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城、島に帰る。(執筆:高橋博之)

コンビニも病院も交番も信号機もない、人口690人ほどのそんな小さな島、鹿児島県長島町の獅子島。1986年、山下城さんは漁師業を営む山下家の長男として生まれた。大正8年から代々続く漁師業を守り続け、2019年にちょうど創業100年を迎えた。城さんは4代目にあたる。小学生の同級生は8人だった。全校生徒30人。ほぼ漁師の子どもたちだった。同級生8人の中で、今も獅子島で暮らしているのは、城さんひとりだ。
 
子どものころ、実家の漁師の仕事も、島での暮らしも、本当に大嫌いだった。漁師になるなんて、まったく思っていなかった。幼いころから、毎朝、父に連れられて船の仕事を手伝わされ、家に帰ってシャワーを浴びて学校に登校する生活が嫌で、早く島を出たくて仕方がなかった。中学まで獅子島で過ごし、高校進学と同時に島を出た。島には高校がないので、鹿児島の本土の高校に入り、寮生活を送った。親から解放されて、毎日が楽しかった。部活やバイトを理由に、ほとんど島には帰らなかった。
 
中学からバレーボールに打ち込んでいたので、子どもたちに教える側に回りたいと、教員を目指し、長崎大学に進学したが、島出身であることは恥ずかしくて言えなかった。商業系の教員免許を取得するも、教壇に立つ前に自らが商業の現実を学びたいと、富士フイルム株式会社に就職し、上京。入社から3年間、関東エリア写真店のデジタルカメラ販売営業を担当した。地方出身であることを馬鹿にされたくないという一心で人一倍働いた。3年かけて取引先の自社製品の販売シェアをトップまで押し上げた。
 
2012年、大学時代から交際していた彼女と結婚するも、その一週間後、会社のグローバルリーダー育成を目的とした海外トレーニー制度語学留学生に抜擢され、中国に単身渡ることに。上海の大学で1年間学び、中国語検定最上級を取得。その後、上海にある同社中国法人に出向することになり、妻を呼び寄せ、駐在して2年半は一緒に暮らした。妊娠を契機に、妻を先に日本に帰した。若手の海外勤務は3年という慣行があったのですぐに追いかけて帰国できると思っていたが、結局6年間駐在することに。
 
毎日、オンライン電話をつなぎ、生まれたばかりの子どもを愛でた。妻の実家の長崎まで上海から定期便があったので、ちょくちょく会いに帰った。そのころ、城さんには少しずつ心境の変化が起こっていた。仕事を通して様々な国の人と繋がり、人脈を広げ、多様な価値観に出会ったことで、「自分が本当にやりたいことは何なのか」と自問自答するようになっていた。
 
そして、帰国する度に獅子島にも家族で行くようになったが、学校が廃校になっていたり、漁業が衰退していたり、島からどんどん活気がなくなっているのを目の当たりにした。「昔はほんとに大嫌いだったんですけど、なんかほっておけない自分もいて。島に元々ある漁業や農業で何か商売をしたいなという気持ちが芽生えていったんです」と、当時の心境を吐露する。
 
31歳で帰国。6年間、語学力を生かし、成長著しい中国全土を飛び回り、チェキを含めた写真の材料を売る仕事に没頭し、同社のビジネス拡大に貢献したことは自信になった。2017年には事業部としても過去最高の事業売上と事業利益を達成した。しかし、故郷を盛り上げたいという気持ちは大きくなる一方で、半年後に、会社を退職。当初は反対していた妻を説得し、妻、子ども3人の家族5人で獅子島にUターン。4代目として稼業の漁師業を引き継いだ。父は驚いたが、どこかうれしそうでもあった。
 
2012年、城さんの父、英輝さんは漁師業を営む傍ら、漁師仲間たちと「島のごちそう」の屋号で、加工・販売を手掛けるグループを立ち上げていた。規格外品や自家消費用に残した水産物を練り物や干物にして日常的に食べていたものを商品化し、販売を始めたのだが、なかなかうまくいかずに休眠状態にあった。城さんはその「島のごちそう」のテコ入れから始めた。それまでのビジネスの経験を活かし、現状を分析した上で課題の抽出し、対策を講じることによって、生産と販売の規模を拡大。島内での雇用を創出しながら、2年で売り上げ4000万円の事業に成長させた。

また、コロナ禍で始めた産直EC「ポケットマルシェ」にも手応えを感じている。

「すごく役立っている。これまでのように漁協に出しているだけど、誰が売って、誰が食べているかわからないのでやりがいもない。お客様と直接やりとりできて、とにかく距離が近い。コメントから次につながるモチベーションもらったりしますし。逆に厳しい声は改善のヒントになる」。

父の英樹さんは、人生をたくましく切り拓く力を養ってもらいたいと、幼少期から息子に厳しくあたった。それがゆえに、城さんは島を出ていった。それでもやがて、城さんは「失いたくない場所」である故郷を元気にしたいと帰ってきた。そして、今は父に「そのやり方は古い」と苦言も呈する、たくましい人間になった。城さんは、島で育った若者たちが外に出ても、将来、帰ってもいいかなと思える場所にしたいと思っている。「3人の子どものうち、ひとりでも、将来戻ってきたとなればいい。親父のやり方ここがダメなんだよって言ってくれるくらいになって。それが一番の望み」。


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