情動調律療法事始め

2歳くらいの子を公園に連れていくと、楽しくてあちらこちらを掛け回る。ハトを追いかけたり、ドングリを拾ったりしてして遊ぶ。キャッキャ、キャッキャしていると、まずは転ぶ。転ぶと母親に掛け寄り、わーんと泣き始める(だいたい父親のところへは来ない)。「転んだの?」「うん」「痛かったね」「うん」「絆創膏、貼っておこうか」「うん」。すり傷のところにバンドエイドを貼ると、もう痛みはどこへやら、またハトに向かって笑顔で突進していく。元の元気の塊に戻っている。

この現象を発達心理学では「情動調律」と呼ぶ。自分の中に情動の大きな動きがあると、養育者の表情を見ながら、それが安全なものかどうかの確認をする。情動は子どもにとってモンスターでありお化けである。いきなりどこからか現れ、自分のコントロールを奪ってしまう。身体じゅうが情動でいっぱいになり、身動きも取れない。ところが信用できる大人から、この情動に「悲しいね」とか「痛かったね」と名前をつけてもらうと、パニックは解ける。名前を呼ばれたお化けたちは退散してしまうのだ。

心理療法の基礎にはこの情動調律がある。不安でいっぱいになって相談にやってきた人が、その不安がどんな不安で、何への不安で、と話しているうちに落ち着いてくる。不安に名前を与えることで、気持ちが調えられる。その側面をとくに意識したのがジェンドリンのフォーカシングだが、マインドフルネスでも事情は変わらない。そもそもウォルピの系統的脱感作も、不安を段階づけることで「レベル3の不安」「レベル5の不安」と名前を与えている。そして、その名前を意識しながら不安を再体験することで、情動をしっかり味わい、揺れの少ない方へと調律するのである。

情動と向き合うことはしんどい。痛いし苦しい。だから何とかしたいと思う。うまく逃げれそうなら、逃げてもいい。ただ、逃げても追いかけてくるものなら、向き合うしかない。

そのとき他者が必要になる。そこが情動調律の不思議なところだ。ひとりで名前をつけても終わりにならない。「大人」のところに掛け寄って、思いっきり泣くことでスッとする。ひとりで泣いていたら落ち込むだけなのに何が違うのだろうか。ある程度歳を重ねれば、その相手は親でなくてもいい。親友や恋人に話すだけでも救われるだろう。安心して泣いてもいいという環境が脱感作である。リラックスの中で「お化け」と向き会える。そして言葉にしていくことで「お化け」の正体が見えてくる。身体のコントロールを奪い返すことができる。

情動調律療法という心理療法はない。でも、情動調律について語っていない心理療法はない。精神分析もフロイトがやっていることは情動調律である。情動を巡って来談者の連想が広がっていく。フロイトはじっと聴いている。解釈も入れるが、それは連想を広げるための呼び水である。彼にとって情動は「欲動」であり、精神分析の中心にあった。そのあと、腕の悪い後継者たちによって「なぜ良くならないのか」みたいな言い訳の理論が膨れ上がっていくが、そこは無視する。ストロロウの間主観性分析まで来れば情動調律に原点回帰する。精神分析の本質はそこだろう。心を整理することは情動を調えることである。

ケガを見て親がパニックになれば子どもも不安になる。かといって「痛くない。我慢しろ」と言われてもパニックになる。痛さを感じながら落ち着いて見守る。この匙加減がセラピストに求められるのだろう。あまり簡単じゃない。どの親も100%は出来ていない。セラピーでも100%を目指さないし、目指しようがない。自分のキャパシティで受け止められる範囲は受け止めて、それを超えた部分は「ごめんなさい」と謝るしかない。ムリはムリしない。クライエントに「ムリしなさい」というメッセージになってもいけない。

セラピスト側に「しんどい」という思いが浮かんできたら、正直にクライエントに話すことだろう。セラピストにも情動調律は必要である。そしてそれには他者が要る。クライエントにその他者になってもらう感じかもしれない。あるいは、スーパーバイザーについてもらうか。

ひとりでは抱えない。それが情動調律療法の基本である。

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