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【会津戦争から考える】①積年の恨み

今年の研究課題は「会津戦争」にしている。

2月22日。
一人。白河に戊辰戦争の遺跡回りをしてきた。
一人。あるきながらいろいろな事を考えた。
白河は小峰城を有する郡山の南にある都市。

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①先ずはざっと歴史をおさらい。

1868年4月。戊辰戦争。
薩摩、長州、土佐、大垣などの新政府軍は北上して。
その会津討伐の最初の拠点が小峰城を奪い合う白河口の戦い
会津を中心とする奥羽越列藩同盟はここ白河で新政府軍を食い止めようと奮戦するが、最新兵器と統率のとれた軍事力で歯が立たない。
小峰城を新政府軍に取られた。
城下のいたるところで血が流れ。
新政府軍の板垣退助の活躍で新政府軍は快進撃。
北上し二本松では二本松少年隊の悲劇。
越後は長岡藩。河合継之介の奮戦虚しく会津に敗走。
母成峠を破られ。
白虎隊の悲劇。家臣家族の女子供の集団自決。
老人、農民、猟師、女、子供。会津民総出で城を守るけど。
ついに降伏となった。
その後、会津は下北半島の。。。
そして、西南戦争では志願して「会津の仇!」と。。。
歴史の詳細はここでは書かないけど。
ああ。記事を書きつつ涙が溢れる。

なぜ新政府軍は会津を朝敵として目の敵にし、徹底攻撃したか。
その辺りの話しはここでは書かない。

②会津人は今でも長州人を許していない。


僕が言いたいのは。ここからが本題。
2021年の今でも。
150年以上たった今でも。
会津人は薩摩、長州人を嫌っている。という事実。
もっと乱暴にいうなら。
今でも。会津の人は山口県民を鹿児島県民を嫌っているという事実。
この話を聞いた時は「マジか?150年前の戦争を未だに恨んでいるのか?」と半ば呆れて笑ったくらいだけど。
こうして研究を重ねると。
第三者である新潟市民の僕でも、薩長憎し!という気持ちになる。

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この写真は通りを挟んで左に奥羽越列藩同盟軍。
右に新政府軍の慰霊碑があるのだが。
先の地震で新政府軍の慰霊碑が倒れていた。
これ。逆だったら凄く憤慨したと思う。
正直。新政府軍の方が倒れたのもこの土地の報復なんじゃないか?なんて思った。
その戦争で命を落としたのは、奥羽越列藩同盟軍も新政府軍も同じであるのに。
それを受け入れて地元の方は平等にその碑を建てたのであろうに。
僕は、倒れたのが新政府軍の碑で。正直、胸が救う気がしたんだ。

つまり。
150年たっても。
そこに戦争があって。
人と人とが殺しあって。
罪深き人も罪なき人も命を落として。
そんな悲しい歴史が事実としてあったという事実。
悲劇は変わりなくどちらでも悲劇であるのだけれど。
恨みや、持っていきようのない悲しみは。
自分の立ち位置が決める。

論理とか正論とか正しい歴史観とか。そういうもんじゃなくて。
多分、悲しいくらいに単純に、自分の立ち位置が決める。
冷静でいたいけど。「冷静でいよう」といつも言っている僕ですらそうなんだから。
それはもう、人の情であるから。仕方ない。
当然。そんな時代じゃないという事は、会津の人も知っている。
でも。そんな150年の積年の恨みを会津だ長州に抱いている事を。長州人も知っている
なぜなら、
多分、悲しいくらいに単純に、自分の立ち位置が決める。からだ。

③危ない話しにも展開してしまおう。

これを日韓問題としたら。日中問題としたら。慰安婦像としたらどうだろう。
80年前の悲劇。
それに対する謝罪や補償。
当然。論理としては終わった事。過去の話し。今さらグダグダ言われても仕方ない。
日本人である僕もそう思うし。それが正論であると思う。
でも。
その血や涙が染みついた土地で生きていたのなら。。。
その声や文を受け継いで生きていたのなら。。。
僕は、この一片的な情報だけで。この貧弱な知識だけで、中国の韓国の反日のそれを罵倒する事は出来ない。
罵倒するほどの知識武装もなければ、なにより、そこに生れた人々のホントの声を僕は知らない。
もちろん。だからといって、これ以上の謝罪や補償が必要だというのではない。
ただもっと。
善悪だけでなく。悲しみを共有する必要があるのではないだろうか。

共に立ち上がるには。共に明日を望むには。共に悲劇を悲劇とし。
勝ち負けや善悪を越えて、共に涙する事でしか浄化されないのではないだろうか。
過ちを繰り返さない為に必要なのは。
正論より涙なのかもしれない。

そんな風に思う白河の探索でした。


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