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希死念慮と生きる自己紹介的なやつ。

私が3歳の頃、母親は離婚した。
それから地元にいた祖母が来てくれて

祖母、母、私、弟との生活が始まった。

とは言っても、祖母は目が不自由なので働けず
母の収入では生活が回らなかったのだろう
いろんな土地を転々として
小学1年生の冬休みに母の地元に戻ってきた。

母が介護職に就いたおかげで社宅があり
ようやく住む場所が落ち着いた。

そう、文字通り住む場所がの落ち着いた。

私の地元には自殺の名所と言われる橋が2ヶ所ある。
両方共徒歩10分で到着できるし
なんなら普通に使われる橋。人によっては通勤/通学路笑


祖母が同居してる頃、母と祖母は何かと喧嘩をしていた気がする。喧嘩の内容は覚えてないけど
決まって祖母が「どうせ私のこと邪魔だと思っているんでしょ!?それなら××橋から飛んでやる!」と言い母が
「できるもんなら飛んでみなよ!人の気を引きたいだけでしょ!?」と言い返す。

二人は毎回これを繰り返す。この時間が苦痛だった。
そして苦痛を得るたび「あの橋から飛べば●ねるんだ」と小1の私の逃げ道が少しずつ脳内で構成される。

それから気がつけば嫌なことが起きるたび
「今度怒られたら橋から飛ぼう」が脳内での口癖になった。
本当にそんな子供の頃に?と思うでしょう?

小2の夏、初めてTDLへ母と弟と三人で行ったとき
「ピーターパン空の旅」の列に並びながら
少しだけ見えた夜のパレードの強い光に「死ななくて良かった」と思った。
それまでは「TDL行くまでは死なない」を御守に生きていたのを今思い出した。

別に家族が嫌いなわけじゃないし、こういう生活環境だったから得られた事も沢山あったと思う。
ただ、私は、人より早く希死念慮と友達になってしまったから、自分に似たような憂いてるような漫画やアニメに興味を示し、メンヘラ化しても愛される主人公に強く憧れた。そのせいか恋人には「本当に私のことが好きなのか?」を確かめずにはいられなかったし、恋人が私よりも異性問わず友達と過ごすことが許せなかった。

だからしょっちゅう気に食わなければ「もう帰る!」「別れる!」と言い、関係を引き留めさせた。引き留められることで私が一番でいられると思ったから…。いや、少女漫画の主人公になれた気がしたから。私は誰にでも愛される主人公になりたかった。

なんでこんなに人に依存するんだろ?と過去を振り返ってみると、私はそもそも友達が少なく、また友達との過ごし方も分からなかったことが原因なんじゃないかと思う。


でも4歳までは自分から知らない子に声をかけて遊ぶくらい活発だったし、大人達の宴会ではドサクサに紛れて何かを披露していた。
そんな私が人を怖がるようになった原因はなんだろうか?

多分4歳の頃に得てしまった外見コンプレックスが原因。

4歳の始めくらいまでは髪の毛が腰まであった。
母がよく三つ編みにしてくれたから大人達に「可愛い」と沢山言われてきた。
しかし、髪の毛をクシでとくと絡まって痛かったり、お風呂あがりに髪を乾かすのが面倒くさくて
「マーキュリーみたいに短くしたい」と言ったのが悲劇の始まりだった。

髪の毛を切った日、鏡に映る自分に恥ずかしさを感じた。
母親含めて周りの大人は「可愛くなったね」と言うけど、恥ずかしくて後悔した。

あまりにも私が凹んでいるので「喫茶店でお子様ランチ食べようか」と母が提案してくれ、お店に入った。

お店に入って水を出してくれた奥さんが「可愛い坊や達だね」と母に言った。母は慌てて「この子はお姉ちゃんなんです。ちょっと髪を切りすぎてしまって」と訂正してたが、私は恥ずかしさで涙が出そうになった

その後もどこへ行くにも「お兄ちゃん」「坊や」「男の子」と言われ続け、私は鏡で自分の顔を見れなくなった。

さらに私に追い打ちをかけたのが保育園での自由時間。

元々保育園に通うのが遅かった私は保育園の雰囲気が苦手だった。それでも独りぼっちが恥ずかしかったから「お母さんごっこ」をしている子に話しかけた。

「男の子みたいな子はダメ!!」とハッキリ言われ、溢れそうな涙を堪えた。

でも独りぼっちの方が恥ずかしかったから、今度は「お店屋さんごっこ」をしているグループに話しかけると「じゃあたまに来るお客さんならいいよ」と仲間に入れてもらえた。けど「たまに来るレベル」。限られた自由時間での「たまに」とはどれくらいの頻度だろうか……悩みながら頻繁にお客さんをした。

そこからユキちゃんという友達ができるも、ユキちゃんの親友の女の子から「男女はユキと喋るな!!」と言われまた保育園に行く機会が減った。

小学校に上がってからは男の子と戦いごっこをすることにハマった。身体を動かすのが楽しかったのと「男子に負けるなー!」と女の子から応援を貰うのも嬉しかった。

しかしその年の冬休み、母の地元に帰ることになり私は転校した。

転校先では「戦いごっこ」をしている男の子がいなかったのと「男の子と遊ぶのは変だよ」と女の子に言われたので、人形遊びに変わった。

けど、私がリカちゃんを持っていなかったのと、前の学校のような目立つ場面が減ってしまったのが物足りなかった。

そんなある日、私は唯一目立てれる方法を見つけてしまった。これも私の人生を悪い方向へ向かう大きなきっかけになる。

私のクラスには何かとすぐ泣く子が2人程いた。
その子達が泣くとみんなが「どうしたの?」と駆け寄って「大丈夫?」とチヤホヤする。その間、クラスは泣いている子に注目する。

単純な私は「それだ!」とひらめいた。
今までは泣かなかったら「強いね」と褒められた。けど、この学校は泣くことで皆から優しくされる。そっちの方が目立つじゃん。と思った。

それから何かとすぐ泣くメンバーに加入。
クラス替えの度、メンバーは入れ替わるも泣く回数は断トツを誇っていた。

そしてとうとう「すぐ泣くうざい奴」のイメージが浸透し、クラスの気の強いグループにイジメられた。

それからは絵に描いたように孤立して、人の輪にも入れず、自尊心なんてもうなく、ただただイジメられるだけの人間になった。

今の私だから言える。完全に自業自得。
泣くメンバーがいなくなったと気づいた時、私も辞めるべきだった。けど「ようやく私1人になった」と何故か優勢と勘違いしたんだから後の祭り。

それから高学年になり、上履きに砂を入れられたり
擦れ違い様に叩かれたりするようになってからは悔しいから泣くことを辞めた。

担任に相談したが「うちのクラスにはイジメはない。ぽちゃさんはクラスの仲間を疑うのか?」と言われた。

それから中学、高校と進み、引き続き馬鹿にされ、クラスに馴染めず学生時代が終了した。だから学校で友達と呼べる人は2人くらいだった。

そんな高校生のときの居場所はSNSだった。
当時使っていたSNSにはアバターがあり、学生だったから課金はできなかったけど、サイト内でコツコツポイントを貯めてなりたい自分を作れたし、お互いリアルを知らないから外見も過去も気にせず新しい自分で生きられた。

そしてなにより、甘えベタな私が唯一甘えれる場所だった。


私が小6のとき、母と祖母がまた喧嘩をしてとうとう祖母が実家に帰ってしまった。

それから母の相談や愚痴を聞くようなって「本当にアナタはしっかりしてる」と言われ嬉しかった。もっと大人になろうと思った。

中学2年生になった頃、保健室登校をしているクラスメートの話し相手になり、友達となった。その友達のご家族からも「本当にぽっちゃんはしっかりしてる。この歳で考え方が大人だね」と言われ、嬉しい反面、もっと大人にならなきゃ!と強く感じ甘えることが遠ざかった。

だからこそSNSは私にとって唯一我儘を言えて、甘えることができる場所だったし、「JK」というだけで皆が優しくしてくれた。勿論上辺だけの人もいたかもしれない。それでも「もうヤダ。辛い…」と呟けば「話し聞こうか?」と顔の知らない年齢も様々な友達から返事が貰えることに救われた。


それから大人になって、恋愛で悩んだり、仕事が突然なくなったり、友達に利用されたり、サプリ経由で詐欺にあったり……と、いろんな出来事があり、その度希死念慮に苛まれた。

元々PMSとPMDDもあるため、希死念慮に苛まれる数は人より多いとは思う。
けどその度、虹の橋を渡った猫達が迎えに来てくれたらどんだけ楽だろうか……って考えてしまう。

でも、今思うとあの頃は世の中に不平不満も確かに多くて、すぐに喧嘩したり、愚痴ばかり吐いていた…。だからまたもや自分から嫌われる方に進んだ。でもあの頃の私は「少しくらい私の話聞いてくれても良いじゃん」としか思ってなかった。
無意識に周りの人達を不快にさせていたことに気付なかった。

そんなある日、当時は不幸の連続としか思えなかった転機が訪れた。

印刷会社でバイトをしていたとき、急遽ベテランスタッフが体調を崩して休んでしまった。2人1組で検品をする仕事のため、私は殆ど面識のない部長と組むことになった。

部長は好き嫌いが激しいと噂で聞いていたので黙々と仕事をこなした。その日は検品するものが多く珍しく残業になった。
チャイムが鳴ったので残業前の「15分休憩」を取るために「休憩頂いて良いですか?」と部長に声をかけると「その15分で仕事を終わらそうと思わないのか?」と言われた。
きっと空気を読める人なら謝って業務に戻るのだろうが、私は驚いてしまって「休憩は必ず取るよう先輩に言われたのですが…」と言ってしまった。

翌日、面接をしてくれ、日頃から私を気にかけてくれる社長に呼び出され「○○さん(部長)から仕事は手を抜くし、口応えもして業務態度が非常に悪いって言われてしまって……申し訳ないけど今月末で退職と言う事にしてほしい」と言われ職を失う…。

この会社では一度でも部長に嫌われると、どうにか残れても結局居場所がなくなるらしい。だから残るより辞めた方が良いと…。

そして災難はさらに続く。当時ルームシェアしていた友達が仕事の都合で他県へ引っ越すことになり急遽シェアも解消。

ルームシェアで借りていたマンションの家賃は二人だから支払えていたので、私は引っ越しまでしなくてはいけなくなった…。

今の預金金額で引っ越しできる場所を不動産に探してもらい、無職でも借りれるアパートに引っ越し。

仕事は黙々とこなせる事務を探すも、採用されたのが「営業事務」。また「営業を知らないと事務もできない」と言う説明から電話営業のバイトを始めることになった。

私の中で営業職だけは避けたかった仕事で、しかも想像通り殆ど相手にされないネット回線の営業。「結構です!」「こんな迷惑電話かけてくるんじゃねぇ!」「人に迷惑かけて親が泣くよ!」など散々な事を電話先で言われる日々。
でも100人に1回は「じゃあ契約してみようかな?」「解りやすい説明をありがとう。じゃあやってみようかな?」など、優しい言葉を頂き契約を結ぶことも勿論ある。そんな日々を繰り返していくうちに「どう説明したら解りやすいか?」「お客さんは今何に不安を感じているのか?」など考えるようになり、次第に仕事に遣り甲斐を持ち、気づけば「人」に優しくなれた。

また、会社の禁止事項に「不平不満、悪口、ネガティブを言わない」というものがあり、最初こそは辛かったが、1ヶ月もすると、自然に言わなくなっていた。

あの頃から仲間も友達も増えた気がする。

それでも心の何処かに空いている穴は塞がらず
でも何が原因で穴が空いているのかも分からないまま、定期的に襲われる希死念慮に苦しめられた。

“こんなに苦しいなら25歳までに死にたいな…”それが目標になった。

因みに高校のときは「成人式終えたら人生を終わらそう」が目標だった。

だからこの目標も達成させる気はない。けど達成させなきゃと思う自分もいて検索ワードが「綺麗な死に方」で埋め尽くされた。

結局目標の25歳過ぎていき、私は変わらず呼吸をしている。営業職はメンタル面の都合で1年で辞めた。



『仕事に遣り甲斐を持てない人に読んでほしい』というネットの紹介で『生きがいの想像』という本を読んだ。
私はこの本から『仕事のやり甲斐』については何も感じなかったけど、昔のやりたかった仕事を思い出した。「そういえば人の悩みを解決する占い師になりたいと思ったことがあったなぁ。あと人の痛みに寄り添うカウンセラー……」

そこから通信教育や動画サイトで占いやカウンセリングを勉強し始めた。

友達やSNSで練習を兼ねて占わせてもらうと、私が過去に経験した悩みに似たことで悩んでいる人や、私が立ち直った方法が相談者さんにも合ったりなど、過去の経験が占いやカウンセリングに繋がっていくのが分かった。

まるでこの日のために経験をさせられていたみたいに……。

「私の経験が誰かの役に立つ」そう感じた瞬間、私の中の「ついてる/ついてない」ジャンルが消え、数日落ち込む程苦しいことが起きても「必ず必要な経験なんだ」と思えるようになった。

勿論PMDDで希死念慮が定期的にやってくるし、生きることに疲れることもある。だけどまだ見ぬ誰を救える体験かもしれない…と思ったら「ちゃんと味わおう」と目を開くことができる。



そして今、私は配信アプリのPocochaで配信をしている。なかなか上手くランクアップには繋がらない。

けどそれでも目標がある。
S帯にいってE〜S帯までのライバーさんの悩み相談や、まだ見ぬリスナーさんの悩み相談までできる、カウンセラー兼占い師になると。

最終的には占いやカウンセリングをコンセプトにしたカフェをひらくこと。心や頭を休めたいとか、一人になりたいとか、話を聞いてほしいとか……。そんな「帰りたい場所」



どれだけ力になれるかは分からない。だけど自分がちゃんと苦しんで、喜んで、成長していけば、全てが私の武器になると思う。

私は私が感じたすべてを無駄なく活かしたい。

だから今日も生きて、そして占う。


https://www.pococha.com/ja-jp/app/users/13b512b0-8b6d-4aed-9464-74d675f82081

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