Podv. Gruppa Tyurin、チューリン中将、縦深作戦の実践

画像5

SD2内のPodv.Gruppa Tyurinの説明「第二ベラルーシ戦線は軍団規模戦車部隊の一切を剥奪されていたため、戦線指揮官は戦果の拡張の為に自身の戦車部隊を作ることとした。チューリン機動部隊である。」

Steel Division 2にはいくつか謎部隊が登場し、その内でもPodv. Gruppaは、(ソ連関連の日本語文献は未だに乏しいこともあり)かなり謎度が高い部隊となっている。Podv. Gruppaはロシア語で<<Подвижная группа>>と書き、そのまま直訳すると、機動部隊となる。これは、臨時編成の部隊で、英軍のRegimental Groupや独軍のKampfgruppe、米軍のTask Forceに相当する。これらの部隊とPodv. Gruppaの違いは、Podv. Gruppaは縦深作戦の理念に乗っ取り、突入後の敵後背への機動を行う事を目的としている点で、その為、諸兵科混合ではなく可能な限り単一兵科にて編成された点である。しかし、これは必ずしも守られたわけではなく、特に大祖国戦争初期は突入もPodv.Gruppaが行う必要があった為、諸兵科が混成された。しかし、戦争中盤になると赤軍も突入用の部隊と縦深作戦を実行する部隊を別ける余裕が出てくる。大規模な突破の場合、これらは更に上位の部隊、戦車軍団や戦車軍として編成されたが、そうではない場合、Podv. Gruppaが編成された。この内の一つが、Steel Division 2にも登場するPodv.Gruppa Tyurinとなる。

画像5

1944年夏季ベラルーシ攻勢『バグラチオン』、黒枠部が第二ベラルーシ戦線戦域、黒線箇所がモギリョフ

1944夏季ベラルーシ攻勢『バグラチオン』の一部として、第二ベラルーシ戦線(фронт、軍集団相当)は作戦の第一段階にてゴーリキーよりモギリョフ方向への進出し、①モギリョフを防衛する独第四軍を撃破すること②ドニエプル川対岸に橋頭堡を確保し、ミンスク方面への進出の足掛かりすること、を目標とした。

ミンスクから続く高速道路及び鉄道網の終着駅であるモグリョフは中央軍集団南部の第四軍を支えており、継戦能力維持の為、モグリョフ防衛は不可欠であった。そのため国防軍はモギリョフを要塞化するに至り、街の周囲にはプロニャ川、バショ川、モギリョフ市街地にそって三重の防御線が貼られ、モギリョフを通るドニエプルの西岸には一個師団がおかれた。防御の縦深は主軸にて60kmにも達した。

赤軍は198,000人の将兵、4,822門の砲(迫撃砲含む)、276両の戦闘車両(戦車・自走砲)を集積した。一方、守る国防軍は114,000人、2,300門の砲、220両の戦闘車両が存在した。しかし、特に戦車に関して両軍の戦力は拮抗していた。これはバグラチオン主攻方向のヴィーツェプスク=オルシャの第一バルト・第三ベラルーシ戦線は戦車軍団や戦車軍が与えられたのに対し、あくまでも助攻扱いの第二ベラルーシ戦線には師団以上の戦車部隊は存在しなかった為である。第二ベラルーシ戦線にあった独立行動が可能な戦車戦力は四個戦車旅団と一個独立自走砲連隊で全部となった。この戦車の不足を補うため、師団直属の自走砲連隊は戦線に拠出された上で、第四十九軍に集中され、戦線の突破は同軍正面12kmのセクターにて行われることとなった。また、第四十九軍も、モギリョフを攻略する第四十九軍主力と、抽出された機動戦力を編成した機動部隊の二つに分けられた。後者は、歴戦の指揮官であるチューリン中将に任された。これは、チューリン中将にとって、二度目の機動部隊の指揮であった。

画像4

チューリン中将

アレキサンダー・アレクセイビッチ・チューリン中将は、ロシア帝国士官学校を卒業した(ただし満了ではなく一次大戦中の繰り上げ卒業)数少ない士官で、少尉として一次大戦、連隊長としてロシア内戦を戦い抜いた。戦中期の各戦争や冬戦争、ハルヒン・ゴルには参加しなかったが、同時に大粛清に巻き込まれることもなく、独ソ戦開始時には中将の階級にてオリョール軍管区長の地位にあった。しかし、タイフーン作戦にてオリョールが失陥すると、オリョール防衛の努力を怠った事、及び、オリョールの生産設備の疎開をしなかった罪にて軍法会議にかけられ懲役七年間を求刑される。しかし、求刑の三日後、これは取り消され、少将への降格にて手打ちとなる。

その後、チューリンは半年あまり各ポストを転々とした後、42年夏のルジェフ攻勢にて戦線機動部隊の一部として、一度目のチューリン機動部隊を指揮することとなる。

42年7月30日に開始した第一次ルジェフ攻勢はソ連にとっては多くの意味で手痛い経験となった。縦深作戦の理論の初期実践の一つであったこの攻勢において、ソ連軍は五十万の兵力とその兵力に相応の砲火力・戦車戦力を集積し、初動においては優勢な砲火力と諸兵科連合作戦により突入に成功した。にも関わらず、各機動部隊は急速に突出力を失い、最終的に攻勢は停滞した。

この主因は、機動部隊が戦果の拡張に集中されず、個別の指揮官の要請に応じ、あらゆる戦闘に投入されたことであった。結果、追撃任務に集中した部隊は歩兵とはぐれ、連絡線を遮断された後、ドイツ軍の反攻により撃退された。チューリン機動部隊はこの例に漏れず、8月18日、部隊はグジャーツク(現在のガガーリン)に向けてカルマノヴの突破口より突入したが、部隊の一部をカルマノヴ市街地掃討とグザト川の渡河地点確保に取られた為、部隊主力の突破力が不足し、結果作戦は停滞し、戦線を離脱する。作戦最終盤の9月2日、前回同様の任務に投入され、二日間の戦闘により敵の第二線まで突破することに成功するが、歩兵部隊とはぐれ、制圧した地域を確保できず、また、敵の苛烈な航空攻撃に晒された後、後退する。

ルジェフ攻勢は参加勢力の半分という多大な犠牲を出した上、すべての戦略目標の達成に失敗した。戦線が多少押し上げられた事、ドイツ軍の反攻も停滞した事、スターリングラード戦線に抽出されるはずであった二個機甲師団をルジェフに足止めすることができたことで、かろうじて完全なる失敗とならなかったが、それに非常に近いことは確かであった。この経験はソ連軍の縦深作戦の実践において多くの教訓を残した。

この作戦の機動部隊において重要な教訓となったのは、機動部隊が戦果を拡張するには、その任務に専念できる状況を作らなければいけないという事であった。ドイツ軍のSchwerpunktと異なり、ソ連の縦深作戦は戦果の拡張を行う第二梯団が交戦することを必ずしも禁じていないが、実践においては突破部隊が敵の反攻を受け止め、二次目標の確保にも部隊を移転させれば、すぐさま突破力が失われるのは明白だった。敵の反攻があるなら別の部隊が受け止め、敵の航空攻撃があるなら直衛機が防御し、地形により行軍が停滞するなら行軍経路を変更し、なによりも突破力を温存する為、二次目標の確保や突入には可能な限り参加しないようにしなければならなかった。同義的のように聞こえるが、突入後、突破に成功したとしても、縦深にて突破が成されなければ、敵軍は十分に兵力を結集し、縦深の突破を阻止しうる為、縦深の突破は何よりも優勢されなければならない。ルジェフ攻勢の経験は、機動部隊はその主任務の達成までは、それを達成できる戦力を維持することが重要であり、そのことが指揮官によって理解、徹底の必要性を意味した。

チューリン自身、モギリョフにてこの経験を活かすこととなる。

画像4

第二ベラルーシ戦線担当のモギリョフ周辺の地図。四十九軍の作戦正面には、プロニャ、バショ、ドニエプルの三つの川があった。黒線指示部がモギリョフ。モギリョフがドニエプル川(Днепр)の対岸に位置しているのがわかる

モギリョフ作戦におけるチューリンの機動部隊は第二十三親衛戦車旅団、第二百五十六戦車旅団及び第千四百三十四自走砲連隊を中心に編成され、戦車師団強程度の戦闘力を保持した。これには制空権の確保、及び機動部隊前面の全ての火点を制圧する為、第四空軍内の一個航空攻撃師団が機動部隊に付与された。戦闘開始前に地形の十分な偵察が行われた結果、湿地地帯であるが、ミンスク=モギリョフ連絡線により近い南回りとなった。また、戦車が泥に嵌る可能性が高いと推測し、回収部隊は前線部隊に随伴した。また時間的猶予があった為、この作戦を模擬した演習が幾度か行われ、練度の恒常と機動部隊とその他部隊の連携が強化された。ラジオを通じた連絡により、機動部隊の要請から三分以内に歩兵師団の砲兵は砲撃が行えるようになった。

作戦の目標は五日目、6月27日までのモギリョフの制圧、及びドニエプル川渡河。推定走破距離は約100キロ。チューリンの部隊はモギリョフを迂回し、ドニエプルを渡河、橋頭堡を確保した後、後背に進出し、モギリョフの連絡線を断つ事を目的とした。

与えられた戦力を最大限に活かす準備は整えられた。1944年6月23日、バグラチオン作戦は開始される。


画像6

モギリョフ戦線にて準備砲撃を行うZiS-3

初日の戦闘は戦線直属及び三個軍より拠出された砲兵による事前射撃にて始まった。砲撃の開始は雨と霧により、二時間延期される結果となったが、午前九時より始まった激烈砲撃は、独軍を完全に制圧し、歩兵師団の前衛は敵の第一壕から第四壕を制圧した。攻勢正面での兵力差は人数と砲火力にて七・五倍、戦車にて三・五倍となっていた。この成功を元に、四十九軍はまず最初の障害であったプロニャ川と渡河の準備を始める。午前十時には耐荷重60トンの橋が各歩兵軍団のセクターに一本づつ、計四本架けられた。しかし、敵の反撃によりこの内二本は午前中に破損した。この事により、渡河計画、特に砲や戦車の渡河に大きな支障が生じることとなった。 午後四時までに歩兵軍団の第二梯団が戦闘に投入されたが、突入口を広げるにとどまり、追撃戦への移行はできなかった。

初日が終わった時点、前線には幅25km、奥行き6kmの突破口が形成されていた。しかし、初日の目標であるバショ川への到達まで、依然距離があり、大規模な突破を可能とする機甲戦力は対岸に、第一梯団の二個自走砲連隊しかなかった。それ以外の火砲も渡河に困難を生じており、歩兵部隊の一部は45mm対戦車砲で自衛戦闘を行う有様であった。状況を鑑み、チューリン機動部隊の第四十二親衛戦車旅団は川を通ろうとし、何両かは渡河に成功したものの、全体としては川底に足を取られる車両が多く、十三両が擱座した挙げ句、川岸へと引き上げた。

しかし、この突破に対し、国防軍はルジェフのような有効な反撃を行えなかった。第四十九軍を援護する為、第三ベラルーシ戦線内の他セクターでも攻勢が行われ、突破には至らなかったものの、ドイツ軍を足止めした。空軍は初日、359ソーティーの防空・近接支援任務と260ソーティーの長距離任務を行い、ほぼ完全なる制空権を確保した。

続く6月24日はより良い一日であった。苦戦する四十九軍の支援に、戦線予備、及び両翼の三十三軍、五十軍の兵力が抽出され、戦闘に投入された。一方のドイツ軍は戦線が突破された事を認識し、中隊、大隊規模の反撃は行いつつも全体としてはバショ川の第二線へ向け撤退していた。戦線は全体として、静的なものから動的なものへと移行しつつあった。この状況を利用すべく、第四十九軍はプロニャ川を渡河したチューリン機動部隊を戦線に投入する。目標は①敵後背への進出による敵の交代阻止と②ドニエプル渡河のための橋頭堡の確保。機動部隊麾下の部隊は「茂みや渓谷に身を隠すことなく、攻撃せよ」と命じられた。機動部隊は道中、何度かドイツ軍と交戦しつつも前進したが、ドイツ軍の抵抗も激しく、あるSU-76乗りは「行軍中に接敵した為、隠れる場所もない平地で一時間半も戦闘するはめになった」。はたして、この日も大規模な突破には至らず、押し上げるのみにとどまった。なかった。

この日の最大の戦果は四十九軍主力のセクターで発生した。第四十二師団、第百九十九師団、第二百九十師団は彼らのセクターで発生していた小規模な突破を活かす為、自身の車両をかき集め、先遣隊を臨時で編成し、戦線に投入。その日の終わりまでに15-17km走破、バショ川にかかる四本の橋を確保、それぞれに橋頭堡を築いた。全体として、24日に戦線は押し上がったが、前日のスケジュール遅れを帳消しにするほどではなかった。どこかで、時計の針は戻されなければならなかった。

25日も戦線の動きは鈍かった。午前の戦いで機動部隊は10両と200名の損害を受けた挙げ句、歩兵部隊の援護下に戻らざるを得なかった。戦線を6km前進したのみで終わった。モギリョフ方面の作戦は停滞し、大規模の突破はあたかも起きないかのように思え始めた。

しかし、翌26日、機動部隊はついに突破に成功する。

画像5

ドニエプル、あるいはその支流のいずれか、を渡河する赤軍兵士

突破した機動部隊は戦術的な問題に直面する。バシャ川付近の第二線を突破した為、機動部隊を遮るものは、ドニエプル川へ向けた必死の撤退を行うドイツ軍を除いて、何もなかった。しかし、これまでのスケジュールの遅延は機動部隊の二つの目標、敵後背への進出と橋頭堡の確保が両立できない事を意味した。今度は、チューリン中将は迷わなかった。機動部隊は敵後背への進出を優先し、橋頭堡の確保は続いてくる第四十九軍本隊に委ねられた。

6月27日の朝、機動部隊を先導する第二十三親衛戦車旅団はついにドニエプルを渡河し、後背へ進出、モギリョフ=ミンスク連絡線を遮断を企図する。この機動の最中、部隊は、150両ほどからなるドイツ軍の後退中の隊列とかち合う。ある戦車兵はその遭遇の様子をこう書き残している。

「二キロほど進んだところ、十字路にぶつかり、そこではドイツの後方部隊が西へと進もうとしていた。ガルチェノクが報告した通り、百両以上の車両が畑道にあった。戦車隊はたしか扇状に広がり、一斉に攻撃を始めたんだ。普通のトラック、屋根付きのトラック、将校用のバス、車…全部が破壊されるか炎上した。この車列は長かったが、十字路で(赤軍の)戦車が、壊れた残骸を萬吉しながら道をこじ開けた。」

連絡線の別位置に突入した第千百九十七自走砲連隊も同様の状況に陥る。1000名以上の部隊とされた隊列に突入し、これを撃破する。

同時に、四十九軍主力の四個歩兵軍団は北回りでドニエプルの渡河を企図していた。ソ連邦英雄が三人生まれるほどの激しい戦いの後、渡河に成功。モギリョフを北より包囲した部隊は市街地に向け進軍を開始した。両翼にて包囲が進行しつつある事を認識したドイツ軍は、モギリョフからミンスクに向け、脱出を試みる。その前面には、ミンスク=モギリョフ高速道路を塞ぐチューリン機動部隊があった。

6月27日の23時から28日の10時にかけ、大小含め6つの脱出が企図された。最大規模のものは28日の朝4時頃に始まり、一個半歩兵連隊と13両の戦車、25門の各種砲、5両の兵員輸送車によるものであった。この攻勢を第二十三親衛戦車旅団は4両のT-34と1両のSU-85を失いつつも撃退した。

ドイツ軍が脱出を試みる一方、四十九軍主力はじりじりとマギリョフまでの距離を詰めていた。27日までにはモギリョフ周りの陣地を制圧し、28日、チューリン機動部隊がドイツ軍の脱出の阻止に成功したことを知ると、モギリョフ自体への攻撃を開始する。モギリョフはそこまで大きくはないものの、ある程度のコンクリート建ての建物があり、市街戦用の準備が必要であった。赤軍は部隊を50-60人からの諸兵科連合がされたチームに別け、これらのチームには戦車ないし自走砲、迫撃砲、対戦車砲、工兵が配属された。一方、ドイツ軍は有力な兵力を脱出企図に使用してしまった為、まともな抵抗ができず、朝の11時には赤軍はモギリョフ市中心に到達し、18時までにはほとんどの抵抗は鎮圧され、大半のドイツ兵は降伏していた。

画像8

解放直後のモギリョフ

モギリョフ方面の作戦にて赤軍は6日間の作戦にて戦線を175km突破、敵軍6000名以上を殺傷、3500名を捕虜とし、70両以上の戦車・自走砲、200門以上の砲、316丁の機関銃、840両以上の各種車両を撃破した。一方、赤軍の被害は15,871名負傷、4,001名死亡であった。この作戦により、南ベラルーシ、ドニエプル以東のドイツ第四軍は継戦能力を失い、再編成を迫られた。一切の目標の達成に失敗したルジェフと異なり、モギリョフの解放、敵軍の撃破、渡河地点の確保、全ての目標を達成した。その中心となったのが、かつてルジェフにて機動部隊の運用に失敗したチューリン中将の部隊であった。

モギリョフが解放された日の夜、モスクワは224門から各20発を祝砲として放つ。これは、戦争中、二十八番目に大規模な祝砲であった。人口三十万人の、連邦内でもお世辞にも大きいといえない地方都市に、この規模の祝砲が奏でられるのはいささか珍しいことであったが、それはこの作戦重要性の高さと遂行の巧を祝ってのことであった。

画像8

解放後のモギリョフを走るソ連の車列


参考文献(Web文献ばっかです…):

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9F%D0%BE%D0%B4%D0%B2%D0%B8%D0%B6%D0%BD%D0%B0%D1%8F_%D0%B3%D1%80%D1%83%D0%BF%D0%BF%D0%B0
http://stat.mil.ru/winner_may/history/more.htm?id=11960171@cmsArticle
https://warspot.ru/5008-poslednee-leto-pod-mogilyovom
https://worldoftanks.ru/ru/news/history/mogilev_1944/
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A2%D1%8E%D1%80%D0%B8%D0%BD,_%D0%90%D0%BB%D0%B5%D0%BA%D1%81%D0%B0%D0%BD%D0%B4%D1%80_%D0%90%D0%BB%D0%B5%D0%BA%D1%81%D0%B5%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87
http://militera.lib.ru/research/beshanov_vv/20.html
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A2%D1%8E%D1%80%D0%B8%D0%BD,_%D0%90%D0%BB%D0%B5%D0%BA%D1%81%D0%B0%D0%BD%D0%B4%D1%80_%D0%90%D0%BB%D0%B5%D0%BA%D1%81%D0%B5%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87
http://www.1942.ru/book/20A_pogorel.htm


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?