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母乳育児に挑戦することにした話

第一子を妊娠中、産後のことはあまりにぼんやり霧の中に見えて何も考えていなかった。里帰り出産のため帰省した私に、生後10か月の赤ん坊を育てていた妹が、ねーちゃん母乳育児の準備しよる?と訊いてきた。何それ、である。

病院で手渡された資料をよく読んでいくと、最後のページに確かに説明されている、乳房と乳首の事前準備。しかし、生むことで頭がいっぱい、母乳云々考えたことがなかった私はへえっと一読したものの、すっかり忘れていたのだった。

母は私を人工ミルクで育てた。哺乳拒否を受け母乳は出ず、作ったミルクもほぼ飲まず、作る先から流しに捨てることになり、この子は霞を飲んで成長しているんだと思ったと、ほぼ恨み言の思い出話を繰り返し聞かされた。そのため、何となく、母乳は出ずミルクは拒否されながら苦労して与えるものらしいと思っていた。準備することという認識がなかった。

妹は、完全母乳で育児をしている最中だった。同じ母から生まれた妹が、母乳に困っていないという事実。突然、私の中に選択肢が生まれる。準備って何をしたらええんだっけ!慌てる私に、妹がマッサージを教える。

とりあえず、哺乳瓶と粉ミルクを買わないままに出産の日を迎えた。(一種の決心である。)出産した総合病院は、母子別室だった。新生児は一括して別室管理となる。出産後、体を休めることができることが大きな利点とのこと。一方で、決まった時間に授乳をすることから、赤ん坊のリズムとうまく合わなくて、授乳時間にぐうぐう寝ていて全然吸ってくれないことや、母乳が出ない即ミルクで補うというシステムから、母乳の分泌が進まない、というデメリットがある。

ちなみに妹は母子同室入院可能なクリニックを選んでいた。生まれた瞬間から頻回に乳首をくわえさせることができるため、母乳分泌を促進し赤ん坊の哺乳力を高めることが可能だ。一方で、母親の睡眠時間は超絶細切れになり、またおむつ替え等のお世話ももれなくついてくるから、産後休憩なく育児スタートという過酷さがある。

入院中の授乳の記憶をたどると、なぜか夜の場面ばかりである。よたよたと暗い病室を抜け出して蛍光灯の灯る新生児室まで歩いていく。不自然に明るいその部屋の、コットに収まる赤ん坊を覗く。ふにゃふにゃの湿った熱のかたまりにそっと手を伸ばす。オルゴールの音楽が鳴っている。

赤ん坊との触れ合いは、その3時間置きの授乳時間のみだ。まずはおむつを替えて体重を測定。ここでつまずく、すなわちオシッコが漏れてた…とか、オシッコが飛んできた!とか、があるとかなり辛い。円座の椅子に座っておっぱいをやる。そして体重を測定し、飲んだ量を確認。ほとんど出ていないじゃないか、という現実にため息をつく。母乳瓶から規定量のミルクを与えて、よう飲むねえ…と感動しつつ、おっぱいもこれくらい出たらなあ、としょんぼりして、おしまい。

初日の、よく出そうなおっぱいだね!という看護師さんの言葉をお守りにして、出ない乳を吸わせ続け退院の日には、何とか飲んでいるらしいことが確認できるまでになった。

良いおっぱいを生産するためには、良い食事が不可欠。できるだけ手作りで、栄養バランスの取れた食事をとりましょう、という指導を受けて退院した。実は出産翌日、隣のベッドの方からお見舞いのドーナツを御裾分けしてもらったが、看護師さんには、そういうものはこれが最後と思ってね、と笑わない目で釘をさされた。この言葉の意味については、後日知ることとなる。

退院後、三時間待たずにどしどし授乳のタイミングを取り、乳で口をふさぐ作戦を決行した結果、私の母乳育児は軌道に乗った。何の問題もなく1か月検診を終え、成長著しい赤ん坊は、どんどん体重を増した。私は、30年の時を超え、いまだ悔しがる母を横目に、余裕の笑みを浮かべたのだった。

つづく・・・。


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