見出し画像

しんやの餃子世界紀行 Vol.77

「その絵の始まりは」

その絵の始まりは、一筆でなぞられた一本の白い線から始まる。

その線は「餃子の花」の生る一本の大きな木の幹としてなぞられた。

横に5メートルという金色のキャンパスの上を、下書きもなく、思うがように織りなす線の色は様々だ。

筆のなぞるタッチのそれと共に、アクリル絵の具が直接殴られた箇所のか弱さと荒々しさのコントラストが日々美しく重なっては、また別の線の下に消えていった。

曲線と直線。
不可思議と可思議を彷徨うような絵の成り立ちは、パッと目を離してふと目を戻すたびに違うものに形を変えていく。

僕はこの4日間、彼の描く息遣いの一番近くで餃子を包んで焼いていた。

決して広いとも言えない空間を二人で試行錯誤して使いながら、僕らは無言で背中を合わせて真逆の壁に正対する。

彼は彼のペースで筆にインクを落とす。

書かないと決めた時間は絶対に書かない。
彼が書かない時間は2人でどうでも良い話をずっとしたものである。

彼は素直でたくさんの大回りの道を「周っている」と決めつけず、とても合理的な思考で絵描きの道を選んだように思う。

打算と計算のない、実直なその姿勢が彼の絵をここまで幾何学的に表現させている。

奮い立つような独特のタッチであり、彼の絵は中心から外に広がる絵ではなく、外から中止に吸い寄せられるような錯覚に陥るような作品だ。

我々が見慣れた壁に描かれた線の一つ一つには矢印がなく、ただ一点に吸い込まれて行くその様と、その点が見る人によって違うことが矛盾して、皆別の線か点を気に入って帰る。

その絵は遠引きに龍に見えて、龍ではなく。
木に見えず大木と成した。

その大木には大小様々な餃子の花が咲いているが、その花を花と認識するかはあなたの感性に頼るしかない。

「盆栽の白い木はすでに死んでいる木で、茶色くて生きている木が白い木に絡まって一つの作品になるんです」

と今回大きく着想を受けた盆栽を模したその絵もまた、根から通ずる死の白と生々しい生の赤のコントラスト自体が意味合い深く、頭を捻る。

青や黄色やオレンジが、牙のように花のように規則性なく散って、いつしか根の上の白く死んだ木は、多様な生の下に入り組んで消えていく。

着想の概念の上に別の色を塗り潰す様が終始彼らしい。

彼の才能は日出る国を超えて、遠く芸術の本場で新しい花を開く。

花の都で目の肥えた新たなファンに、彼の絵はどのように届くのであろうか。

僕らの背中を守り、誰かの視界にかならず入る場所に命を受けた我々の絵もまた、必ず誰かの目に留まり、そして誰かの思考に留まるのだろう。

国境はこの際、彼の才能を図る物差しにはならない。

「絵を描く」という作業を、最も長い時間書き手の側に身を置いて思う。

この近さにあって彼はとても遠く、まるで手が届かない。

それでいて身近で親近感のある書き手の表情が目に浮かぶ。

この絵のように、塔岡大周という男を取り囲む死んだ木に絡まっては塗りつぶして、彼は彼の世界を上へ上へと伸びていく。

その成り立ちが芸術。
誰からも愛され、誰も心の奥底に踏み込めない彼の彼たる自我の筆。

上へ、上へと餃子世界。
この絵に恥ぬ先を描いて、進まぬか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?