無題(2021年9月10日 金曜日)
(写真引用:さくら学院職員室Twitter)
記事を書く時はいつも、メモパッドなどに下書きはしない。投稿ページに、書き出しから順に流れに任せて綴っていく。全体に何か違和感があれば、それまで書いてきたテキストを一度全て消してまた書き直す、ということもある。さくら学院が終わるということについて、書く。そんな自分にとって難しく苦しい作業を、どうやって進め、どうやって書き終えたら良いのか、まったく分からないまま文字を打ち始めてしまっているけれど、時間が経ってから冷静に振り返るような記事とは異なる、軟弱で情けなく不安定な、でも生身でリアルな言葉の羅列もまた無意味ではないかも知れないと思い、何も考えずにとにかく書き始めている。
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まず記しておきたいのは、2021年8月29日の『さくら学院 The Final ~夢に向かって~』が素晴らしいライブだったということだ。楽曲ごとの詳細な内容をここに書くことはしないけれど、多くの人が「清々しい」という言葉を使ってこのライブを表現したように、8人のパフォーマンスは凛々しくエネルギッシュで、さくら学院としての最後のライブであると同時に、彼女たちが自らの足で未来へと踏み出す記念の舞台であるようにも感じた。長い時間をかけて歌い継がれてきた名曲たちが、8人という難しい体制でもしっかりとさくら学院のパフォーマンスとしての輝きを放っていたセットリストの中で、「The Days ~新たなる旅立ち~」と「Thank you…」という二つの楽曲ではそれらを凌駕するほどの素晴らしいパフォーマンスを体験できた。2020年度の8人の為に作られた楽曲が、溌剌としながら崇高とも言えるような特別な輝きを持って舞台の上で表現されていたのが、とても嬉しかった。
そして何よりも、全ての楽曲を演じ終えた後に、8人がそれぞれに紡いだ最後の言葉。それは、あの歌の考古学で体験した「個の存在証明」みたいなものをこちらに叩きつけてくるようであり、僕の心は打ちのめされながらも確かに潤い、充実していた。さくら学院という "形" が終わっても、この8人の、そして卒業生たちのこれからの人生を応援することは、自分にとって他の何かには代え難い経験になり続けるに違いない。中野サンプラザホールから外に出て、晩夏の蒸し暑い夜にぼんやりと考えていたのは、そういうことだった。
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今の時点でこのnoteの記事に書こうと思っているのは、さくら学院の最後ライブのことではない。2020年9月1日にその報せを聞いてから、僕はずっと「なぜさくら学院は終わらなければならなかったのか」ということを考え続けていた。きっと、僕とつながりがある多くの友人たちも同じだったのではないかと思う。もちろん、はっきりとした答えは今もまだ出ていない。一言で説明がつくような理由でないことはよく分かっているし、この1年でその事を考察する言葉や見解に幾つも触れたが、どれも正解を含んでいるようであり、でも充分ではないような気がしていた。グループとしてのビジネスの行く先。不透明な社会の状況が活動に与える影響。所属会社の経営陣が替わったことによる皺寄せ。2010年から2020年にかけてのエンターテインメントシーンの変化。それらのどれもが説得力を持って僕の頭の中に留まっていたが、でも完全に腑に落ちたかと言えばそうではなかった。当事者から仔細が語られることは無いであろうから、結局のところ、僕は表立って見えているものを判断の材料にして、主観から自分が納得できる答えを引っ張り出すしかない。
いや、それはもはや「答え」ですらない。自分の気持ちに落とし前を付けて、彼女たちと同じように自分の足で前進して行くための通過儀礼のようなものだ。だから、ここで書こうと思っているのは、誰かにとって役に立つ論考ではないし、参考にしてくださいと言えるような推察のまとめでもない。ただ僕が自分の気持ちをいったん吐き出してすっきりするためのものであり、極めて内向きの、個人的な文章になるだろう。でも、もしかすると、さくら学院の活動終了について思っている事があるのに言葉にできない、という人にとっては、その人が自分の思いを形にする、ちょっとしたきっかけくらいにはなれるかも知れない。ほんの少しばかりの共感も、逆に「それは全然違うよ」という反論も、そのちょっとしたきっかけになる可能性はゼロではないと思う。だからもし、いま、何か飲み込み切れないもやもやしたものを抱えながらこのテキストを読み始めている人がいたら、時間があれば、最後まで読んでもらえたら嬉しいと思っているのです。
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(引用:「さくら学院からの大切なお知らせ」)
2020年9月1日にリリースされた「さくら学院からの大切なお知らせ」の中の一文。そして、2020年11月15日の配信ライブを観た後の自分の呟き。活動終了の報せを聞いた直後は、僕の頭の中でも外的要因に全てを背負わせるような考え方が多くの部分を占めていたが、ショック状態から抜け出して少しずつ冷静に考え始めると、これはもう少し深い所に本質があるのかも知れない、と思うようになった(もちろん、そうであって欲しいという願望でもあったのだろうけど)。それからしばらく色々な考えを巡らせ、否定したり飲み込んだりを繰り返しながら11月15日を迎えて、2020年度の8人のパフォーマンスを初めて観た時、唐突に、でも何の抵抗もなく、ごく自然に僕の内側から湧き出てきたのが、この言葉だった。
「さくら学院は素晴らしいものになり過ぎたから終わるのだ」。
11月の頃から僕の中にあったその言葉を初めて表に出したのは、それから半年ほどが経ってからだった。「The Days ~新たなる旅立ち~」のMV(Short Ver.)が公開された後に、僕はその言葉をあまり意識せずにツイートしたのだが、思ったよりたくさんの反応をもらった。この言葉にある程度の共感を覚えてくれる人がこれだけいるんだな、と感じた。反応を見ていると、さくら学院がアーティストとして完成に近づいた、というニュアンスに解釈した人が多いようだった。確かに大きな意味ではその通りなんだけど、僕の中ではこの言葉にはもう少し複雑な機微が含まれているような気がしていた。
「さくら学院は素晴らしいものになり過ぎたから終わるのだ」というのは、粗削りの、言わば無加工で未完成なまま湧いてきたような言葉だった。筋道を立てて辿り着いたのではなく、ほとんど直感のようなものだったから、自分自身でもその正体を掴むのが難しく、この1年ほどの間、なぜさくら学院は終わらねばならないのか、という問いが頭に浮かぶと、いつも、この答えのようでいてまったく答えになっていない言葉が思い出されて、自分の内側から湧いてきたその言葉を、細かく砕いて見つめ直してみよう、という試みを繰り返して来たのだ。
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さくら学院の魅力は何かと問われた時、グループのことを知っている多くの人がまず最初に挙げるのが、パフォーマンスの素晴らしさだろう。才気溢れるプロフェッショナルが楽曲と振り付けを創造し、ストレートな歌唱と緻密なフォーメーションから成る難易度の高いパフォーマンスを、小学生と中学生だけで構成されたグループが舞台上で見事に表現し切る様は痛快でもあり、感動的だ。そして、結成当時から受け継がれる楽曲のパフォーマンスを通じて、年度を経てのグループの成長が明らかにもなる。例えば2011年と2020年の「FLY AWAY」をどちらも観てみれば、10年でダンスや歌唱のスタンダードが格段に上がった事がはっきりと分かる。
表現の質の高さに加え、「転入と卒業」という独自のシステムが、さくら学院のストーリーをより特殊で代替のきかないものにした。同じメンバーで活動できるのは1年限りという縛りを敢えてグループに抱えさせ、様々な局面をクリアしていくことで、チームとしての、或いは個としての成長のドラマを生み出した。毎年のようにベストが更新されてきたパフォーマンスのクオリティを、新しい年度のメンバーたちが1年という有限の時間の中で追及していく過程と、その努力の結晶として舞台上で披露される「パフォーマンスそのもの」は、他に類を見ないほどの特別な輝きを持つものになった。
"与えてもらう側" である僕たちからすれば、さくら学院は(さくら学院が魅せる表現は)掛け値なしに素晴らしいものであった。無防備ともいえるリアルな成長のドキュメンタリーと質の高いパフォーマンスを、絶妙に居心地の良い規模を保ったコミュニティで楽しむことが出来る。しかも、その表現は結成から11年を経ても、翳りを見せるどころか、時間が経つごとに研ぎ澄まされ、築き上げられた伝統を矜持としながら、最高を更新し続けていた。2020年9月以降、ファンの間では事あるごとに「こんなに素晴らしいものがなぜ終わってしまうのだ」という意味の言葉が、悲鳴にも似たトーンで叫ばれていたが、それも当然のことだった。彼女たちを応援する誰もが、この素晴らしいグループが終わってしまうということを、ほとんど理不尽な悲劇のように捉えていたと思う。
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それでは、"与える側" であるグループの当事者たちにとって、さくら学院とはどういうものだったのだろうか。MCやスタッフ、メディア関係者、クリエイターなどの言葉から、そこが携わった多くの人たちにとって素晴らしい場所であり、そこで過ごした時間が素晴らしい体験であったということは間違いなかった。さくら学院を創り、動かし、支えていた人たちにとって、その繋がりは単なるビジネスを超えたものになることも少なくなかっただろうし、関係の濃淡に関わらず、携わった人たちからこんなにも愛を注がれるグループは、そう多くは存在しないのではないかと思われる。
そして、僕は「表現」を通じてさくら学院という存在と繋がっていたので、どうしても、その表現の主役であった彼女たちは果たしてどうだったのだろう、ということを考えてしまう。今ではもう全員が卒業生となってしまったが、2020年度のメンバーも含めて、彼女たちの口からは一様に、さくら学院が「大切なかけがえのない場所」であったということが、強い想いと実感を伴って語られている。他の場所では得られない経験をして、信頼できる仲間と出会えて、入る前からは想像もつかないくらい成長することができた、と。歌もダンスも初めてだった自分が、大きな舞台で自信を持ってパフォーマンスできるようになれた、と。
一方で、その時間は決して楽しいことばかりではなかったというのも、少し継続して彼女たちを見ていれば分かることだった。心細かった。厳しかった。泣いた。つらかった。幾つもの壁があった。辞めたいと思った…。彼女たちが涙ながらにそんなことを話すのも珍しいことではない。もちろん彼女たちだけが特別なのではなく、表現を生業とする全ての人たちにそれは共通のことであるかも知れないし、そのネガティブな状況を乗り越えた先にこそ成長と成功があるのだから、それ自体は仕方がない、というよりも必要なものなんだと思う。それでも、成長期の少女たちが「さくら学院生であるため」に費やす体力、精神力、そして "時間" は、舞台上や画面の中の彼女たちが魅せる無邪気な笑顔に覆われてはいたが、僕たちの想像を絶するほど大きなものだった、ということを、決して忘れてはいけない。
さくら学院が活動を終えると知るよりもずっと前から、時々僕の頭に浮かんでいたのは、いわゆる「鉄の掟」のことだった。「中学校の卒業と同時にさくら学院も卒業しなければならないんです…」。そうやって表現される、時限性を持つ在籍のルールは、裏を返せば、転入してしまえば彼女たちが中学校の卒業までは拘束される、ということを示している。さくら学院のパフォーマンスのスタンダードを保つには、表現の主役たちにおよそ3年~5年という長い期間、大きな負荷を強いる必要があるのだ。10歳や11歳の頃から中学校を卒業するまでの間、(ただでさえ学業などで狭められてしまう)芸能活動の時間を、最大限さくら学院に割くことが本当に彼女たちの未来にとってベストなことなのか。そんな問いは、実はさくら学院を動かしている側の人たちの中には、少なからずあったのではないか、と思ったりもする。
言葉で表すのがとても難しい。さくら学院は、受け手にとっては素晴らしい。これは揺るぎないことだ。作り手の大人たちにとっても非常にやりがいのある、充実した仕事だっただろう。そして、表現の主役であるメンバーたちは、どんなにつらい思いをしても、多くの時間を犠牲にしても、それを上回る素晴らしい経験をした、自分の成長に繋がった、と、口をそろえるに違いない。でも。それでも。"さくら学院だけが彼女たちにとって唯一絶対の道であった" と、僕は自信を持って言うことはできない。例えば、その為に使っていたエネルギーや時間を他のことに向けていたとしたら、彼女たちの未来はさくら学院を経験しなかった未来と比べて劣ったものになっていた、なんていうことは、誰にも言えないのだ。そして、舞台の上で表現を続けようと志す者にとって、十代半ばの数年はとても貴重な時間だということもまた事実だ。
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もう一つ、思い出したことがある。
これは、2019年10月、@onefiveの存在がSNS上で明らかになった後に(その時はまだ正体は確定していなかったが、ほとんど特定はされていた)、ふと思い立ってTwitterに投稿した言葉だ。以前から僕が他の場面でも感じていた、ほんのちょっとした違和感。2019年6月29日のBABYMETALの横浜アリーナ公演。@onefiveが登場した時、そしてその正体がはっきりとした2019年度学院祭終了後。立て続けに、僕の違和感を刺激するような "声" が耳に入ってきた。それはかいつまんで言えば「さくら学院の卒業を控えた大事な時期に生徒会長や中等部3年生がこんなことをやっている余裕があるのか?」という意見だったり、或いは課外活動の内容自体をネガティブに捉えるようなものだった。もちろん数はごく少なかったし、それも純粋な声であって、そう考える人たちの「さくら学院への想い」の強さも知っていたから、それを否定するつもりは全くなかった。ただ、僕自身は、どんな活動だろうと彼女たちの未来に繋がるものであるならば優先すべきだし、手放しで応援してあげるものだと信じていたので、そんな声が耳に届いた時には、少しばかり心がざわつく感じをどうしても拭いきれなかった。
思っていた通り、どうしても上手く纏めることができないが、そうやって見た事や感じたものを咀嚼するのを繰り返す中で、自分の中に生まれた「さくら学院は素晴らしいものになり過ぎたから終わるのだ」という言葉の奥底にあるものを探ってみる。もしかすると、それは学校としての役割とパフォーマンスグループとしての存在価値のバランスに対する考えだったのかも知れない。
長い時間を重ねて伝統と誇りが培われ、表現者とそれを支える人たちがたゆまずに努力を続けてきたおかげで、さくら学院は確かに素晴らしいものになっていった。パフォーマンスは年を追うごとに研ぎ澄まされ輝きを増していったし、それを創り出す過程の成長のドラマはより濃密で魅力あるものになっていった。けれども、その分、表現者にかかる負荷も年々大きくなっていったであろうことは想像に難くない。5年前・10年前と現在を比べると、同じ "10歳の彼女たち" でも、背負うものは大きく違ったのではないか、と思う。さくら学院が学校であるならば、その場所が本当に生徒の為に存在するのならば、最も大切なのは、常に「未来」であるべきだ。でも、いつしか「今」を守ることの価値が高まり過ぎてしまったのではないか。それにすべてを注がなければならなくなってしまったのではないか。彼女たちの為に学校があるのではなく、学校の為に彼女たちがいる、という状態になりかけてしまっていたのではないか。
(少し乱暴な言い方だけど、「素晴らしい今」を守る為に彼女たちが払った犠牲の分だけ彼女たちの未来が輝く、ということを、誰も約束はできない。「結局、あの子さくら学院に居た時がいちばん輝いていたよね」というような言葉を、僕はどうしたって聞きたくない)
あらためて、あの「お知らせ」に書かれた言葉を読んでみる。
さくら学院は素晴らしいものだった。素晴らしいことが当たり前になってしまった。素晴らしいものになり過ぎてしまった。プロのパフォーマンスグループと教育機関、チームの完成と個人の成長、伝統と革新。それらのバランスは今まで奇跡的に保たれてきたが、人材(2020年度は8人中7人が地方出身者だった)や時勢、その他にも様々な要因が長い時間をかけて積み重なっていき、それを保つのが簡単な事ではなくなってしまった。そして、さくら学院は素晴らしいままであり続けるために、終わることを選んだ。それは同時に、さくら学院が学校のまま、何よりも生徒たちの未来を考える学校のままであり続ける為だった。そんな考えは、荒唐無稽なものだろうか?
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こんなにたくさん文字を並べてみても、自分の考えていることを上手く整理できていないことに呆然としてしまう。けれども、軟弱で情けなく不安定な言葉を吐き出して来たおかげで、少しすっきりすることができた、とも思う。書き出した時に思っていたように、あくまでも個人的な、自分自身の為だけのテキストになってしまった(何か「結論」を求めて読み進めてくれた人がいたら、ごめんなさい)。
実は、僕自身は、さくら学院が活動を終える本質的な理由をそんな風に捉えているから、2021年9月以降に自分が過ごす時間について、決してネガティブな気持ちばかりではない。むしろ、その学校の本当の価値を決めるのは、これまでの10年ではなくこれからの10年だと思っているので、未来にわくわくしているような気持ちでいっぱいだ。もちろん、さくら学院生としての彼女たちにもう会えない、トークやライブパフォーマンスをもう観ることが出来ない、というのは大きな喪失だと思うけれど、それはきっと、誰かに奪われたというわけではないのだと思う。僕はただ運よく彼女たちに出会っただけで、これからは、出会う前の日々に戻るということだ。彼女たちの輝きを浴びて自分も輝いたように勘違いをしていた、その魔法が解かれるということだ。でも、記憶はしっかりと残る。出会う前と違うのは、「さくら学院を知っている」ということ。そして、それが全てだ。
奇跡のような時間はいったん終わってしまったけれど、その場所から散らばっていった、たくさんの奇跡のかけらを追いかけるという幸福が、僕にはまだ残されている。僕がこれからすべきは、自分自身で何かしら輝ける方法を見つける努力をしながら、そのかけらたちを全力で応援することだと思う。
「その学校は確かに素晴らしいものだった。もう一度甦らせてみよう」
もしも、今から10年後にそんな機運を作れるとしたら、そのきっかけになるのは、きっと他でもなく、散らばったかけらたちと、さくら学院を知っている僕たち自身だ。
(2021年9月10日)
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