感情は主観的なのだろうか

ウィトゲンシュタインに「カブトムシの話」がある。ある人が箱の中に「カブトムシ」を飼っている。その「カブトムシ」を誰にも見せない。もしかしたら箱の中のいるのは「ゴキブリ」かも知れない。そうした場合、その人は「カブトムシを飼っている」と言えるかどうかという問題だ。

何の話かといえば「感情」のことである。「私は悲しい」とか「怒っている」とか人は言う。「不安でいっぱいです」や「気持ちが落ち込んでいる」と面接で話す。もちろん、そうしたことは主観的であり、他人からはわからない。感情はその人の「箱の中」であり、外から見えない。一般にそう思われている。

でも、誰からも見えないものを「悲しみ」と呼び、他の人もそれを「私が悲しみと呼ぶものと同じもの」と思うのはなぜか。どうやってある感情を「悲しみ」だと学習したのか。よく考えると、この理路がわからない。「カブトムシ」であれば、実際にカブトムシを目の前に置き「あなたの飼っているのはこれと同じ?」と尋ねればいい。というか、互いに確認できるものでまず「カブトムシ」という名を覚え、それから「箱の中にいるもの」もそれと同じと判断するだろう。まず客観的に共有できるものがあり、言葉は学習される。

感情を言葉で呼べる理由を考えると、一つしか理由がない。「感情もまた客観的に共有できる」という仮説である。もちろん「常に共有される」ではないだろう。相手の気持ちがわからないことは日常茶飯事である。でも「同じ気持ちになった」という体験がなければ言葉は学習できない。感情が共有できる場合がある。楽しい体験をしているときに大人から「楽しいね」と声をかけられる。子どもは「これが楽しいなのか」と言葉を覚える。そういう原体験があるはずだ。

これは「空気を読む」ではない。「空気を読む」は、権力のある者がない者に対し「私の意向を読み取れ」と圧力をかけるに過ぎない。忖度を促す行為であり、そこに感情の共有などない。たぶん、昭和天皇が崩御したとき、あちこちで「自粛ムード」というものが起こったが、あのとき「空気」が使われたのだろう。それ以前に耳にしたことがない。もしかしたら政治家の間ではあったのかも知れないが、庶民にはなかった。変なウィルスが蔓延してしまった。

感情を表す言葉が昔からあるということは「感情の共有」は人間にとって自然なことだろう。ほかの国の言語体系でも、感情を表す言葉がない言語の存在を聞かない。プログラミング言語は別である。「言語」と言うけれど、コンピュータと対話するためのものだから。人と人との間に交わされる「言語」には感情語が含まれている。発達障害とされる人たちも感情語を使うのだから、「感情の共有」はできている。刺激への過敏性はあるけれど、共感性の障害ではない。

こう考えると、人は「私」という箱の中にはいない。体験のレベルでは、他人の喜びも悲しみもその場に充満している。心は身体の外に出て「気」となり漂っているのである。それを視覚化したものが「タバコ」ではないだろうか。ネイティブ・アメリカンはスピリットを感じるためにタバコを用いた。他人の吐き出した煙が部屋に充満し、その煙を自分が吸う。自分の吐いた煙を今度は相手が吸う。その「煙」を「心」と見なすことで思いを共有し、シャーマンは治療を行った。

古代ギリシアでは「プネウマ」と呼ばれていた。中国の「陰陽二気」に似た概念である。呼吸で交わされる「気息」が生命の源であり、それは個人内で閉じているものではない。場に満ちている。プネウマを調えることで「心」も調えることができる。「心」は身体に留まることなく、自然の中を循環していた。

タバコは身体に悪いからお薦めしないが、イメージは今も使えるだろう。「心」を個人内に閉じたものと考えずに、二人の場に満ちているものと捉える。身体はその場のプネウマに包まれている。共感する/しないではなく、すでに共感している。ソワソワした焦燥感も、何もできない無力感も伝わってくる。それに反応することなく、落ち着いて観察する。感情を名付けてもいいし、名付けなくてもいい。たぶん、こちらが落ち着いていれば、それがクライエントに伝わる。

心理療法の根っこはこのプネウマだと思う。ただ、あまり書いてある書籍が少ないので、ここに書いておく。たぶん欧米の心理学は「心は主観的だ」という前提に束縛されやすい。今だに「我思う、ゆえに我あり」の牢獄にいる。でも「心は外在する」とイメージしたほうが楽しいんじゃないだろうか。

ほかの人と共有してみないことには、自分が何を感じているかわからない。だから心理療法が成立する。さあ、吸って。吐いてー。

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