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どこかへ行ってしまった自分の話

 何年も、自分が何を好きだったのか思い出せずにいた。

 生きづらさを強く感じるようになり、わたしはわたしを変えた。選ぶもの、行く場所着るもの歩く道順さえも、他人がつくったわたしに決めさせるようになった。本当のわたしは奥へ奥へと押しやられ、たぶん嫌になってどこかへ行ってしまった。そして愚かにも、そのことに何年も気付けなかった。

 上手くやりたかった。笑顔で、明るく朗らかで、天真爛漫で、優しくて、誰からも好かれて、少女漫画の主人公のような、少年漫画のヒロインのような、そんなわたしになりたかった。だけど残念ながら、わたしはそのような人間ではなかった。

 理想のわたしでいられるためなら、何だってやった。帰り道に泣いても、暗い部屋で息ができなくなっても、目の前が霞んで見えても、歩いて、歩いて、歩いて、歩いた。気付いたら、わたしはもういなかった。置き去りにしたのかどこかへ行ってしまったのか、一度も振り向かなかったから、そんなことは知らなかった。とにかく歩いた。前へ、前へ、前へ、笑顔で。

 あの頃のわたしに何が見えていたのか、今はもうよく覚えていない。

 取り繕い、理想そのものになったわたしは、社会で生きていくのにぴったりなように思えた。不満などない、全て上手くいっている。全て上手くいっている。だけど待って、ねえ、これってさ、いつまで歩いたらいいの?遠くから聞こえる声に、耳をふさいでいた。

 本当のわたしはもっと、醜くて弱い。神経質で、みっともなくて、気も利かなくて、上手に話すこともできない。発言するとその場の空気が変わり、どこへ行ってもひとりぼっち。誰かが助けてくれるなんて、思ったこともない。主人公でもヒロインでもない。魔法も使えないし、秀でた特技もない。どこへも行けない。どこへ行く勇気もない。

 「理想のわたし」は、あっけなく崩れた。きっかけは、会社の大好きな先輩に言われたことだった。

 「あなたは、何色が好きなの?」

 そんな簡単な質問に、時間が止まったような気分になった。わからなかったのだ。何色が好きかなんて、考えたことなかった。何年も。そういえば、わたし、何が好きだったんだっけ。少しずつ、作り続けた理想が、壊れていくような気がした。

 そして今、「理想のわたし」は、もうどこにもいない。

 先輩に質問されたあの日から、わたしは自分の好きを探るようになった。慎重に、ゆっくりと、少しずつ、宝物を探しているようだった。だけどそれと同時に、またあの生きづらさが度々わたしを襲うようになった。恐ろしかった。またあれがやってくる。また、あの、本当のわたしが、やってくる。それでもやめられなかった。知りたかった。わたしは、何も知らないわたしのことを、知りたかったのだ。そして、できれば、好きになりたかった。

 好きなことを順番に思い出し、持ち物も部屋も好きなものしかなくなり、ずいぶんと居心地が良くなった。もう他人の部屋じゃない、これがわたしの部屋。どんなときもわたしを守ってくれる場所。何が好きか、自分の口で言えるようになった。それを咎めるかのように、生きづらさは日に日に増していった。悪夢を見る日も、息ができない日も、理由も無く涙がでる日も増えた。どうして上手くいかないんだろう。やっと、戻ってこれたのに。やっと、取り戻したのに、どうして。毎日自分を責めた。程よくができず、楽しいと思えることも減り、ごはんを美味しいと思うこともなくなった。そうしてそのうち、好きだと思っていたものすべてを失った。あんなに努力して勝ち取ったものを簡単に手放し、好きだと思っていたものも見えなくなり、どこかもわからないところへ迷い込んだ。手は大きくなり、砂漠で恐竜の骨が歩いていた。大きな帽子をかぶった人が、旗を振りながらこっちだと叫んでいた。大きなタイヤに轢かれそうだった。この闇が、暗い夜が、永遠に続くのではないかと恐れていた。

 だけど、鬱々としてるわたしの手を取り、「生きているだけでいい」と言ってもらった夜、いつもとは違う涙が出た。それを、誰かにずっと、言ってほしかった。ここにいるだけでいいと、主人公じゃなくても、ヒロインじゃなくても、価値があると。自分ではなく、誰かに。蔑ろにされるのが怖かった。大切にされない自分が恐ろしかった。蔑ろにしていたのも、大切にしていなかったのも、誰でもないわたしだった。瞬間、視界が開けた気がした。

 温泉に入り、美容室へ行き、診察を受け、映画を観て、何にも追われない日を過ごした。友人に連絡をとり、妹と会い、家族と食べたごはんは久しぶりに美味しいと思えた。宝物は、いつだってここにあったのだ。いつも誰かが助けてくれていた。狭い場所で息もできず、他人の運転する車に無理して乗っていても、きっとその先には何も無い。わたしはこの車を降りよう。それで構わない。心から、そう思えた。だって、世界は広いのだ。わたしはひとりではないのだから。

 わたしの好きな色は、水色。ピンク。

 今もクローゼットには、大好きな色のスプリングコートが、わたしと一緒に春を待っている。

 


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