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輪島に帰ってきた青年と共に「傷ついた故郷の再生のために力を尽くす」(執筆:高橋博之)

輪島で生まれ育ったひとりの青年が、鮭が大海原を旅し、生まれ故郷の川に戻ってくるように、13年ぶりに輪島に帰ってきました。笹谷将貴くん、31歳。輪島の町中にある洋服店のひとり息子として、母親と祖母に育てられ、輪島高校から京都大学に進学。卒業後は、映像会社を経て、東京のITベンチャーでバリバリ働いていました。

昨年末、神奈川出身の奥さんと1歳の息子を連れて、輪島に里帰りしていたところ、元旦に被災しました。一度目の揺れで息子を抱きかかえて外に飛び出すと、目の前でビルが横倒しになる瞬間を目撃。避難所で1月4日まで過ごし、知人の車に乗せてもらってなんとか金沢に脱出。後ろ髪ひかれながら新幹線で東京に戻りました。それから一ヵ月あまり、笹谷くんの心は揺れ続けます。このまま東京にいていいのか、輪島に帰るべきなんじゃないか、と。

2月14日、彼は腹を決めます。会社を辞めて輪島に帰り、傷ついた故郷の再生のために力を尽くすと。戻ってからの仕事のことなど何も決まってませんでしたが、とりあえず帰るということだけ決め、奥さんに伝え、理解してくれた奥さんも本当にすごい。とはいえ、輪島の家はもう住めないし、借りれるアパートもないので、内見もせずに金沢に部屋を借りることに。

3月8日、僕は八重洲ミッドタウンで地方創生イベントの基調講演をやらせてもらいましたが、そこに彼は来ていました。斜に構えている彼は普段、そういう真面目なイベントに顔出すことはなかったそうですが、輪島に帰ることもあり、なんだか気になって覗きにきたようです。能登復興の意味について語った講演の終了後、名刺交換に来てくれた彼は言いました。「輪島出身です。今度東京から引き揚げて輪島に帰ることにしました」と。初対面でしたが、思わず抱きしめてしまいました。

あれから一ヵ月。今週、ほとんど毎日のように能登で一緒に行動していました。昨日は、笹谷くんにとって1月4日の脱出後、初めての輪島入りでした。昼飯は石川県民が愛する8番ラーメンへ。混んでましたが、通された席は、奇しくも昨年末に笹谷くんが家族で食べに来たときと同じ席で、なんだか見えない力に導かれてる感。子どものころから食べているという野菜ラーメンの塩味をいただきました。改めて、すごいなおまえ、よく戻ってきたなあ?と聞くと、「いや、当たり前っていうか」と、常に控え目に答える彼なのです。能登人らしいと言えば能登人らしい。

午後、彼を連れて深見小学校跡地に行き、知人に紹介し、話していたところ、偶然、笹谷くんの小中の同級生が現れました。聞けば、太鼓の練習に来たとのこと。せっかくなので、練習しているところを見学させてもらいました。輪島から一歩も出ず、小学校のときから続けているという太鼓を叩く同級生と、輪島から出て外の世界を見て回り帰ってきた彼。魂をゆさぶる太鼓の音で、まるで神様が仕込んだ歓迎会のようでした。

力強い太鼓の音は笹谷さんを鼓舞しているようでした

その場を腕組みしてじっと見つめていたのは、この地域の太鼓の師匠で、その同級生のお父さんでした。笹谷くんが、その親子に避難所で自分のおばあちゃんが優しくしてもらったと聞いていましたと頭を下げ、みなさんがこの地域を守ってくれていたからこうして帰ってこれると感謝の気持ちを伝えていました。すると、その師匠は首に巻いていたマフラーを触りながら、これは笹谷くんのおばあちゃんがつくってくれたこと、本当に暖かくて片時も手放せなくなったことのお礼を笹谷くんに伝えていました。

笹谷くんはこれから雨風太陽の仲間に加わることになりました。間もなく雨風太陽の名刺も届きます。業務委託からのスタートですが、一緒に力を合わせ、能登の復興に尽くしたいと思います。僕もこの3ヵ月間ずっとひとりで活動してきてヘロヘロだったので、頼もしい相棒ができてうれしい限りです。こういうのを、天の配剤って言うんでしょうね。能登のみなさん、帰ってきた笹谷くんをよろしくお願いします!

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