見出し画像

しんやの餃子世界紀行 Vol.65

「森には木が植ってる」

夢とはいつも非情だ。
叶わないことの方が多い。

やりたいことが仕事になるかというとそれはそれも微妙だ。

人生は諦めの連続で、色々な諦めを通じて本来自分の中に眠る才能の類も諦めてしまう。

諦めなかった人が本物になるのは当然だが、諦めることに鈍臭い人が成功するような時代。

それくらい人は皆、自分の才能を諦め続けている。

「なんとなく大学は出とかないと」

人生最初の諦めの分岐点はここであろう。

「大学行くには頭もないし(お金もないし)とりあえず就職しよう」

も同義の分岐点だ。

多感な頃にこの選択を強いること自体酷なことだと思う。

大学のことを例に取れば大学時代は4年しかない。

しかも高校とは違い、生かすも殺すも自分次第。

なんとなく過ごせばあっという間に過ぎていく。

しかもこの4年で大人になるのではない。
当然家族の影響も絡んでくる。

やりたいことを見つけてもそのことが仕事にならないのは大学では何も成し得ないからだ。

「理解」は運の要素が強すぎるが故、才能はここで無意識に殺されていることが多い。

でも仕方がない。
一部の人を除きほぼ全ての人が凡人だからである。

凡人は自分の経験でモノを喋るが、自分にはない人の才能を言葉には出来ない。

ぐうの音も出ないほどのナニカを持って生まれない事は当然で、その事を恨んでも仕方がない。

こうして我々の多くが夢を失って、死なないことが生きることの目的になっていく。

もっとフィーリングで生きたら良いのに、と思う。

僕自身何かを叶えた訳ではない、凡人気質の天才であるから、勿体ない人生ではあったと思う。
幾多のチャンスを見逃してきたのだろう。

その都度「頭を使って生きること」と「感じる」ことのバランスが難しいと思い苦虫を噛んできた。

そんな僕から見て、頭を使って生きすぎだと思うのだ。

もっとバカで良いのに、考えすぎなきゃ良いのに。

やってみてから考えたって遅くないんだけどなあ、やらずに考えるほどの経験なんかないじゃん。

したこともない失敗を恐れる必要はない。
大抵の失敗は失敗したあとでなんとかなるし、どうにもならない失敗のほとんどは自分に落ち度がある。

そんな失敗をしてしまったのなら、その時はその時だ。

それで死ぬなら仕方ない、それだけのことをしたまで。

才能があるのに、そしてそれは自他共に認めるようなものなのに。

境遇も後押しする運があるのに。

やらずに立ち止まる事は絶対にしてはいけない。

「木を見るな森を見よ」

とは滑稽な言葉で、森ばっか見て木が植ってない場所を人は森と呼ぶだろうか?

もしあなたがすでに木ならば、周りにあなたを支えてくれる木を植えて。

いつか森になるためのことをしないといけない。

でもまだあなたが木でもないのなら、

先ずは種を芽にして木にならねば。

とりあえず木になろう。
みんなが木になればそこはきっと森になっているはずである。

人は木よりも寿命が短いから、20歳がとか30歳がとかじゃなく、もうすでに今が勝負なのだ。

君にも僕にもなりふり構ってる暇などないんじゃない?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?