固有名詞になるとき

面接を積み重ねると、クライエントがセラピストに関心を持つときがある。

生まれを尋ねたり、子どもの年齢を聞いてきたりする。どこまで自己開示していいものか悩むところだが、正直に答えていくと「そうですか」「やっぱり」と納得してくれる。以前書いたように、セラピストがクライエントに肯定的関心を向けるのと同じように、クライエントからセラピストに向ける「対関心」がある。対話プロセスの中で、その「対関心」の解像度が高くなる段階である。

それまでは「毎週カウンセラーに会っている」という意識である。それが「今日はカウンセラーの〇〇さんに会う」に変化する。「カウンセラー」という普通名詞から「〇〇さん」という固有名詞に変わる。

だいたい「先生」と呼ばれている間は関係が浅い。「この人」という個別性が生まれ、関係の安定性が増していく。セラピストがハズしたときはちゃんとダメ出ししてくれる。「そうではない」「それは嫌です」。否定から入ってもこの関係は崩れないという安心感がある。二人の関係性がそこまで成長した証である。

対象が普通名詞から固有名詞に変わるとき。認識の解像度が変わるこの現象をスピノザは「リビドー」と呼んでいる。フロイトの「リビドー」はスピノザに由来している。単なる「性欲」と誤解してはならない。「女性なら誰でもいい」なら普通名詞だが、それが「この人でないと」と想うところが固有名詞である。この差異に「リビドー」がある。

普通名詞が固有名詞に変わると、主訴となっていた症状が変化し始める。強迫症状の人は「もう一人の自分が出てきた」と言われる。「その自分が自分に、大丈夫だよ、と言ってくれる」と言い、洗浄強迫を途中で止めることができるようになる。解離症状の人は「自分を助けてくれてたんだと思った」と言われる。「もう一人の自分」に感謝する言葉が出てくる。すると人格が入れ替わる頻度が減っていく。

こうした現象は不思議なものだ。初めはセラピストを内在化するのだろうかと考えていたが、あまり当たっていないように思う。そもそもこちらは「大丈夫」とか言わない。安請け合いな保証をするほど自信がない。強烈な症状の話を聞くと、ただ圧倒されるばかりである。こんなセラピストを内在化しても足手まといなだけだろう。

すると、その人がもともと持っている何かだと思われる。都合のいい言葉を使えば「自己治癒力」が人格化した現象。どうにも名付けようがないので、ユングは「アニマ」と呼び、クラインは「乳房」と言い、ラカンは「対象a」とか「アガルマ」とか命名した。認知療法の「モニタリング・セルフ」も一面を指すが、どこか空振りしている。わからないから、わからない名前が付いている。でも面接中に必ず現れる。解像度が上がることで、心の組換えが行われる。

もう一つ特徴的なのが、こういう話の後、しばらく「休憩」が入る。「私のことじゃないんですが」と断ってから、友人や家族の悩みごとを話される。クライエントが相談役になって、他の人のカウンセラーをしている。自分の心配よりも他人の心配をされる。それまでは「自分のこと」で手一杯だったのに、ゆとりが出てきた。視野が広くなっているのを感じるエピソードである。

そうした相談内容は、クライエント自身の悩みと同じ構造を持つ。「こうしてあげたほうがいいのだろうか」「こう言ったらどう思うだろう」。そう考えることが、自分自身のケアにもなっている。「お子さんの状況とご自分の状況は似てますよね」と指摘しても「そうですか」と流されるので、解釈を入れるタイミングではないらしい。家族の問題が一段落すると、クライエント自身が自分の問題に向き合う。そのタイミングで自分から「私もそうですね」と言われる。

いやほんと、セラピストは「存在」を貸しているだけで、後は何もしていないのかも知れない。

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