メモ

気圧が低いとぐるぐる考えて人類みな死んでくれという気持ちになる。
そして色々考えて結局人はらくして自分らしく生きているのが最も効率よく良い場所にたどり着くことだと感じる。
無理してる奴はつかの間の栄光は手に入れても、永続的な幸福は味わえない。

だとしたら、自分らしくとは?となる。
自分を幼少期に否定されまくったためその方法論が欠落している私は、あれこれとやってみることで足掻くのだが、そもそも自分を大切にとか愛するとかいう概念がひとつも身についてないのにあれこれしたところで無駄なのだ。頑張ってしまうし、自分を痛めつけてしまう。

でも、わたしの人生にある苦痛はわかる。

幸せなバカと話すのが嫌だ。わたはしこんなに頑張っているのにという嫉妬と、ああこの人は内観を何もしてない、ただ環境と運が良いだけで自然に自分を愛せているだけなのだなという軽蔑を抱く。自分で得た幸福ではないのに自分の力みたいに思っているから、弱い人には残酷だし簡単に人を差別するし、利己的だが自分を善人だと思っている。
自分の有能さや正しさに疑いのない人も嫌いだ。失敗したことの無い人や、プライドの高い人も心が弱くて薄っぺらいから関わりたくない。

これらの人と付き合う必要も目に入れる必要もない。
なのに私は無理をしてこの人たちを良く見ようとしたり、学ぶものがあるかもしれないと考えてきた。いや、ないと思う。なんて一元的な世界に生きているんだろうという感想を抱くだけだ。

私の好きな人は負けを知っている。世界が理不尽なことも、優しいことも、悲しいことも知っている。自分の人生を黙々と生きて、人と自分を比べない。自分に分からないことがたくさんあることを知っている。そして動物が好きで、自分と人を愛する力強いオプティミストだ。

わたしは嫌なものにフォーカスすべきではない。それらに無理をして意味を見出す必要はない。私にとっては愚かに見える人に意識を割く必要は無い。その人たちは変わらないし、それは私の妄想もたくさん含まれているものだからだ。
妄想、つまり、私はその人たちにわたしの親を見ているから執着しているにすぎない。
一元的にものを見る態度や、自分が所有しているもの・状況で幸不幸が変わるようなひとは、やはり失敗や苦しみで学び、学ばなければならない。その人たちが考えなかったぶんは、子供や子孫、まわりにとばっちりがいくだけだ。
わたしはその、子供にとばっちりが行く、ということが許せないのだと思う。私自身がたくさんの尻拭いをさせられたという怒りや悲しみが根底にあるのだ。

だけどそれは、人が内観するかどうかは、全く私にはどうにもできないことで、関係ないことだ。そしてそのカルマも含めて彼らは味わうべきなのだ。
わたしはわたしの憎い人々をはやく手放すといい。幸せになれない人は幸せにしなくていい。もう自分を優先して嫌なものと関わるな。
関わるな、というより、もう見るな。もう見なくていい。頑張らなくていい。






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