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美斯樂(メーサロン)と北京人おっさん 4


友人に起こされ、目を覚ますと外は雨が降りしきっていた。東南アジアのスコールである。晴れていても涼しいメーサロンの夜は、やや肌寒いくらいにまで気温が下がっていた。

身体を起こして長い階段を上り、ホテルのテラスにたどり着くと、おっさんがiPhoneの翻訳機能を使って友人に何やらずっと同じような話をしている。いや、同じような話というか5回くらい同じことを言っている。そして、おっさんの要領を得ないその話は、しばし不在にしていた通訳係こと私にも降りかかってきた。おっさんの言い分をわかりやすく噛み砕いて説明すると以下の通りである。

「さっき文史館まで送ってくれた爺さんに2回も飯を奢るから晩飯来てくれと頼んだのに、足が悪いからと断られてしまった。爺さんはタダで文史館まで送ってくれたが、ワシは爺さんに何も出来ていない。これでは契約の概念が壊れてしまう。契約というものは双方の合意のもとでなされる普遍的な概念だ。これはすなわち、契約が破られたということだ。ワシは爺さんに怒っているわけではない。ワシと爺さんの関係はこれで終わりということだ。」

以上の内容のことを延々と繰り返し我々に言い続けてきたのである。面倒臭え………。私も友人も正直うんざりしていた。私がダウンしている間も友人は同じことを聞かされていたので友人の方が辛かっただろう。スコールは穏やかな雨へと変わり、時間は夜10時になろうとしていた。

私は昼飯をゲロったので腹が空いていたのだが、おっさんは晩飯を食いたくない気分らしく、晩飯には在り付けなかった。飯を食うわけでもなく、何をするわけでもなく、ただただテラスでおっさんがお気持ちを開陳する気まずい時間が続いていた。おっさんの論理には突っ込みたいところが多数あったが、ここでレスバしたところで何が生まれるわけでもない。そして、爺さんの恩には恩で報いたいのに断られてしまったというおっさんの悲しみがわからないこともない。「メーサロンでやることは無くなった。ワシは今から家に帰る。お前らメーサロン楽しめよ」と半ば自暴自棄になってるおっさんを見て、私の中には憐れみの心が生じていた。そこで、私はおっさんに我々と一緒についてこないかと持ちかけた。これだけアクティブな中国語ネイティブがいれば、多少は旅行の役に立ってくれるに違いないという打算もあった。私の提案におっさんは顔を輝かせて、是非一緒に行きたいと答えた。おっさんは我々のパーティーの一員となったのである。

しかしながら、結論から言ってしまうと、メーサロン以外でおっさんは役に立たなかった。おっさんはタイ語はもとより英語も出来なかったからである。だが、それでも良かった。おっさんがメシを奢ってくれたからである。また、チェンマイで謎の中国人を召喚したりして我々の旅に彩りを添えてくれた。旅の話のネタが増えたという点についてはおっさんに感謝しても感謝しきれない。

かくしておっさんとのタイ珍道中が始まったのであった。


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