見出し画像

東日本大震災から12年を迎えて

東日本大震災から12年を迎える。3月11日は、ポケットマルシェを運営する私たち株式会社雨風太陽にとって、大切な日である。なぜなら、311がなければ、ポケットマルシェは生まれなかったからである。したがって、私たち雨風太陽も存在しない。改めて、ポケットマルシェが誕生した経緯を振り返ってみたい。


あのとき、津波被害で壊滅した三陸沿岸部の町、避難所で途方に暮れる被災住民の姿をテレビで目撃した私たち日本人は、いてもたってもいられなかった。何か力になりたいという、やむにやまれぬ心の動きに従い、被災地に飛び込んでいった。その多くが、それまで三陸沿岸部と関わりのなかった都市住民だった。救援物資の搬入に始まり、がれきの撤去、傾聴ボランティア、避難所の運営、さらには暮らしや生業の再生、町の復興に、まるで当事者のように関わっていった。 

震災直後、ボランティアに入った大槌町にて

絶望の淵からなんとか立ち上がり、もう一度、前に進んでいこうという被災者たちを見守りながら、背中をそっと押しながら、一緒にがんばろうと鼓舞しながら、被災地となった町の住民と外から手伝いに来た人が力を合わせて、生活と仕事、町の再建を少しずつ少しずつ進めていった。あれだけのことが起きたのだ。被災者たちの力だけで立ち上がることは困難だっただろう。支援に駆けつけた人々の温かい心、励ましの言葉、善意のお金、スキル、ノウハウ、ネットワークを復興の力に加えることで、再起を図っていった。 

被災地の大槌町長と仮設役場にて

一方、支援に駆けつけた都市住民も、日ごろの都市生活で得難い“なにか”を被災地で手にし、心が充足している自分がいた。生産と消費が大きく乖離した巨大な消費社会の中で、自分の仕事にやりがいや意味を見出せず、虚無感に苛まされていた人にとって、直接、困っている人のために役立てたという手応えは、生きる実感そのものをもたらした。また、神様、先祖、自然、地域とのつながりの中で支え合って生きる人々と交わることで、利己心と孤独感が渦巻く都市生活が失った大切なものに気づかされていった。 

大槌の仮設商店街の居酒屋での被災者とボランティアとの交流会

被災者と支援者は、互いの強みで互いの弱みを補い合う関係性を育んでいったのである。たとえ地縁、血縁がなくとも、相手に対する共感、不完全な自分、自己犠牲、主体性など、人間性の根幹を成す部分で温かい関係を紡いでいったのだ。その関係性はもちろん綻ぶことも、切れることもあるが、その中で継続していく関係性は12年経った今も、細く、長く、続いている。今なお、互いに想いを寄せあい、連絡を取り合い、行き交い、盃を交わし、人間同士の付き合いをしている。
 
このように、特定の地域や人に思いを寄せ、関わりを持ち続ける人々のことを、私は「関係人口」と名づけた。この関係人口こそ、過疎で先細る地方と過密で膨れ上がる都市が抱える双方の課題を解決する糸口になると直感したのだ。自然災害は、その時代の社会の弱点を突いてくる。東日本大震災で突かれた社会の弱点は、”都市と地方の分断”だった。ならば、その弱点を克服する方法は、都市と地方の連帯、つまりは関係人口の創出以外にないはずだ。そうであるならば、震災のときだけではなく、日常からこの関係人口を生み出していくことこそ大事ではないのか。そうして生まれたのが、東北食べる通信であり、ポケットマルシェだった。 

図らずも被災地は、日本中の地方が抱える構造的課題を浮き彫りにした。同じ東北でも、被災を免れた日本海側沿岸部に位置する秋田県、山形県、あるいは被災した岩手県、宮城県、福島県でも津波を被らなかった内陸部の農山村は、同じような課題を抱えている。これは東北に限った話ではなく、全国共通の課題だ。農山漁村で過疎高齢化による「人の空洞化」、耕作放棄地増大による「土地の空洞化」、集落機能の低下による「むらの空洞化」。1960年代から70年代の高度経済成長期に、若者を中心に激しい人口流出が進み、その流れは今に至るまで止まることはなかった。その裏返しとして、東京一極集中の問題がある。
 
地方の農山漁村は今、集落の維持管理もままならない状況に追い込まれつつあり、言ってみれば復興が必要な状況とも言える。そこに、どのようにして関わる都市住民を生んでいけばいいのか。それには、「食」が一番いいと思った。つくる人が農山漁村にいて、食べる人が都会にいるのだ。そして、食は毎日欠かせないものだから、平時に両者をつなぐにはうってつけだろうと。そう考えて、2013年7月に創刊したのが食べもの付き情報誌『東北食べる通信』、そしてそれに続くオンラインマルシェ『ポケットマルシェ』だった。そして昨年から、より直接的に両者をつなげる試みとして『ポケマルおやこ地方留学』を開始した。

ポケマルおやこ地方留学では、都会からきたお子さんが雄大な自然を楽しんだ

 私たちはプラットフォーマーとして、この10年間、地方の生産者を起点に関係人口を創出し続けてきた。そして気づけば、関係人口は地方創生の柱の政策として、国から大きな予算を投じられるようになっている。


先月、私は弊社取締役と共に、福島県富岡町、双葉町を訪問してきた。東京電力第一原発の事故で唯一、全町民の避難が続いていた双葉町役場は事故後、埼玉県加須市やいわき市などの4ヵ所に移転を繰り返し、昨年9月、11年半ぶりに故郷に戻り、双葉駅前に建てられた簡素な新庁舎でようやく町の復興に取りかかっていた。避難解除された今も、5,000人の住民は40都道府県で離散生活を送り、双葉町に戻って生活をしているのは60人しかいない。
 
復興事業に奔走している双葉町出身の30代の役場職員ふたりに話を聞いた。ひとりは「同級生たちは避難先で子どもが生まれ、そこで新たな生活を送っている。その同級生から、双葉町出身だと言えないと言われて悲しかった。彼らが胸を張って双葉町出身だと言えるような町をつくりたい。いろいろな人がやってきて、楽しいことが生まれる、そんな町を」。もうひとりは「あちこちが更地になり、いつも通学していたときに見ていた故郷の当たり前の風景がなくなってしまい、思い出せない。自分も子どもが生まれたので、今度はその子にとっての当たり前の風景をつくるのが、僕の役割だと思っています」。
 
人間、失って初めて気づく大切なものがある。彼らは失ってそのことに気づいたのだ。だからそれを取り戻そうとしている。そして、それは、日本中の地方がこれからまさに失おうとしているものではないのか。そう思った。だから、失う前に、気づきたい。そのためには、このふたりの話を聞いてもらうのがよいと思った。この双葉町や富岡町こそ、たくさんの関係人口を生み出していかなければならない場所だ。今からでもいい。この地域に関わる人が増えれば増えるほど、これから失おうとしている大切なものに気づき、行動する人が増えるに違いないと。

富岡町の漁師、石井宏和さんと

彼らの重い言葉を受け止めながら、こういう事態に彼らを追い込んでしまった責任は自分にもあったのだと改めて突き付けられた感じがした。原発事故から12年が経とうとしている今、東京は何事もなかったかのように24時間コンビニに明かりが灯る便利で快適な生活に戻り、それを何事もなかったかのように享受している自分がいる。でも、彼らの言葉に触れ、思い出した。原発政策の賛否は置いておいても、原発によって成り立っていた、きらびやかな都市生活の恩恵に預かってきた人間のひとりとして、何事もなかったでは済まされないのだ。
 
民主主義の意思決定に加わっていない子どもを除き、すべての日本人に責任はある。選んで、決めて、責任をとるのが民主主義なのだから。だから、今からでもいい。この問題から目を背けず、もう一度、改めて向き合い直したい。これ以上、この国が大切なものを失わないように。そう心に誓って、福島を後にした。次の10年、私たちは引き続きプラットフォーマーをやり続け、日本中に関係人口を毛細血管のように染み渡らせながら、この地に会社として何らかの関わりを持ちたいと思う。日本人が決して忘れてはならないこの原発過疎地に、多くの関係人口を生み出していきたい。ならば、まずは自分たちが率先垂範して関係人口になっていきたい。


(執筆:雨風太陽代表・高橋博之)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?