精神分析と認知行動療法



心理療法には二つの流れがある。精神分析と認知行動療法。実際のところ、この二つは異なるものなのだろうか。

そもそも

アメリカにおいて、この二つは職種の違いでしかない。精神分析は精神科医しか行ってはいけない。それが1990年までのルールであった。コフートが米国分析学会の会長をつとめている間に少しずつ変化し、臨床心理学者を受け入れるようになったが、それまでは厳格な規範であった。

エリック・エリクソンは心理学者でありながら、オーストリアで精神分析家の資格を取っていたため、当初は米国分析学会の会員であった。けれど、最終的には除名されている。サリヴァンの開いたホワイト研究所も、多く臨床心理士を受け入れていたが、サリヴァン自身が学会から除名された。臨床心理士に精神分析の門は閉ざされていた。

臨床心理学

臨床心理学が心理療法の有効性を訴えるようになるのはロジャーズである。ロジャーズのクライエント中心療法はオットー・ランクをモデルにしている。精神分析の系譜を継ぎながら、臨床心理士であっても心理療法は可能であると証明し、その要因の探究を行った。エヴィデンス研究の始まりと言えよう。

行動療法の始祖であるウォルピも認知療法を始めたベックも、ともに精神科医であり、分析家の資格を持っている。それが認知行動療法を名乗るラザラスになると主流は臨床心理学に移っていく。手続きをマニュアル化し、統計的に治癒率を明確にする。心理学の得意分野だ。

なぜ認知行動療法がエヴィデンスにこだわるかというと、アメリカでは保険が適用されるからである。医療保険は民間の保険会社から出るので、効果があり安価であることを示せば、臨床心理士の心理療法にも保険が使われる。エヴィデンスは金になる。心理士が職業として自立するのに必要なことだ。

日本では

日本では事情が異なる。精神分析と認知行動療法、どちらを習ってもいい。代わりに心理療法には保険が効かない。病院に心理士を置く義務もない。公認心理師という国家資格はできたが、それがどう活用されるかはこれからである。現状で心理士が「治療」を口にすると医師法に抵触するので明言できない立場にある。

1980年代に精神科治療が薬物療法に移行するのに伴い、それまで精神療法を教えていた精神科医が医学部のポストから弾き出され、文系の臨床心理学の教授や講師に移住してきた。そのため、日本の心理療法は「精神科のノウハウ」を引き継いでいる。精神分析寄りでありつつ、実践的である。理論臭いと嫌われる。

それと並行して、1970年代にアメリカに留学していた学生が認知行動療法を日本に紹介し始めた。正しい臨床心理学はこちら、というわけである。どうも日本で精神分析と認知行動療法が仲が悪いのは、大学のポスト争い、椅子取りゲームの様相をしているからだろう。あまり内実で論争している印象がしない。

今後どうなるか

将棋で喩えると、認知行動療法は振り飛車である。変化の余地をあえて減らすことで「定跡」をたどりやすくする。短いトレーニングでも将棋を打てることを目指している。誰でも一定の成果が上げられるのが利点だ。

対して精神分析は矢倉だろう。型はあるが変化も多い。師匠に侍従して感想戦を繰り返しながらセンスを養う。「定跡」からはずれることがあってもクライエントの指し手についていく(フロイト自身、恐怖症には暴露法、強迫には症状処方を勧めている。1910年代にすでに)。その分、クライエントの脱落率が低い。

そう考えれば、どちらもプロである。その間で対話が進み、ひいては臨床心理学の振興に貢献するのが望ましい。臨床心理士は対話の専門家である。その専門家が互いに対話を拒んでいては恥ずかしいではないか。

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