生存と実存

noteはTwitterの引用、できるのかな。
ともかく、東畑さんの下記のような疑問です。

学生のとき、臨床心理学は非常に実存的だったが(ブーバーとか読まれてた)、徐々に生存重視に移っていったのが2000年代。僕は後者に属する書き物をしてきたが、実存の問題というのは今でも確かにあると感じてて、しかし実存への想像力は臨床心理学の公的テキストからは消えつつあるように見えるな。

この指摘は鋭いですね。
臨床心理学が実存から生存に重点を移し始めた。
その契機が2000年代の始まりにあるだろう、と。
たぶん、その通りです。

パッと思いつくのは国家資格の問題でしょうか。
臨床心理士の資格が1990年代に国家資格になるような話があって、
でも精神保健福祉士や救急救命士は資格化されたのに
臨床心理士は民間資格のままにとどまった。
あれからおかしくなったんじゃないかなあ。

臨床心理士はシステムからハズれたところにいるのが利点なのに、
それを国家資格にしようということに違和感がありました。
「よく生きるとは何だろう」と考えることは
「社会とはどうあるべきか」に繋がる問いじゃないですか。
一人一人の実存を大切にする社会という理念を背負っている。

だから、臨床心理学者は哲学者と対談し、社会学者とも対談した。
日本社会の深層構造についても考えた。
中空構造や母性社会といった概念で浮き上がらせようとした。
「生きづらさ」を考えることは「この社会の生きづらさ」だからです。
真空の中で起こる「生きづらさ」などありません。

それに「こころ」というプライベートな領域に
国が踏み込む口実を作ってはいけない。
心のことまで公的に管理される社会は暗黒ですよ。
『1984』のビッグブラザーが支配する未来です。
そのツールとして心理士が使われる道を開いてはいけない。

でも、国家資格を目指すと、その疑問を持つことはできません。
いま、学際的な対談ができる心理学者はいません。
国家資格ということは「この社会」を前提にし、
そのうえで、そのレールに乗りながら生きることを求めるからです。
不登校の子に会いながら「そもそも教育とは何か」とか
休職中の人と「働くとはどういうことか」を話し合ったりしない。
それよりは、学生を学校に戻し、労働者を会社に復帰させる。
そうした「国」が喜びそうなことに従事することになる。
リワークとか言って。

そんなふうに「国」に尻尾を振った結果が現在地だからなあ。
大学で「実存」を考えなくなるのは仕方ない。
でも「実存」を考えない心理士は現場では役に立たないでしょう。
クライエントから見捨てられる。
もっと厳しい「資格審査」が現場ではされるからね。

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