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「命の層に降り立った男」—熊本県水俣市・諸橋賢一さん(執筆:高橋博之)

1279回目の車座座談会を、熊本県水俣市で行った。水俣の有機農家さんを中心に30名近くが集まってくれて、遠くは鹿児島の獅子島から船で駆けつけてくれた漁師さんも。呼びかけ人をしてくれたのは、元水俣食べる通信編集長の諸橋賢一さんだった。

水俣市で行われた車座座談会

東京出身の諸橋さんとは、東日本大震災の被災地、岩手県大槌町で知り合った。サラリーマンの彼は休日になると、岩手や福島の被災地に何度もボランティアにやってきていた。諸橋さんは食べものへの関心から東京農業大学に進学し、その後、農薬メーカーに就職。働きながら震災ボランティアをしていた彼はその後、九州勤務となり、水俣に出会う。
水俣病の原因物質の有機水銀は、プラスチックなど化学製品の基幹材料をつくる過程で生成されたものであることを知り、「自分たちの豊かで便利な社会が患者さんたちの犠牲の上にあったとは」と衝撃を受けたそう。

福島の被災地にも通っていた諸橋さんは「福島も水俣も都会の繁栄を支え犠牲になった構造は同じ。福島が将来輝くには、まず水俣が輝かないといけない」という気持ちが芽生え、脱サラして水俣に移住。
水俣の農家や漁師を取り上げ、その苦闘と哲学を紙面に綴り、彼らがつくった生産物をセットで都会の消費者に送る会員制「水俣食べる通信」を創刊。3年間に渡り発刊を続けたが、さらに深く彼らの命の物語に迫るには、自分自身も生産する側に回らないとダメだと思い、水俣食べる通信を休刊し、新規就農。古民家に暮らし、無農薬無化学肥料で米をつくり始めた。

諸橋さんは昨年、3年ぶりに水俣食べる通信を復刊した。今度は、取材、編集、デザインを担うのは、地元の高校生たちだ。今の高校生たちは水俣の歴史に向き合う機会もなく、そのまま水俣を出て行ってしまう。彼らが、自分たちの地域に誇りを持ち、地域に貢献する道を選ぶようになるには、まずは水俣の苦難の歴史の上にいる自分を自覚できる場がなければと考えたのだ。

水俣に移住して8年目。今回の車座座談会には、諸橋さんを慕う地元の農家や役所職員が集まってきた。水俣病の支援で各地から移住し、その後、有機農業を始めた人々の子どもたちの世代が今やまちづくりの中心となっていた。彼らと共に、諸橋さんもまちづくりの一端を担い始めていた。愚痴や文句をいう人はおらず、みな当事者意識を持って、まちづくりにそれぞれの立場で参加していた。だから、水俣には地域おこし協力隊はいない。

翌日、諸橋さんに連れられ、水俣の女島で漁師をしている緒方正人さんの自宅を訪ねた。緒方さんは、僕の人生に大きな影響を与えた本『チッソは私であった』の著者でもある。自宅の敷地内にある梁山泊ならぬ海山泊で2時間たっぷりお話を聞いてきた。

漁師・作家の緒方正人さん

かつて、父を水俣病で亡くした青年の緒方正人さんは敵討ちに燃え、認定訴訟の原告代表として最前線で闘っていたが、あるとき、突如、代表を降りて患者認定申請を取り下げた。水俣病の原因となったメチル水銀を不知火海に垂れ流し続けた原因企業のチッソ。そのチッソが私の中にもいると言って、認定を取り下げた訳だが、その思考の大転換(悟り)が、そのまま本のタイトルになっている。

レイチェル・カーソンは『沈黙の春』の中で、環境問題はすべての人が被害者であり、加害者でもある二重性を描いたが、日本で最初の公害問題となった水俣病を、自らも加担してきた「人間中心主義の文明の罪」として引き受け、背負い直して生きる緒方さんの言葉はどれも重かった。原発事故のあった福島の地に日本人としてこれからどう向き合い、関わっていくべきか、その心の構えと覚悟を問われた気がした。気候危機の問題についても。ぜんぶつながっている。

実は、緒方さんには8年越しの念願が叶っての面会だった。諸橋さんが移住した8年前、緒方さんに会いたいと手紙を書いたものの、そのときは門前払いをくらった。まだ早いという天の配剤だったと思うが、開かずの扉が今回ようやく開いた。

諸橋さん、緒方さん、スタッフと

緒方さんは、社会システムの中にいる人間は、“いのちの迷い子”になっているという。社会システムから離れて命の層へ降りるプロセスは、養殖場から抜け出た鯛のようなものだと話した。
 
「養殖と天然の鯛は、食べ物が違うので海へ逃げても、どちらの鯛なのか分かる。ある年、鯛の養殖場に台風がきた。養殖の網が破けて、鯛が生け簀から逃げ出したことがあった。網から海へ出た鯛は、網の周りから離れられずにいる。しばらくすると網から離れて海へ出ていき、5年くらい経つと、天然のものとの見分けはつかなくなる。人間の社会も養殖場と見立てれば、社会システムから降りて“天然物”になるには、それなりの時間がかかるもんだ」。
 
諸橋さんは、まさに自分のプロセスもそうだったと語った。東日本大震災がきっかけで、社会システムの外へ飛び出してしまった彼は、ボランティアとして東北へ通い、勤めていた会社とは違う「2枚目名刺」を持って活動をするようになった。そして、水俣で社会システムに囚われない人たちと出会い、その人たちから「命の問い」をもらった。その答えを求めて、水俣で稲作を始めて、自給的な米つくりをする中で、ようやく問いの答えが自分の中から実感として、湧いてきたという。 震災から10年が経っていた。


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