コンパクト仏教史

臨床心理学の人と話していると仏教の捉え方に誤解があると思うことが多い。なので、簡単に整理しておく。

仏教以前のインドにはバラモン教があった。バラモン教の教理は「梵我一如」である。宇宙原理であるブラフマンと個人の自我であるアートマンが一致することを理想の境地とする。この「アートマン」がセルフと似た概念であるため、ユング派の人はこれを仏教と思っているフシがある。まず前提が間違っている。

紀元前5世紀にガウタマ・シッダールタが仏教を提唱し、自らを「目覚めたもの(ブッダ)」と名乗った。仏教の中核は「アートマンの否定」である。「私」の本質となるものはなく、多重の因果関係の中でたまたま現象として「私」があるに過ぎない。苦しみはこの「私」ヘの固執によって起こるので、その固執を放棄すれば苦しみから離れることができる。

「私」を現象として捉えることが「正念」と呼ばれる。「マインドフルネス」のことだ。自分自身を現象と捉える結果として、究極のリラクゼーションが得られる。でもこれは「魂はない」と言っていることなので、アメリカ人はそこあたりを曖昧にして「マインドフルネス」をトレーニングしようとする。それを認知行動療法に組み込んだところで、そもそも方向が間違っている。

ブッダの考え方は複雑なので、紀元前3世紀頃に整理されアビダルマとなる。「私」というものについての心理学が作られる。これが東南アジアに伝わる南伝仏教になる。ある意味、ブッダの正当な教えが実践されている。

ただ、そのままだと、修行できる人はいいが、一般の人たちには縁遠い。そこで紀元前1世紀から大乗仏教が台頭してくる。大乗仏教は三通りあるだろう。般若思想と華厳思想と浄土教である。

般若思想は世界の本質を「空」とする。全ては因果関係の多重決定によって生じるのであり、「ブラフマン」のような人格神がいるのではない。神々はいるが、人間と同じように苦しみを生きる存在であり、仏教を守ろうと尽力している。人間はその中で「仏」となるために生まれ、修行をしている。この哲学がナーガルジュナによって大成され「中観派」となっている。インド論理学の至高である。

華厳思想はバラモン教との融合である。「ブラフマン」は「毘盧遮那仏」と名を変え、宇宙の本質とされる。ただ本質なので、人間がそのものを見ることはできない。人が見るのは、本質が現象として現れたもの、つまりこの「世界」である。この立場はスピノザの「神即自然」に近い。自分自身も「宇宙の本質」の表れである。河合隼雄がこの思想を臨床心理学に取り込もうとしたが、残念ながら、後を受け継いでいる人がいない。

この「毘盧遮那仏」を「大日如来」に置き換えたのが密教である。というか、どちらも「ヴァイローチャナ」である。密教は5世紀頃のヒンドゥー教を取り入れた教義で、弱くて愚かな人間がそれでも修行していくために神々の加護を祈る宗教になっている。その神々のシステムを描いたのが曼荼羅であり、単にシンメトリーだったら曼荼羅なのではない。ユングの「マンダラ」は安易だと思う。

浄土教は阿弥陀仏信仰である。阿弥陀仏がまだ人間だった頃「自分が修行して仏になることが出来たら、誰もが修行に専念できる国を作りたい」と誓ったことに起源する。すでに阿弥陀仏は仏になっているので、この誓いは成就している。誰もがその国に生まれ変わることができる。そこが極楽浄土と呼ばれている。

なので、極楽浄土はトレーニングセンターである。「酒は美味いし、姉ちゃんはキレイだ」とはいかない。酒は出ないし、姉ちゃんもいない。北山修に騙されてはいけない。仏になる修行に明け暮れる日々が待っている。うーん、ちょっと考えてしまいます。来世は酒池肉林というのはありませんか。

さて、死後に生まれ変わるとして、何が生まれ変わるのだろう。ブッダは魂の存在を否定している。厳密には「あるかないかはわからない」と無記にしている。わからないことをわからないと認めるのがブッダの誠実なところだけれど、修行しても結局死んでしまえばムダに終わるんじゃないか。

そこで7世紀頃、唯識論が出てくる。「魂」の代わりに「無意識」の存続を考える立場だ。無意識は「阿頼耶識」と呼ばれ、修行をすればその結果が記録され、修行を忘れればその結果が苦しみの種になる。転生によって維持されるのはこの阿頼耶識である。つまり、魂のような実体を考えなくても、自分がやったことの影響は次の世代に受け継がれる。気づかないところで影響が残る。

「私」とは「視点」である。今はたまたま、この時代の、この場所に「視点」がある。「ここ」から見えるものを「世界」として受け取り生きている。たとえば「視点」が江戸時代に移動すれば、感覚とすればタイムトリップをしたように感じるだろう。「今ここ」があるところを、人は「私」と呼んでいる。

死とは、その「視点」が消えることである。阿頼耶識に帰る。その阿頼耶識からまた別の「視点」が生まれ、それが生きていく。阿頼耶識自体に死はない。こう見ると、阿頼耶識は「空」を実体的に捉え直したものだろう。なんだか一周回って梵我一如に戻ったようで、お釈迦様は苦笑いしているかもしれない。

こうした仏教は中国に段階的に輸入され、とくに法華思想を中心として天台仏教が興隆する。法華思想は法華経に基盤を置く「誰もが仏になる素質を持つ」とする考え方である。これを中心に他の仏教思想を包括的に統合し、政権の精神的支配に組み込まれていく。

ところが天台仏教は唐代末期に全面的に弾圧されてしまう。政権と癒着し、汚職の温床となったからだ。経典類は焼き払われ、僧侶たちは依拠するものを失った。そこで中国で発展するのが禅宗と浄土信仰である。どちらも経典を必要としない。また、構造がシンプルなので民間向けにも布教しやすい。宋代にどちらも復興を遂げている。儒教の先祖信仰とも相性がいいので葬式仏教化していく。

日本の仏教はこの中国の動向に影響されている。遣唐使が輸入したのが天台仏教であり、宋代に輸入したのが禅宗である。けれど、本地垂迹など神道との融合を繰り返し、独自の発展をしている。日本の「常識」は他の国の仏教には通じないと思っていい。日本の仏教はアニミズムである。ただし、無常を美意識で捉える特徴があり、それは「持続可能」とは異なるタイプのエコロジーを生み出す潜在力になるのではないだろうか。

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