ジャンケン的な対話プロセス

心理面接をしていると「これはジャンケンだなあ」と感じることがある。相手の対応に合わせてこちらの対応を変える。すると、相手の対応にも変化が起きる。勝ち負けというよりも、対応が柔軟に変化していくところが主眼である。

グーの人は緊張で固まっている状態だ。他人といる空間が怖くて黙り込んでしまう。こちらの対応とするとパーの態度がいいだろう。その緊張している空間を温かく包み込むイメージだ。面接室自体が自分の胎内になって、その人を守っている。男性でも心には「子宮」を持っているので、そこを使う感じがいい。

チョキの人は正論を吐いて自己防衛している状態だ。何事も「良いか悪いか」に分断していく。こちらの対応とするとグーだろう。不安定さに怯えているので、こちらは芯を通す。「正論を言われると、責められた感じがして嫌ですね」と自己開示する。「この人は上辺だけの同調はしない」と感じてもらうことが信用の基盤となる。「この大地は揺るがない」と思える場を提供することである。

パーの人は状況に圧倒されて自暴自棄になっている。考えることを諦めてしまっている。こちらの対応とするとチョキを使う。言語化しながら曖昧な状況にハサミを入れていく。「状況に圧倒されて自暴自棄になってますね」と、野球のアナウンサーのように解説する感じがいい。解釈よりは解説。合っていればその分だけは霧が晴れるし、合ってなければクライエントの方から言葉にしてくれる。

こう考えてみると、やはりロジャーズかなと思う。グーは自己一致の状態だろうし、チョキは共感的理解だろう。パーはありのままに受け止める肯定的関心である。このどれかに居つけば対話は止まる。クライエントの状態は病的なのではなく、居ついて変化が起こらないことである。内的対話が堂々巡りになっている。

三原則が微妙に矛盾をきたすのは、その矛盾自体にプロセスを進める原動力があるからだろう。セラピストの対話はそのズレを少しだけ起こす。ズレが大きすぎると飛躍を要求してしまい、対話が進まなくなる。ほど良い違和感が決め手だ。というか、ぴったりくる方が奇跡であり、人と話すことは違和感が先に立つ。

その違和感を意識的にコントロールすること。「グーだなあ」と感じればパーを出し、時にはグーを出しチョキを出し、いま変化が起きているかのチェックをする。いや、コントロールは無理か。思い通りにならないものが対話である。だから、自分がいま何を出しているかモニターリングすることが大事なのだろう。自分自身が居ついていないかを検証するために。

ジャンケンを振り返ってみると、グーとは認知主体が体験主体に飲み込まれている状態である。チョキは認知主体を活性化させて距離を取ろうと努力している。パーは距離が離れすぎて認知と体験がチグハグになっている状態だ。どの状態も、その人が置かれている心理状態の反映として読み取れるだろう。

対話は認知と体験の距離を、つかず離れずで維持しながら、調整する機能を持っている。だけれど、難しい。それ自体が生き物のように意志を持っているんじゃないか。コントロールしようとすると反発してくるし、反発してこないプロセスにはエネルギーが感じられない。なかなか一筋縄にはいかない。

精神分析の「抵抗」はここあたりのことを指すのだと思う。クライエントが抵抗しているのではない。対話プロセスという有機体を扱う難しさがそこにあるように感じる。でも考えてみると当たり前で、そんなに簡単に変わるのなら、人間は同調圧力に流されて誰もが金太郎アメみたいな顔になってしまうだろう。対話で個性を育てていくなら、抵抗があって当然なのである。

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