『極限の思想 ラカン』

この本はダメだろう。
ラカンについて知っていることが前提の入門書。
入門になってない。
「私はこんなにラカンを愛している」という一方的なラブレターである。

でも着眼点は面白い。
「テュケー」はセミネールの初めからラカンの関心事であった。
ラカンはアリストテレスに依拠している。
でも、従来の解説はソシュールやヘーゲル、ハイデガーを取り上げ、その延長にいる構造主義者ラカンを描くばかりであった。
これではラカンの意図は伝わらない。
変なラカン派が跋扈するばかりだ。
ちゃんと「テュケー」を押さえるべきだろう。
それには賛成だ。

では「テュケー」とは何か。
これは古代ギリシア語の「偶然」や「運」を意味する言葉である。
と同時に「出会い」のニュアンスも持つ。
市場に出かけたら偶然友人に出会い、その友人が昔貸したお金を返してくれた。
そうした具体例をアリストテレスは挙げている。
別にお金を返してもらうために市場に行ったのではないけれど、結果としてお金が返って来た。
これで息子の結婚式が行える。
本当に運がいい。
人生は、こうした偶然の積み重ねで進行している。

何のことかと言えば、コンステレーションである。
ユングならそう呼ぶだろう。
そこにシンクロニシティがあった、と。
ラカンの概念の多くはユングに似ている。
想像界は意識のことであり、象徴界は個人的無意識である。
現実界はまず元型的なものを指していると思っていい。
象徴界はユングの言語連想検査と同じで、言葉自体の自律性を扱っている。
ドーキンスの「ミーム」と同じ話だ。

「テュケー」は現実界の出来事である。
象徴界的な因果関係では説明できない。
ウィトゲンシュタインが「語りえぬものは沈黙せねばならない」と言った領域である。
それは言葉にはできない。
ただ衝撃だけがある。
そして、それが自分自身を大きく変えてしまう。
現実界が想像界に侵食してくる。
沈黙をもって受け止める以外に術はない。

もちろんラカンはユングが嫌いだ。
「あいつはセルフィッシュだ」と鼻で笑っている。
「セルフ」が独我論だからだろう。
元型的無意識が個人の深層にあると捉え、それを分析家が外から観察できるという思い上がりがある。
でも無理だろう。
分析家もまた、その「語りえぬもの」に巻き込まれているのだ。

ラカンは二者心理学である。
クライエントと分析家の二人がいる場をテーマにする。
そこに想像界があり、象徴界があり、現実界がある。
その場の対人関係をイメージで捉え、言葉で捉え、沈黙で受け止めている。
それ以外に研究対象はない。

「内界」や「深層」という言葉はラカンにない。
だから現代人にはわかりにくい。
「こころ」を「個人の内側にあるもの」と思い込んでいるからだ。
長い哲学の歴史において、そうした心理観が構築されてきた。
ラカンはそれを壊したい。
アリストテレスの時代に戻り、「こころ」を「対人関係において起こること」と捉え直し、さらに前へと考察を進める。
そのために必要な概念を古代ギリシアから調達する。
あるいはストア派やスピノザから借りてくる。
「そもそも、それがフロイトの狙いだった」と彼は信じている。

ラカンを深層心理学と呼べないのは、三層構造でもないからだ。
意識の下に個人的無意識があり、その下に元型的無意識がある。
ユングならそう説明するだろう。
でも、それはちょっとおかしい。
意識と元型は直接接しているのではないか。
だからラカンは三つの輪を重ねて描く。
ボロメアンの輪。
想像界と現実界がぶつかる領域、それが「対象a」である。

対象aは、何かと言えば「アニマ」である。
言葉通りに「たましい」である。
理屈では割り切れない、どうしても自分自身を魅了して離さないもの。
そこに現実界との出会いがある。
なぜこの人を好きになってしまったのだろう。
それを因果関係で説明することはできない。
フロイトも「母子関係が転移してどうのこうの」とは言うが、最終的には「それだけでは説明できない」と多重決定論に逃げる。
「語りえぬもの」の最たるものが「対象a」である。

ラカンはこれを「症状=サントーム」と見なしている。
依存症に苦しむのも恋に悩むのも「症状」であり、違いはない。
言語化して消えるような存在ではない。
人に「正常」はなく、それぞれが何らかの「対象a」を抱えている。
その「症状」を引き受け、出会いの中でリアルな人生を送ること。
「テュケー」はそのための原動力であり、精神分析の核である。

ただ、ラカンはそんな楽観的なことは言わない。
淡々と考察を深めるだけである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?