体験の体験には他者が必要かな

「意識すること」が「体験を体験すること」だとすると、
「体験を追体験してもらった体験」が基盤にありそうに思います。

子どもの頃、夜中にふと不機嫌な気分に襲われたとき
「今日はいっぱい歩いて疲れたよね」と言ってくれる人がいると
「そうだ、花見に行ったんだった。疲れたなあ。
花びらが雪みたいに降って、たこ焼き、美味しかった」と思える。
あるときは自分に声をかけるように「楽しかったね」と呟く。
そうした体験を反復しながら、追体験してくれる他者が内在化し、
それが「意識」の核になる。
そんなふうに考えています。

「意識」は観察者なのです。体験の外部にいる。
外部にいながら、その体験を追体験するのが「意識」です。
外部にいることと追体験することの二つが必要条件です。

ただ、そのままでは「意識」と「体験」が乖離したままになる。
3,4歳の頃は「外言」といって乖離を残しています。
「そのお菓子、取って」と言いながら自分で取りに行く。
「話す自分」と「行う自分」がまだ別々です。
「意識」を使いこなせていません。
身体に馴染ませるには時間がかかるのでしょう。

「意識」が他者起源である限り、体験との間にズレが生じます。
誰にでも精神症状が隠れている。
精神症状は「体験」から「意識」に向けた「現状報告」だからです。
「そろそろエネルギーが切れてきました」。
「この人の話には悪意が感じられて不快です」。
「この距離の近さはセクハラじゃないですか」。
いろいろな報告が身体から送られてきます。
身体は言葉を話せないので「症状」という形態を取る。
その「症状」に早く気づけば軽く済む、という感じでしょうか。

母屋にやってきた居候が、いつの間にか実権を握っている。
それが「意識」です。
もちろん、その居候のおかげで家の混乱は収まっている。
まとめ役を買って出てくれている。
助かっている面もあるけど、どこかズレてしまう。
昔から坐禅や瞑想など、自分の身体と向き合う修行がある。
そうした修行があること自体が、
この一致にいたる難しさの証拠のように思います。

他者起源である「意識」を、今一度自分に取り戻す。
「共感すればそれでいい」でもありません。
泣きたいときに一緒に泣いてくれる人がいても気が滅入る。
どっぷり浸かってしまうなら「他者」にはなりません。
ほどほどの距離が要る。
「観察」というのは間を挟まないとできないことです。
同調ではありません。
そして「観察」である分だけ「体験」とは差異が生じる。
そこあたり、考えると難しい。

忙しさの中に、自分と向き合う時間を設けること。
心理療法の本質はそこかな、と思うけど、
コツさえつかめば一人でもできるかもしれない。
でも「追体験された体験」がまず必要でしょうね。
それをモデルにしながら、自分の肌に合う「意識」を育てる。
そう考えると、終りのない仕事のように感じます。

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