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戦争の終わらせ方:第三次十字軍の終わりと、ヤッファ条約

戦争とは、終わりにくいものである。

戦争を終わらせられるのに適切な刹那は限りなくある。国土が灰燼と化した時、野戦軍が壊滅した時、首都が陥落した時、勝利の見込みがなくなった時、戦線が膠着した時、戦争に飽きた時。

合理主義な価値観では、得られるリターンが払うコストを上回った場合、もしくは現実的な勝利の確率が敗北の確率を大きく下回った時は、戦争をやめたほうが良いという数字を算出する。

しかし、人々は多くの場合、それらの場合でも戦争をやめることを選択せず、戦い続ける。

いくらマキャベリズムが利己的戦争を説いたとしても、それでも戦争は、往々にして非合理的理由にして開始されるものであり、であるからに、その終幕には、それを上回る程度の非合理的必然性を必要とする。

こと、民族戦争、宗教戦争などでは、それらの対立の溝深さ故に、永遠続くのでは、という疑念を抱かされることも、まま、ある。

そして、それらの最たる代表例の一つとされるのが、十字軍である。

Deus Vultにて神の元、始められた大戦争は、一度、その熱狂にて形どられ、実存されると、あたかも現世への神の降臨でもなくして終わらない様相を示した。

成功すれば、神による救済、失敗しても、殉教の栄誉と、剣を掲げる者共に、死を恐れ、立ち止まる理由など、なにもなかった。

しかし、その十字軍でも、立ち止まることを知った事例は、存在する。

その一つが、第三次十字軍である。

これは、立ち止まるという結果が、如何にして生まれ得たのかという、その物語である。

前提条件

この物語には、二人の主役が存在する。

片や、侵略される者共の盟主であり、偉大なるイスラームの守護者にて、クルドの王、ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャーズィー、あるいは、サラーフッディーン、サラディンとして知られる男である。

それに対するは、遥かイングランドより来る王、獅子心の異名にて知られる、アンジュー朝、リチャード一世である。

聖戦クルセード聖戦ジハード、互いの神の名の下に集った彼らはこの戦争の期間、幾度となく戦場にて相まみえ、レパント、パレスチナ、そしてエルサレムの覇権をめぐり、しのぎを削りあった。彼らは、互いの民の王として、互いの神の代理人として、剣を持ち、互いを打ち負かさんと、業前を見せた。しかし、彼らはそれだけの人間ではなかった。彼らは、それ以上であった。彼らは戦地にて剣を交えた回数よりも多く、使者を通じ書の中で、相まみえ、語り合い、そして、最後には、剣を収めることに合意した。

このことは、双方の記録にも、よく残されている。

この際、双方の記録が残されている、という事実は、重要である。何故ならば、それ以前の十字軍、すなわち第一回ならびに第二回では、これらの史料が殆残されていないからである。また、重要である。

まだ文字を残すという文化が黎明期にあった当時の西欧、残されぬ記録は全てが散逸に任された。逆説に、文字の記録が残されている、ということは、当事者が、それを重要だと考えたことを意味する。また、イスラームの側も、西欧よりは文明が発達していたとはいえ、紙も文もまだ十分にありふれているとは言えず。そして、なによりも、ビザンツを交渉相手とし、直接の対話を行わなかった第一次十字軍の時と異なり、今回は、文化も異なり、野蛮であることには違いなくも、言葉を介さぬ蛮族ではなく、交渉相手たりうる対等な相手として扱ったことを意味する。

アッカの二重包囲戦

1187年、スンニ派をまとめ上げたサラディンは、エルサレム王国へと軍を進め、聖地エルサレムをイスラームの手に奪還することに成功する。これに対し、時の教皇グレゴリウス8世は、教皇勅書恐ろしい災禍を耳にしてにてキリスト教世界へ聖地の奪還を呼びかけた。第三次十字軍の始まりである。

これは、西欧キリスト教世界に大きく響き、三人の俗世の王が表明するに至った。神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世『赤髭王バルバロッサ』、フランス王国のフィリップ2世『尊厳王オーギュスト』、そして、イングランド王国のリチャード一世『獅子心王ライオンハート』であった。彼らは互いキリスト教徒に向けていた剣を収め、共に、聖地奪還を目指すと誓った。

バルバロッサは帝国諸侯をまとめ上げ、一足先に陸路にて旅立ち、二年掛け聖地へと向かった。あとの二人は海路にて聖地へと向かうものとし、翌々年の1190年に出立、先に帆を張ったリチャードはリスボン、キプロスの異教徒やシチリアの不届き者妹を監禁したシチリア王を成敗しながら聖地へと向かい、後発のフィリップはもその後に続いた。

道中、バルバロッサが川で溺死する事件などがありつつも、1191年の春から夏にかけ、三王の軍隊は当時、聖地の抗争の舞台となっていたアッカに集結する。

当時、アッカは二重の攻囲戦の最中であり、イスラームの手に落ちたアッカを現地エルサレム王国と十字軍の軍勢が包囲する一方、その軍勢の迎撃に出たサラディンの軍勢がそれらを逆包囲するような状況であった。

そんな中、リチャードは三王の中で最も遅くに現地入りを果たし、1191年6月8日にアッカ近郷に上陸し、アッカの攻囲を行っていたフィリップ、ならびにバルバロッサ帝のレオポルト五世に合流する。

翌週、リチャードはサラディンへ、対面面会の要請を行う。リチャードとサラディンの対話はこの時より始まることとなる。暗殺を恐れたのか、あるいは、直接対面にて面会することにより気性を測られまいと願ったのか。これをサラディンは、拒絶する。

このように、最初の対面の面会の要請は、拒絶にて終わることになる。そして、これはこの交渉を。最後まで、リチャードとサラディンは直接、対面にて面会することはなかった。しかし、ここでサラディンが招き入れたリチャードの外交使節に関しては、真逆の展開をたどることになる。これから先、二年の間、両者は幾度となく使者を送り合う。そして、この流れは二人が聖地にいる間、一度たりとも途切れることはなかった。

そして、他の二王、ならびにエルサレムの軍勢ががサラディンとの交渉に積極的ではなかったこともあり、交渉において、リチャードは十字軍の軍勢を代表することとなる。

6月を通じ、リチャードは到着した十字軍の軍勢を背景に、サラディンに対し、撤兵とエルサレムの受け渡しを迫る。しかしながら、地の利はサラディンにあり、また、十字軍は未だアッカすら攻め落とせておらず、実数ほどに実力があるのかには一定の疑問は存在した。サラディンは、戦いもせずに、撤兵を認めるほどの臆病ものではなく、交渉は決裂することとなる。断られる都度、リチャードは細かい条件を変化させ、再度使節を送るが、その都度、サラディンは拒絶の意を示すことと成る。

また、リチャードは和睦の条件だけでなく、 においても、。まず初めは有効の証として、リチャードの「狩猟鳥の餌」を求める程度に始まった贈り物は、終いには、「氷と、果物」を求めるまでに肥大化していた。初夏のこの時期に、氷が得られるのは、レバノン山脈最高峰、クルナ・アッサウダー山付近のみであり、アッカから200kmも離れた山々から遥々持ってこさせるのは、

交渉は平行線となり、軍事的な状況の変化が必要となった。

6月から7月にかけ、両軍は消耗戦の様相を示す複数の戦いにてぶつかり合う。リチャードと十字軍は二重包囲の真ん中に位置し、地理的には不利であった。十字軍の数的優位を活かすため、少なくとも、内側に立てこもるアッカの守備隊か、外側のサラディンの軍勢、どちらかの対処が必要であったが、アッカの城壁は、直接攻撃で落とすには堅牢すぎ、サラディンの軍は会戦を挑むには機動力がありすぎた。加えて、エルサレム王国軍がサラディンの軍勢を撃破しようと野戦に打って出、逆に包囲、殲滅された、ハッティーンの戦いの記憶は、まだ記憶に鮮明であった。

一方、数的に不利なサラディンの側は、十字軍を包囲することはできても、会戦を挑み解囲を迫れるほどの兵力はなく、できることと言えば、十字軍側が、アッカ守備隊へ攻撃を仕掛けるために内側へ兵を集めた時に、アッカ守備隊を援護すべく、外側へ攻撃を仕掛ける程度であった。

状況を変えたのは、リチャードとフィリップがヨーロッパより持ち込んだ大型弩バリスタ投石機マンゴネルといった大型の攻城兵器であった。これらはアッカの城壁をよく切り崩し、防御側の優位は少しづつ消えていった。

これらの熾烈になる十字軍の攻撃に対し、アッカ守備隊はサラディンのより果敢な援護攻撃を必要としたが、それはサラディンの軍の損耗を拡大させていった。そして、7月の月になると、サラディン側も援護攻撃を実施できぬほど消耗し、守備隊は脱出か、降伏か、の二択を迫られる。しかし、脱出の試みも個々人では成功したものはあったものの、大規模なものは何れも失敗に終わる。降伏を望む守備隊は認可を得るため、使節をサラディンの元へ送りたい旨、申し出、リチャードら十字軍はこれを許す。

サラディン自身は守備隊の徹底抗戦を臨んだものの、三年もの長期間の包囲戦を戦い抜いた勇姿はサラディンの副官らの心を動かしており、また、守備隊の親族は彼らを生かすようサラディンに懇願した。ついぞ、サラディンは折れざるを得ず、守備隊は降伏の認可を得て交渉に入る。

十字軍と守備隊の初回交渉は、守備隊がサラディンとの合流を臨んだため、頓挫し、十字軍はそのまま攻撃を継続した。十字軍側の意志が固いことを見ると、守備隊はより良い条件の降伏を十字軍側へ提示する。アッカの無条件降伏、守備隊の武装解除、そして二百五十名の捕虜となっているキリスト教徒の貴族の解放、そして、聖十字架の返却。これは、十字軍側には十分魅力的な提案であったとはいえ、未だ数千を数えるアッカの守備隊からよりよい条件が引き出せるように思われた。また、時は、十字軍の側に利していた。

条件はより十字軍優位のものへと書き直される。解放されるキリスト教徒の数は拡大され、また、身代金として一定の支払額が約束された。そして、それらは月の終わりまでに準備されるものとされた。

ここで、キリスト教徒側の史料と、イスラーム側の史料で、解放される捕虜と身代金額に相違が存在する。Geoffrey De Vinsaufによるリチャードの遠征記では解放されるキリスト教徒の貴族は2000名へと拡大され、また、500名の平民のキリスト教徒も同時に解放されることとされた上、身代金の額は20万タレントとされた。一方、Baha ad-Dinによるサラディンの年代記では、捕虜は1600名、金額は10万タレントと過小にかかれている。キリスト教側の史料にはこの取り決めは契約の証として文字に起こされたとあるが、この誓約書は現存しない。

いずれにせよ、結果は変わらない。7月12日、アッカの守備隊は降伏し、彼らは捕虜となった。三年に及ぶ包囲戦は終焉し、アッカは陥落した。十字軍の軍勢を包囲していたサラディンの軍勢は目的を損失し、山々へと後退していった。

捕虜交換交渉、決裂とその結果

膠着していた軍事的状況の変化がようやく訪れると、交渉は再開する。しかし、それはこれまでとは、一つ違った論点にてなされた。

すなわち、捕虜の処遇である。

これまでの、リチャードとサラディンの交渉は、戦争の終結に向けた講和交渉であったが、それはほぼ一方的にリチャードがサラディンに要求を行う、という形を取り、それは一切の同意が得られぬ平行線であった。また、実態を伴った守備隊の降伏交渉は、サラディンではなく守備隊との直接交渉の形を取った。

しかし、ここにて実際に解放を必要とする捕虜をリチャードが手に入れたことにより状況は大いに変化する。

アッカ守備隊は捕虜となるにあたり、いくつかの条件をリチャードと取り決めた。それらの条件は、リチャードが守備隊と直接交渉にて決定したものであり、サラディンは降伏そのものは許可したものの、その条件を事前に知らされてはいなかった。

アッカの無条件降伏や、守備隊の武装解除といった条件は守備隊側が自ら履行することができるものであり、それらは降伏にあたり実施されたが、キリスト教徒の捕虜との交換や聖十字架の返還などの条件は、それらの所有者であるサラディンによる履行を必要とした。

また、守備隊との交渉において履行方法については取り決めがなされておらず、そこには交渉の余地が存在した。

もし互いの条件が正しく履行される為には、サラディンによる条件の追認と、その実施方法についての取り決めが必要であった。

追認に関しては比較的速やかにサラディンは行った。しかし、この先に関してはキリスト教側の史料とイスラーム側の史料はまた異なる。この際、より裕福な貴族などがサラディンに対し受け渡されたとされる一方、イスラーム側はバハ・アルディンなどの裕福な貴族などの解放交渉は別途行われ、それぞれの身代金が支払われた貴族のみ解放されたとされる。経緯を鑑みるに、本件に関してはイスラーム側の史料が真実味が高いが、これらの結果起こった状況は変わらない。一部の貴族は解放されたものの、守備隊の大部分は依然、十字軍側の捕虜であり、そして、実際の履行の方法に関して、双方は依然合意に至っていない、という状況である。

ここで履行方法の論点は、この種の捕虜交換交渉において常に問題となる、どちらが先に捕虜を解放するかであった。双方共に、相手が先に解放すべきであると、交渉の場にて強弁した。

その強弁には、当然論拠があった。リチャードとしては依然数的優位を有し、また、アッカ自体も保持している為、交渉にて妥協を強要できる立場に自分がいると感じていた。

一方、サラディンにも優位な点はあった。特に重要な部分はアッカが陥落した事により、時間はサラディン優位に作用するように変化していたことである。比較的団結しているイスラームの陣営に対し、後述するように、十字軍の軍勢は内紛を抱えており、また、季節が下るにつれ冬が近くなり、年内の追加の戦役をリチャードが行うことは難しくなるはずであった。また、最重要の捕虜たちは、解放した後であり、焦る理由はあまりなかった。

そんな中、捕虜の交換と金銭受け渡しの手法が定まらぬまま、最初の期限が過ぎる。期限が過ぎ去ったのにも関わらず、一向に譲歩しようとしないサラディンに対し、リチャードは相手は時間稼ぎをしているのではという疑念を抱く。サラディンがリチャードに対し継続して提供していた贈り物もこの疑念を消すのに役立ちはしなかった。

そして、期限が過ぎてから更に半月が経った。焦らぬどころか、最早関心すら見せぬサラディンに、リチャードの中で疑念は確信へと変わり、中世期の契約と履行と不履行の概念に従い、リチャードは捕虜の処刑を命じる。

8月20日、十字軍の元で捉えられていた3000名ばかりの捕虜たちはアッカ近郊にある、小高い丘へ連れてかれ、そして、全員が絞首刑にて殺害された。

アッカの虐殺である。

イスラーム側の史料では、サラディンは捕虜解放のための資金集めをする最中であったと記されているが、与えられた猶予を考えるに、それだけが真実であるとは考えにくい。リチャードの考える通り、時間稼ぎをしていたと考えるほうが自然である。また、一方で、捕虜が実際に虐殺されることはないと、侮っていた部分もあるだろう。

もちろん、リチャードの不義理はサラディンによる報復を意味した。アッカの虐殺より半月に渡り、サラディンによって取られたキリスト教徒の捕虜は、洗濯女を除き、全員が殺されることになる。

これらの行為は双方の宗教家たちに非難され、特に、異教徒であろうとも、合意により降伏した捕虜の虐殺は正義ではないとされた。

一方で、リチャードが不可逆的な対決の姿勢を見せたことは、サラディンに大きな印象を与える、アッカの戦いを巡り、リチャードはこれまでの十字軍の指揮官たちよりも優れた軍事的才覚があることは間違いなかったが、捕虜解放を巡る外交交渉において、ただ尊大な要求を行うだけではなく、自らに不利な条件の提示や、時間稼ぎに対し敏感に対応でき、自陣内の反対があろうとも交渉の打ち切りや決定的な決断ができることを示した。

虐殺は双方にとって悲劇であったが、それは必然でもあり、そして、それはある歴史家が「繊細かつ、致命的な外交上のダンス」と呼ぶような、エスカレーションラダー上の舞を、サラディンと対等に渡り合えることを示した。

ヤッファへの道

アッカの攻略が成ると、十字軍は戦役の次なる目標を定める。エルサレムの東に位置する、港湾都市のヤッファである。

ヤッファ出発の前、捕虜交渉の裏側で、十字軍側に大きな変化が起きていた。赤髭王バルバロッサの死により、既に統率を欠いていた神聖ローマ帝国の諸侯は、辛うじてオーストリア大公、レオポルト5世により保たれていが、神聖ローマ皇帝ではない彼は、イングランド王、フランス王と同格の存在と見做されず、ぞんざいに扱われ、それに腹を立て、ヨーロッパへの帰路についた。一方、もう一つの王であるフィリップ二世も、元よりリチャードと折り合いが悪く、そしてアッカの戦いを通じその仲が決定的に決裂し、フランスへ帰国することに決める。

これらの帰国は二つの作用をもたらした。一つは十字軍の軍勢としての縮小である。アッカに存在するキリスト教徒の軍勢は依然大規模なであったが、それは同様に大規模であるサラディンの軍を圧倒するほどの大きさでは最早なくなった。もう一方で、聖地にて王が一人となったことで、政治・軍軍の指揮権がリチャードの元に集約されるという効用である。それは、ある種烏合の衆であり、動かそうにもうまく動くことのできなかった十字軍の軍勢が、行軍し、一つの軍隊として戦うことができるようになったことを意味した。

アッカの虐殺の余波がまだ残る8月22日、リチャードはエルサレムへの途上にある港湾都市のヤッファへと向け、アッカを旅立ち、サラディンの軍はこれを追撃する。しかし、海岸から補給を受けつつ、一つの軍とし行軍するリチャードの軍に対し、補給の問題からエジプト軍とトルコ軍、二つの軍としての分進を余儀なくされるサラディンの軍の集結は遅く、総力の結集は翌月まで待たなければならず、その間、リチャードの軍は、妨害に遭いつつも南下を続けた。

そんな中、9月5日、エジプト・トルコ両軍の集結が間近という瞬間に、サラディンのエジプト軍の前衛は、リチャードの軍と接触する。しかし、この時、リチャードは戦闘ではなく、和睦交渉を目的に来たと言う。それに対しサラディンは交渉の為、弟、アル=アディル王弟を送り出す。

おそらく、この時行われた和平交渉は、これでまで行われた和平の交渉の中で最も真剣なものであったと考えられる。アル=アディル王弟も、リチャードも、共にお供を連れず、通訳を一人つけただけで、交渉に入る。

この交渉にて、リチャードは、以下のように告げたとされる。

「我々は長きに渡り戦った。私達は、海岸の盟友たちを助けに来たに過ぎない。彼らと君らが和睦することができれば、我々に戦う理由はなくなる。」

これに対し、アル=アディルは、こう問う。

「して、和睦の条件は如何様なものになる。」

リチャードは、こう答える。

「海岸の盟友たちの都市を、君らが返却することになるだろう。」

これは、最初期の要求に比べだいぶ譲歩したものであった。特に、聖地エルサレムの返却を含まないというのは、十字軍側としては大きな変化であり、また、港湾都市の陥落は、少なくとも軍事的状況を考えるとこれから必然的に起こるもののように思えた。

しかし、これでも、合意には至らなかった。

軍事的必然がなににせよ、イスラームの側からすれば、まだ港湾都市は陥落しておらず、また、三年にも渡る攻防の結果、アッカが陥落したとはいえ、まだ彼らは初戦を戦ったに過ぎなかった。一方、サラディンはかの代にてトルコからイラク、エジプトを統一した偉大なる王であり、

譲歩を引き出せると考えていたリチャードは激昂し、交渉は短時間にて終わった。アル=アディルは交渉に失敗しただけでなく、トルコ軍との合流のための時間稼ぎにも失敗した。

実りのない交渉ではあったが、一つの事の確認としては役立った。それは、少なくとも、まだ、戦いは続かなければならないことだけが確かであることだ。

アルスフの戦いと再度の和平交渉

結局、サラディンのエジプト軍は翌6日、トルコ軍合流を果たし、リチャードの軍に対する圧力を強めた。サラディンはリチャードの軍を包囲し、四方八方から矢を浴びせ、その行軍を妨害した。その妨害はこれまでと異なり、十字軍の騎士たちを誘い出すべく、果敢なもので、そして、より至近距離から行われた。

しかし、リチャードもこれを傍観するだけではなかった。続くことの9月7日、彼はそのことを証明する。サラディンの妨害に対し、一部の十字軍騎士たちが反撃に出たことよりなし崩し的に始まった会戦において、リチャードは勝利を収める余地を見つける。十字軍の間合いに近づきすぎたたイスラームの軍勢は、十字軍の軍勢の反攻突撃に耐えきれず、敗走することになる。

リチャードの勝利は決定的でこそなかったものの、転機となるには十分すぎた。

サラディンの軍は多大なる損害を得た上、サラディン自身、さらなる敗北を警戒し、リチャードに対し積極的な策を弄さなくなる。翌々日には十字軍に対する妨害は再開したものの、それは従来の遠距離から行われる妨害であり、6日のような至近距離から行われる積極策ではなくなっていた。

そのような妨害では十字軍の軍勢が止まるわけはなく、彼らは許容内の損害にて港湾都市のヤッファへ到達する。ヤッファの城塞自体はサラディンの戦略により破壊されており、彼らはほぼ無血にて入城する。

これに対し、サラディンは、彼自身得意とした野戦における敵軍の捕捉、殲滅から、防御拠点に立て籠もるものへと変更する。現実的には十字軍が取りうる戦略は、直接的に東に進軍するものと、エジプトとの連絡線を脅かす為、南に進軍するという二つがありえたが、宗教的動機により彼らがほぼ間違いなくそのまま東進し、エルサレムを目指すであろうことは自明であり、サラディン自身、軍を引き連れエルサレムの防御を固める上、十字軍が使用しうる、途上のアスカロン、ガザ、ラムラといった付近の城塞を事前に破壊した。

一方の十字軍側は、難しい岐路に立たされた。エルサレムへ向かうにはヤッファより東へ進む必要があったが、これまでの十字軍の補給は制海権を活かした海上補給に頼り切っており、東進は陸上補給を要することを意味した。しかし、サラディンはこれまでの十字軍国家との戦いで陸上補給を妨害した上で決戦の強要することを得意としたことが知られており、また、その陸上補給の起点となるヤッファの城塞は、サラディンの命にて破壊されていた。

もし、これらの後顧の憂いを断つならば、リチャードはヤッファの城塞を再建し、補給物資を集積した上で東進を始める必要性があったが、それは時間がかかる行為であった。時間がかかるということは、それだけサラディンがアルスフの戦いで受けた傷を癒やす猶予が増え、エルサレムの防備を固められるということであった。

結局、リチャードは安全策を取った。彼はヤッファの防備の再建を命じ、彼の物資の集積をヤッファにて待った。古典的な十字軍史では、リチャードは補給路を無視し、東進したほうが良かったとされる一方、近年ではリチャードの施策は必ずしも間違っていなかったという意見が支配的である。

いずれにせよ、10月から11月にかけ、両軍は双方の理由により、待ちの姿勢を見せることになる。そして、両軍が静止したことは、再度の和平交渉を行える余暇が生まれたこと

この時、サラディンは長引く十字軍との戦いの結果、特にバグダッドのカリフたちとの関係性が悪化していた。しかし、最早、リチャードの軍事的才能と政治的手腕を侮らなくなった彼が戦地から離れることはできなかった。一方、リチャードも二度の勝利にも関わらず、いずれも決定的に成り得てないことを重々に認識しており、そしてキリスト教世界での彼の政敵がヨーロッパへと戻ったことは、彼自身、サラディンとの戦いばかりに時間を費やすわけにはいかないことを気にし始めていた。別の言い方をすると、互いが互いに対し、尊重の意思と、妥協の余地を見せていた。

この余暇における交渉は、かなり実際の講和の調印にまで近づいたとされる。交渉そのものはリチャードとサラディンの全権大使に任命されたアル=アディル王弟の間で行われたが、先の場合と違い、これは短期間に終わらず、何度も繰り返され、その間、リチャードとアル=アディルの個人的な結びつきは強くなり、リチャードは終いにはアル=アディルを「我が友にて我が兄弟」と呼ぶに至った。そして、そう呼ぶようになってからあまり日が経っていない10月18日のこと、彼はその言葉を真たるものにすべく、彼の妹をアル=アディルと婚姻させる提案を提示する。

このアル=アディルとリチャードの妹、ジョーンの婚姻は、より大きな講和案の一部であった。アル=アディルとジョーンは結婚し、アル=アディルはサラディンの臣下のままパレスチナを統治する一方、ジョーンはリチャードが征服した海岸の都市を統治する。そして二人は共にエルサレムを共同に統治する。互いの捕虜たちは互いに解放し、キリスト教徒たちはエルサレムへの巡礼権を得、そして、聖十字架はキリスト教徒の手へと返却される。

この提案は、リチャードとサラディン、共にほぼ互いが望む要項が盛り込まれていた。リチャードはキリスト教徒のエルサレムへの巡礼権と、海岸沿いの十字軍国家の保持ができ、一方サラディンはパレスチナを通じたエジプトとレパントの連絡を維持できた。また、この手の婚姻による講和を例にし婚姻の日、並びに場を互いの捕虜の返却の時と場と定めれば、前回の捕虜虐殺の悲劇も避けうることができた。

互いに望む要項が盛り込まれていたこの条件はリチャードよりアル=アディルの手を通じサラディンへ渡され、アッカの時と異なり、この度はサラディン自身の手により承認される。

しかし、このほぼ理想的な講和案は、一人の自由を踏みにじることを前提に作られており、そして、その一人の反対により頓挫することと成る。リチャードの妹、ジョーンはイスラーム教徒との婚姻を結ぶことを拒み、結果、この講和は暗礁に乗り上げる。リチャードは妥協案とし、アル=アディルに改教を要請するが、これはアル=アディルが拒絶する。

前回までと異なり、この講和は、この拒絶の後も、条件を変え、続けられることになる。この講和にて目指そうとされた妥協の点は、リチャード自身の言によると、以下のようなものであった。

「(サラディンとアル=アディルが)ムスリムの民により非難されず、また、私がフランクの民に非難されないような道を作るのが私の目的だ」

しかし、二月にも及ぶ交渉にも関わらず、ついぞこの道は見つけられなかった。そして、戦端は再度開かれることと成る。

二回のエルサレム進軍とヤッファの戦い

1191年11月13日、ヤッファの拠点化と物資の集結を完了したリチャードは、再度エルサレムを目指し行軍を開始する。最初の目標は、エルサレムへの途上にあるラムラとリッダの城塞であった。サラディンにより破壊されていたラムラは22日には陥落する。そこから、リチャードは軍を二つに分け、ヤッファに集積した資源をラムラに運び込む一方、彼自身はリッダへ進み、これを翌月のクリスマスには陥落せしめる。一方、サラディンは、リチャードとの直接交戦は避けつつも、リチャードの軍へ妨害攻撃を行い、エジプトからの援軍を待った。

冬も深くなりつつあり、季節は戦役に適したものから離れて行っていた。ラムラへの物資の移動は大雨により遅遅として進んでいなかった。戦機は、リチャードの手から少しづつ、離れて行っていた。

ようやく雨が止み、リチャードは12月28日、行軍を再開する。一般的な十字軍戦士たちの士気は高かったが、テンプル、ホスピタル騎士修道会の騎士たちは、長引く戦役と近づきつつある敵のエジプトからの増援に危機感をつのらせていた。

そして、1月3日、彼らはエルサレムから数キロ離れた小高い丘へと到着し、陣を張る。眼下には、待ちわびた聖地の城壁が広がっていた。しかし、十字軍は限界を迎えつつあった。テンプル、ホスピタル騎士修道会の騎士たちは、リチャードに以下のように具申する。一に、サラディンの軍はエルサレムの城壁の裏に籠もり、彼らが打って出てこなければこの戦は包囲戦となることを。二に、もし我々が包囲戦をけしかけたとしたら、サラディンのエジプト軍が我らが軍を外より襲いかかってくるであろうことを。三に、もし包囲戦にて勝利を収められたとしても、それは多大なる犠牲を伴うと考えられ、加え、エルサレムの陥落にて十字軍は解散し、残されるであろう修道会の騎士たちだけでエルサレムを防衛することは不可能であることを。

リチャードは、この意見に賛同するが、それでもと、サラディンの迎撃と、その軍の野戦での撃破を望み、5日ほど城壁の外にて過ごす。しかし、ついぞ、彼らは打って出てくることはなかった。リチャードは、落胆しつつも、成すべきことを成すべく、軍をヤッファへと後退させる。1月8日のことであった。

主力をヤッファへと後退させたリチャードは、エジプトとパレスチナの中間にある、アスカロンの城塞の再建に着手する。この城塞を再建し、守らせることにより、今回のようなエジプト軍の援軍の到着を阻止することが狙いであった。この再建工事は、復活祭の頃に完了することに成る。

続く春は、両陣営にとって、比較的静かな季節であった。両者、共にそれぞれの内部事情、たとえばザンギー朝の反抗やイスマーイール派によりエルサレム王コンラッドが暗殺、の対応に追われ、いくつかの小競り合いはあれどいずれも本格化しなかった。

しかし、この間、和平交渉も本格化することはなかった。内部事情の悪化に伴い、互いに和平を望む意思は強かったものの、アスカロンの城塞が再建されたことにより、軍事的妥協点の締結が難しくなっていた。アスカロン城塞が再建されたことにより、サラディンの側はその生命線であるエジプトとの喉元に刃を突きつけられた形になり、アスカロンがある限り、講和を受諾することはないとする一方、そもそもそれこそがアスカロンを再建した目的であった十字軍側にとって、アスカロンの放棄は飲むことが出来ない要求であった。

この時期、戦いの流れは、エルサレムを巡る戦いから、エジプトを巡る戦いへと変化していた。エジプトからの物資が届く限り、エルサレムのサラディンの軍は動くことはなく、そしてエジプトからの増援が期待できるかぎり、エルサレムの包囲は非常に難しかった。リチャードは、エジプト遠征を考え始める。しかし、十字軍の騎士たちは、エルサレムから遠ざかるエジプト遠征に反対であった。

そんな中、1192年6月22日、十字軍の陣営にエルサレムへ向けた大規模な補給部隊がエジプトから向かっているとの知らせが届く。この報を聞いたリチャードは直ぐ様軍を出し、23日、この補給部隊を確保し、大量の軍需物資と、ラクダなどの移動手段を同時に手に入れることに成功する。この成功を活かすべく、リチャードはそのまま軍を東へと、エルサレムに向け進める。

補給部隊奪取の報はサラディンの陣営に大きな衝撃をもたらす。元々、アスカロンの再建により、エジプトからの援軍の妨害が見込まれる状況下で、自身の軍の補給部隊が襲われたのである。また、サラディンの軍の士気は高いとは言えなかった上、アルスフ後と異なり、兵たちは野戦での敗北よりもアッカのような長い籠城戦の後に処刑されることを恐れていた。サラディンは昨冬のようにエルサレム籠城を臨んだものの、渋々ながら、積極的な迎撃策を取ることを余儀なくされる。その準備として、サラディンは付近の井戸、貯水槽の破壊による本格的な焦土作戦の準備を行うが、効果があるかは、未知数であった。

7月1日、十字軍は半年ほど前に辿り着いた丘まで再度進軍する。最早二人の王の間の決戦は不可避のように思われた。

しかし、決戦は行われなかった。水不足を理由にリチャードは後退することを選び、7月5日、再度、聖地を後にする。そして、リチャードは生涯、二度とエルサレムに近づくことはなかった。


ヤッファの戦いと二度目の膠着

リチャードの後退を受け、サラディンは自身も攻勢に出る。月の後半の7月27日、サラディンはリチャードと十字軍の主力が留守にしているヤッファへ兵を進め、強襲する。サラディンは数の利を活かし、3日で市壁を速やかに落とし、戦いを内壁まで進める。

しかし、翌31日、海路でとんぼ返りしてきたリチャードの海からの攻撃を受け、ヤッファは速やかに奪還される。サラディンは数キロ内陸へ後退し、軍を再編成する。

この間、海岸線を見張っていたサラディンは、リチャードは軍の一部しか引き連れて戻ってきておらず、十字軍の主力は依然アッカにいることに気づき、彼らが到着する前に、ヤッファへ攻撃を仕掛け、奪取することを試みる。

今回は、夜明けとともに壁外のリチャードの陣へ奇襲攻撃を行うことをサラディンは目指すが、しかし、これはリチャードの哨戒線に見つかり、奇襲は失敗する。激しい戦いの結果、リチャードの軍はヤッファの市壁が再度陥落する状況まで追い込まれるものの、最終的に勝利を収めたのは十字軍であった。サラディンの軍は、何も得ぬまま、少なくない損害を受け、ラムラへと後退する。

最後の交渉

この時期になると、戦況は膠着の様相を見せ始めていることが双方共に明らかになってきた。

リチャードはアッカを始めとする地中海沿岸では無敗を誇ったが、一度、補給線を伸ばし、内陸に向かうと、サラディンの軍勢に勝利する方法がなかった。一方、サラディンは補給線の攻撃などの、間接的な方法によりリチャードを退却に追い込むことは可能でも、拠点の攻略などはできず、また、リチャードがいる戦場では野戦だろうが、攻城戦だろうが、勝利を収めることが出来なかった。

しかも、二人の王が、互いに互いと競えば競うほど、利するのは二人の王の敵たちであった。リチャードは本国がジョン王子の謀反と、フランスのフィリップ王の野心にさらされており、サラディンは、ザンギー朝とイスマイール派の問題を抱えていた。

双方の同意できる妥協点は既に模索済みであった。一年前、ヤッファへの途上、リチャードとアル=アーディルが話し合い、そして半年前、婚姻にて達成を目指したそれである。

しかし、未解決の問題が、ただ一つ、残っていた。アスカロン城塞の問題である。双方、この問題に関しては、強固な姿勢を見せたものの、最終的に、彼らは合意に至る。そして、最後に妥協したのは、最初、傲慢にも平服も求めた、リチャードの側であった。

二ヶ月の交渉の後の9月2日、リチャードは、サラディンの大使である、アル=アーディル王弟と握手をする。ヤッファ条約、あるいはラムラ条約として知られることになるこの条約は、以下の線にて合意された。

・三年間の停戦
・キリスト教徒のアスカロン城塞ならびにガザ、ダルムの放棄
・ラムラ、リッダのキリスト教徒とムスリムによる共同統治
・キリスト教徒のエルサレムへの巡礼の自由の保証

二年間の激戦にて、サラディンとリチャードは、顔を合わせることはなく、そして、それは最後のこの時も変わらなかった。

リチャードは条約調印後、体調を崩していたこともあり、すぐにヤッファを起った。サラディンも同様に体調を崩していたものの、キリスト教徒の巡礼者たちが、アッカの報復を望むムスリムに殺されぬよう、その巡礼を見届け、その後、自らの膨大な王国へと帰っていった。

最終結果

王権や絶対君主の時代は、より単純な時代であった。民主主義や多頭政治の時代と異なり、戦争を止める決断をするのに必要なのは、最終的には、王と王、二人の人間が合意すればよかった。

一方で、第一次世界大戦での平和主義の発明前の時代であり、今日にように、「平和」そのものに価値が見出されておらず、「正戦」とされた戦争を止めるのに、倫理的な理由を見出すことは、難しかった。

しかし、第三次十字軍において、いくつもの困難がありながらも、彼らは戦いを止めることに成功した。以降の十字軍では、ヤッファのような条約により、戦争が終わる形を見せることは珍しくなくなる。第六次十字軍でも、同様の条約が結ばれることになる。

それが中世という、より単純な時代で起きた、ヒロイズムとロマンチシズムへの憧れであることは、称して憚られない。しかし、それでも、敵であろうとも、出会ったときより、対話を絶やさぬよう努力してきた二人の間でこそ生まれ得た和睦であったというのは、必然のように思える。

そして、それは、きっと、今日であろうとも、変わらぬ真理だと、私は願う。

参考文献:
"The Third Crusade 1191"
"The Rare and Excellent History of Saladin"
"Richard of Holy Trinity Itinerary of Richard I and others to the Holy Land"
"God's War - A New History of the Crusades"
"Saladin - Hero of Islam"
"The Crusades Through Arab Eyes"
"Western Warfare in the Age of the Crusades 1000-1300"
"New Cambridge Medieval History Vol.4. Part.2."
"Talking to the enemy: the role and purpose of negotiations between Saladin and Richard the Lionheart during the Third Crusade"
"Peacemaking and holy war: Christian–Muslim diplomacy, c. 1095–1291, in crusades historiography"
"Just Wars and Moral Victories"



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