に羨望する多くのクリエイターに向けて放った言葉でもあるのだろう。本作のテーマでもある「創作」というものは苦しいのだということも。

 第一線で活躍するクリエイターになった藤本は、それを目指す者をもう理解できる立場でないことも知っているし、殺されたクリエイター(仲間)たちの立場にも立とうとしているので、闇堕ちした奴の気持ちなど知ったことではないと言いたいのかもしれない。しかしクリエイターではない精神科医で社会学者で評論家でもある斎藤は、闇堕ちした無敵の人の立場というわけではないが、クリエイターを目指す者の立場に立っているのかもしれない。

 マンガ家マンガにハズレはないが、マンガ家マンガとして事件に関わってしまった以上、今後このジャンルで作ることは難しくなるだろう。藤本も罪作りなマンガ家だ。

 タイトル通り、『ルックバック』は最後の「二人で一人のマンガ家マンガ」になってしまうのかもしれない。

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