沈黙を生きる哲学


神は全知全能である。これが西洋哲学の根幹にある。西洋科学の源泉と言ってもいい。全知とは認知レベルであり、全能とは行動レベルである。認知と行動で人間を表現できると考えるのも同根。認知行動療法はその末裔というわけだ。

全知全能を考えればスピノザの「神=自然」になる。全知とはあらゆる存在の見聞きするところを知っていること。全能とはあらゆる存在の生き死にするところを掌握すること。つまり「生命そのもの」が「神」であると考えれば辻褄が合う。現象の裏に「真実」がある。個々の存在者は「神」の表現形として顕現している。無生物も含めれば「存在そのもの」になる。それがハイデガーの立場だ。

こうした立場を「ワンネス思想」という。西洋哲学に限らない。インドでは「梵我一如」の「梵」すなわち「ブラフマン」がそうだし、中国では老荘思想の「道(タオ)」がそれに当たる。我々が見ているのは表面的な「現象」であり、その奥には「全ての本質」である何かがある。その何かを修行によって体得しようとする。海の表面には波がさざめき、一つずつの波は生まれたり消えたりしている。でも海自体を見れば、何も増えず、何も減っていない。不生不滅不増不減。そういう哲学が東洋思想にはある。

こうしたワンネス思想と闘った思想家がいる。それがお釈迦さまである。ワンネス思想は自己を全宇宙と一体化させることで歓喜を生む。でもこの歓喜は、死を恐れる人間が生み出した幻影に過ぎない。根っ子にあるのは「個々が点在する」と考える分別知である。山を「山」と思っている。私を「私」と思っている。でもそれは言葉の作用に過ぎず、そこに本質はない。「私」はメッシュ状の縁起関係にできる交点に過ぎない。そうお釈迦さまは説いた。

ただ、この考えは人類には早すぎた。のちの仏教はワンネス思想に戻ってしまった。「空」と呼ぼうが「真如」と呼ぼうが「法身」と呼ぼうが同じこと。梵我一如に先祖返り。存在の根拠として「神」を据え直している。生きる意味を自分で生み出す自由を手放している。どこかに根拠を求めてしまう。「存在に根拠などない」と喝破したのがお釈迦さまなのに。

ヴィトゲンシュタインは言う。「語りえぬものは沈黙しなければならない」。「沈黙」は「語ってはいけない」ではない。「沈黙」を通してしか理解できないことがある、ということ。

古東先生はここから考察を始めている。「語り」はB次元、「沈黙」はA次元。つまり、認知レベルと体験レベルを分けることで、「沈黙」を体験レベルの理解方法と定義する。これは正しい。そして体験レベルの理解がワンネス思想に陥りやすいことも理解している。これも正しい。なのに、処々でワンネスになってしまっている。ちょっと惜しい。サッチモの What a wonderful world で正しい。

介入や行動のために理解があるのではない。理解すると何事も愛おしくなるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?