ことばのうみのはじまり8 人生のハック

どんなエピソードにも別の一面がある。
言葉にしてない部分、話さないことの引き出し。
今回はそんな描き切れていない一面の話

”おまえなら 行けるさ トム 誰よりも 遠くへ”

トムソーヤとハックのように
空の遠くへ行った同い年の幼なじみがいる。
オタマと呼んでいた。

わたしは物心つく前から国鉄アパートの団地に住んでいて、向かいにオタマが住んでいた。「はじめまして」の挨拶をした記憶は残っていない。
世界が始まった時には、オタマはわたしの隣に座って居た。

オタマは子どもの頃は丸顔で緑色が好きで、ウンコのことを「バンバ」と言っていた。のんびり屋さんであまり動じない。世の中にあまり目の向かないわたしと違って、テレビやお菓子など流行りものを教えてくれた。それまでわたしが好んで観ていたテレビは「もぐらくん」というアニメ。現代ではクルテクというチェコのアニメとして知られているが、メジャーとは言い難い。オタマはわたしに世界を開いてくれた。

我が家は食べ物に厳しいわけではなかったけれど、母が出してくるお菓子は六花亭のバターサンドやヨックモックやモロゾフなど、信用金庫で働いていた当時友人と食べていたもので、高級というか大人向けというか。だからわたしにとっておやつとは、たまに出てくるけどあまり興味のないものだった。
ある日オタマの家でスナック菓子のカールを食べた時の衝撃はすごかった。すぐに母に報告しわたしはスナック菓子という文化を得、「安上がりな子だ」と言われた。

幼稚園に馴染めず、毎朝門の所で泣いていた時だって、オタマはそこにいた。同じフジ組。仲良しのオタマがずっと一緒でもわたしはダメなままだった。

その後小・中学校と同じクラスになったことは一度もない。
それでも毎朝ずっと一緒に登校していた。
どちらかが必ずもう片方の玄関に現れた。

小学4年の学芸会の劇で「西遊記」をやった時、前半部分の妖怪大王はわたし、後半部分の妖怪大王はオタマだった。
小学5年は「天狗かくし、風の笛」という劇で、オタマが天狗、わたしがさらわれる主役だった。
生徒が2人しかいない訳ではない。一学年250人いた。
クラスも別なのでお互いたまたまである。

嗜好は似ていないが思考が近かったのかも知れない。
お互い自分勝手に動くので、意志決定の相談などはしたことがない。
その先でバッティングするのが常だった。


中学校ではわたしがバスケ部の底辺でくすぶっていたのに対して、
オタマはバレー部の部長でエースだった。
さらに演劇部もやっていて「ベニスの商人」では主役ともいえる悪徳商人シャイロックを演じた。上演中最前列で一人、オタマを見て爆笑してるおばさんが居るなと思ったらオタマの母さんだった。演じながらそれが見えて「あいつ(母)ぶっ殺す」とオタマは思ったらしい。
自分ちの可愛い子が性悪ジジィの演技を迫真でやってたら笑うのかも知れない。
鬼気迫る演技は好評だった。

高校はわたしは普通科高校、オタマは高専に入り、引っ越して行った。
進路について話しあったこともないし、
そんなに湿っぽく別れた記憶もない。
むしろバスケ部のバカ友2人とは二度と会えないだろうなと別れた。
オタマとはそうそう縁が切れる気がしなかった。


大人になりわたしは東北、オタマは東京にいた。
東京に会社はあっても、海外への出張ばかりだったらしい。
個展をすると電報をくれたり来てくれたりした。
友人の始めた喫茶店で写真展をした時にも、八王子ナンバーの車で来てくれた。
「ポッカは独特なことを発想する子だった。アパートの階段で肝試しやったり」そういえば近所の友だちを集めて、屋上をゴールにそんなこともした。20年越しであれが独特だったと知った。
ザリガニやカブトムシが死んだ時に葬る大木も決めていた。わたしたちの飼ったものはすべてあの木の根元に埋めてある。
「ラジコンだ」といってミニカーにひもと木の枝を付けて遊んだ。
あるもので遊ぶしかなかったわりに、全部あったと思う。

オタマが観たわたしの絵の感想は
「仕事やらなんやらで真っ黒な気持ちだった頃があるんだわ。
そのころ出張で行った国で、もう自分でもどうしようも無くなって、仕事放り出して車走らせてさ。気がついたら海の近くで、車降りて砂浜歩いて行った。そしたら一面の海とでかい雲が見えてきてさ、その景色見てたらなんか色々どうでも良くなってきて気が楽になった。そん時の雲に見える」だった。


しばらくしてオタマは東京の会社を辞め、インドネシアへ渡った。


人生の出発点で一緒だったふたり。
一人は売れない絵描きとして思考の遠方へ。
一人は海を越え、遥か距離の遠方へ。
今はそれぞれずいぶん離れてしまっている。

お互い連絡先は知っているので、二度と会えないこともない。
わたしが展覧会をする時はエアメールでDMを何枚か同封し
「現地の友人に渡したり電柱にでも貼ってくれ」と送っていた。
あちらから数年前にハガキが一枚届いたのが今のところ最後。
お互い「やってるんだろうな」と信じているので会おうと会えまいと、心配ということもない。

自分のフィールドを走り続けていれば、どこかで交わることもあると思っている。きっとバッティングするだろう。


中学1年
わたしが追い詰められていた頃
つまりイジメやシゴキの渦中にいた頃。オタマは惨状を知っていたのかどうか分からない。打ち明けてはいない。
ただある朝から登校する時、手をつないでくるようになった。
他の生徒は「なにあれ」と白い眼で見ていたけど、そんな時こそオタマはギュッと手を握った。
わたしも特に恥ずかしいと思わなかった。他の生徒がオタマより重要な訳でもない。
わたしの惨状を知っていた、のだろうか。
知らずとも分かっていた、のだろうか。

これはずっと
話さなくてもいいことの引き出しに入れておこうと思う。

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