認知行動療法の哲学

認知を変えるということは体験の受け取り方を変えることである。
行動を変えるということは新しい体験を作り出すことである。
だから認知行動療法は体験との関わりを中心に置いている。
個人を体験と意識に分割し、その間の交流を問題としている。

「問題とする」とは問題視することではない。
「考察の対象にしている」ということである。
そこには何らかの哲学があるはずだ。
体験しつつ意識する存在という人間観。
「関与しながらの観察」とは心理療法の特権ではない。
常日頃の生活そのものが「関与」と「観察」によって構成されている。
「関与」が「行動」であり、「観察」が「認知」である。
その二軸を押さえることで人の「こころ」を把握していく。

「意識→体験」が「関与」で「体験→意識」が「観察」とすると、
意識とは何か/体験とは何かの二重性の問いが生まれる。
意識主体と体験主体の二つが人間内に存在するのだろうか。
いや、これは言葉の罠だろう。
言葉は主語と目的語を構成要素としている。
そのため、言葉を使って考察する限りは「こころ」が分裂する。
それは言葉の持つ宿命であり、避ける方法はない。
「関係」とした瞬間に二つの「項」が要請されるからだ。
だから「意識と体験が別々に存在する」と考えると罠に陥る。
「意識=体験」であり、ただ言葉にすれば「体験を意識する」となるに過ぎない。

意識は差異を見つけ出すものである。
白地の紙に黒い点が打ってあるとき「黒い点がある」と意識する。
白地の中に「黒い点」という差異があるからだ。
白地の方は意識されない。
「白地があるでしょ」と言われれば「白地」を意識する。
もし黒地の紙に黒い点が打ってあれば、何も意識しない。
でも「黒い点が打ってあるよ」と言われれば見つけることができる。
なので「意識=体験」と言っても、まったくのイコールではない。
体験はすでに受け取っていても、意識されるわけではない。
「差異」がないと意識には昇りづらいのである。

ただ人に言われると「差異」が導入され、意識することができる。
言葉が「差異」を引き起こす切り口となっている。
その言葉も、他者から到来する形式を取る。
ここに「セラピスト」が必要な理由があるのだろう。
認知の切り口を変えることで、体験への意識が変わる。
それまで「地」であったモノが「図」に反転する。
そのとき意識が体験に少し近づくのである。

ここまで書いて気づいた。
「意識する」とは「体験が体験を体験する」である。
体験の再帰関数として記述できる。
人間だけができるのだろうか。
動物にも聞いてみないとわからないけど、少なくとも「言葉」は必要そうである。

「体験が体験を体験する」。
それが原型であり、そのままでは意味をなさない。
そのとき「私が体験を意識する」と言い換えることで、
「私」と「意識」が「体験」の別名として導入される。
たぶん、それが言葉の始まりに起こるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?