精神症状はJアラートである

某国からミサイルが飛んでくるとJアラートが鳴る。スマホが五月蝿い音で我鳴り立て「ミサイルが接近しています」と表示される。テレビでは「みんなの料理の時間ですが、番組を変更してお伝えします」と特番が組まれる。日常茶飯事になってきました。

こういうのを見ると「神経症だなあ」と感じる。何か身に危険が迫っているとき「不安」が生じる。人によっては「妄想気分」が湧いてくる。その「不安」に対して、ある人は部屋の片隅に逃げ込み、窓際から離れ、身を固くする。ある人はお守りを握りしめ、空を仰ぎながら神仏に加護を祈る。そういう、たぶん役立たない対処をする。ミサイルが来てから対処しても、そもそも遅い。

こういう場面で「Jアラートが鳴るからダメなんだ」とJアラートを消す方法を探してきたのが従来の心理療法ではないかと思う。「スマホを地面に叩きつけたら72%の確率でJアラートは止まりました」といった対処法が「エヴィデンス」と呼ばれる。叩きつけた後、さらに踏みつけたら確率が上がるんじゃないか、とか。確率は上がるだろうなあ。で、それが何だというのだろう。

「原因はないのに不安が生じるから病気なのではないか」。そういう意見もあるだろう。でもJアラートも似たようなものではないか。某国は本当にミサイルを打っているのだろうか。確かに何発かは打っているだろう。自国でも放送しているし。でも、打ってないときにJアラートが鳴るときもあるんじゃないか。あれは何だろう。日本上空を飛び越えていった、と言っても誰も見ていない。太平洋に落ちた、と言いながら自衛隊も確認にはいかない。米軍も放置している。その「ミサイル」は実在しているのだろうか。

Jアラートが何に反応しているかは軍事機密である。それは「不安」に似ている。「不安の原因」と言っても、それが何かわからないのだから「あるかないか」の判定はできない。だから「原因はないのに不安が生じる」とは断言できない。因果律で捉えることができない。その事態にどう対処するかなのだ。

引きこもりも強迫症状も「不安」ヘの対処である。自分なりに考えて「こうすれば安心」を模索した結果である。こうした対処で「ミサイル」が減るわけではない。隣の家に怒鳴り込んで「私を不安にするな」と抗議したところで「不安」が減るわけではない。監視カメラを設置して「注視」し始めたら、ちょっと怖い。たとえその「不安」に「隣人」が関与していても、効果は見込めないだろう。

「隣人」もまた不安である。それはパワハラの問題を扱うとき、とくに感じる。脅えている人は、他人を脅かす。自分の「不安」を他人に伝染させようとする。そのことで安心を保つ人たちがいる。虐待の場合もイジメの場合も、そうした構造ができ上がっていて、その歪みを一番背負った人が相談に訪れる。そうした場合に「不安なヤツを仲間はずれにしよう」という対処は愚策なのに、なぜか「国際社会」は愚策を選ぶ。そりゃあ、子どもたちも真似してしまうわ。

「不安」を他人に投げつけ安心している人たちは「自分は普通だ」と信じ、事態に無関心になっていく。たぶん関心を持ってしまうと、自分の「不安」と向き合うことになるからだろう。誰かの「不安」が「ミサイル」になり、「ミサイル」が別の人の「不安」を掻き鳴らす。そうした状況を「どこかおかしい」と感じている人がクライエントになる。

「そうした人に会う」とはどういうことなのだろうか。心理療法はそこに本質があるように感じる。「不安」を消すのではなく、「不安」を抱えながらも生きていくための方法として。

これは難しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?