叫び生きろ 私は生きてる


初めから気付かないフリで
自分自身を抑え付けて生きてきたのは
上手く生きる為なんかじゃない
春よ、夢うつつ

憎む為じゃないだろ?
誰かの為に今日も笑うの?

叫び生きろ 私は生きてる

Ranunculus

(楽曲:Ranunculus / DIR EN GREY(作詞:京)より)

自分を抑えて生きるのは、上手く生きる為じゃなくて、ただ「そうするしかなかった」からなのかなと思います。人との繋がりを失うのが怖くて、”それなりに”人から受け入れてもらえるように、自分が作られていく(あるいは出来上がっていく)。でも、ふとその窮屈さに気付いてしまうときがある。そしてその窮屈さをどうしようもなく苦しいものだと感じる人もいる。

僕は、自分の中にただ一つの「本当の私」というものはなくて、全部「本当の私」なのかなと思います。抑えつけて生まれた自分も、「そうするしかなかった」というところから生まれた、という点で見れば、ある意味「本当の私」です。でも、数ある「本当の私」の中で、「ありたくない私」と「ありたい私」というものがあると思います。「ありたい私」と「他者から許容される私」が上手く合致する人もいるでしょうが、そうじゃない人も少なくないはずです。

「ありたい私」を受け入れてくれない世界や他者に対して憎しみが生まれることもあるでしょう。そうなること自体は、ある意味自然なことだと僕は思っています。しかし、憎むだけで終わってしまうと、結局、「ありたい私」でいられないままです。たとえ無様でも、自分を「叫び生きる」ことで、抑えつけられている自分を解放することで、「私は生きてる」という実感が得られるのかもしれません。「叫ぶ」というのは、「おとなしい(大人しい)」との対比で、「大人」的な態度に自分を押し込めず、「ありたい自分」を曝け出し、主張していくことなのかなと思います。

死骸へようこそ 
変わる時が来た

無様でも良い
血を流せ
お前は生きてる
お前の自由を探せ

(楽曲:The World of Mercy / DIR EN GREY(作詞:京)より)


まあ、「それができたら苦労しない」のも事実ですが、それでもどこか背中を押されるような詩だなと感じたため、今回取り上げさせていただきました。DIR EN GREYは高校生の時から約10年聴いているバンドですが、ハードで過激な音が目立つ反面、どこか温かみを感じるような部分があって、そこに癒されている自分がいます。コロナが明けたら、またライブに行きたいな。

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