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Cornelius - 夢中夢 -

text : akira

“私の30歳とは全くリンクなんてしない、それはむしろ私が個人的に嬉しいだけ”

私は1993年生まれで今年30歳になった。そんな年。
大学一年生と10歳違う。
コーネリアスと同い年。
痛いファンというものは自分とファンであるもの、ひとを自分に投影しちゃう。
自分でさえ本当はこんなことを願ってファンなわけじゃないのに、と
たまに馬鹿だなあと振り返る時も、
なんでこんな考え方なのかなあと自分を卑下してしまうときも、
私の生きている時間に私がそれに触れただけで、
私は好んでいる、というだけである。

でも好むということはものすごく他の感情とは違って
興味を持つともいうというか
押していく感覚の感情である。

それを踏まえてコーネリアスの新作のアルバムの感想を書こうと思う。
どこにもまだ書けていない、むしろ書かなくて残したりしなくていっかなって思っていた。
それは私がいかに痛いファンだったかをものすごく反省していたから。
届いて欲しい思いというものを持ってしまっていたし、
好きという感情のめんどくさいところなのかな、もう少し俯瞰してみようと思ったところだった。
1993年に始まったというものは何にもつながることではないのだ。

なんて私は痛いファンだったんだろう。
調子に乗らない方がいいよな。

でも一番好きな音楽は?と聞かれては
コーネリアスと答えるなと思うしなあ。

夢中夢。

魅せる音楽では無いのかなと思った、この言葉がどんな意味なのかなって
少々引き気味な自分があった。

店着日に届いたので聴いた。
なぜかインプットの問題なのか小さなバグなのかDriftsから聴いた。
美しく感動して感極まって泣いてしまった。

感動して泣くことはある。
でも美しさに感動するのは今まで私には、シャガールの絵を見た静岡市美術館での一度しかなかった。
忘れているかもしれないが。

言葉が並んでいるけど、そしてそれは作者の言葉だけど、
それ以上に言葉のためのずれのある一音一音がなんて美しいのかなっていう方が強く感じられた。

それからCDのインプットが終わり
曲順に聴いていく。

だんだん危うくなる。
曲が進むと、次の曲になるにつれて危うくなる。

あと、先行で3曲ほど聴いていた時の感じとは全くそれらが違く聞こえるなあと思った。
変わる消えるから誰かのためという感情のもとのような歌詞のあるものから
間、火花から、蜃気楼あたりまで、危うい。

そこから最初に聞いた美しいDrifts。
霧中夢で自分がハッとする。
何にも無い場所に視力を失ったような、
ちょうど最近見た、チェコのボヤ流という人の映像作品”ナイトエンジェル”と重なる。
光=希望=綺麗な女性(?よくわかっていない)だけが見えるけど掴みどころがない、
そんな黒い世界から羽ばたくように

最後、
無常の世界。
希望的なものなのかサビ前のドラムの3回叩くところに羽ばたきを感じたりしていた先行の感想とは打って変わって。
最終的には”power of ten”の、どこまで行っても同じ、という小沢健二のあの歌詞、”星座から遠く離れていって景色が変わらなくなるなら ねえ本当は何か本当があるはず”

どこまでいっても変わらないのか。自分の考えもきっとこれから載せたらインターネットの宇宙に浮き出て
誰かが見つけて、誰かがめんどくさくなって、誰かが嫌に思って、誰かが好きになる。

ほら、私の30歳のことなんてほんとどうでもいいけど、
痛いファンでこれからも入れたらいいな。


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