雑記ノート:作者より理解をするということ

さて、はて。

自分の言葉を見失いそうになっている最中なう~なので、解釈論について、少し思うことがあったので、ちょっと読んだりして、軽くまとめてみただけのお話です。半分以上与太話なのであまりほんきにしないでね。

トゥィットゥァーはあえてこの手の話が結構好きな側面があって、『小学校の宿題で「作者の気持ちを回答しろ」と言われたので、作者であった親が解答したら、ペケをもらった』的な与太話が定期的にバズり、また、エヴァ𝄇にて、某というコネメガネのヒロインがヒロインレースに勝利すると、それに関し、『あれは監督の妻がモデルに違いない』という論説が一風を風靡し、結果、公式が「あれは監督の妻ではない」との意の声明を出さざるを得なかったことは記憶に新しい。

最近も、トゥィットゥァーでは、ドラマ、アニメ、漫画、ゲームなど、あらゆる種類の物語を持つ娯楽に、考察班と呼ばれる人々が付き、毎週、彼らの考察について語り合っている。考察班、と呼ばれない人たちでも、解釈一致や同担拒否など、ある種の作者の意図と理解に関する解釈論はそれそのものとして語られることは少ないものの、そのもの自体は広く蔓延っている。

世はまさに、大解釈時代と言えるだろう。

……ほんとかな?



さて、作者より作品を理解すること、と、主張することは、そう新しいことではない。たとえば、自信家のカントは、「自分がプラトン以上にプラトンを理解している」と主張した上で、如何のような文章を残している

「ある作者が自分のテーマについて述べた考えを考察すると、その作者が自分自身を理解していたよりも、私たちの方がその作家を理解していることに気づくことは決して珍しいことではない。」

エマニュエル・カント、『純粋理性批判』

なんたる傲慢!と私は言いたくなるし、実際、この主張はおかしくないか、と思ったのは、私だけではないらしい。E.D.Hirschは『Validity in Interpretation(解釈の正当性)』にてこう解説する。

「プラトンはここでミスを犯しており、本来は意味(Meaning)と文脈的
意味(Subject matter)は別物なのにも関わらず、同一のものとして扱ってしまった。カントはプラトンよりも、プラトンを理解したと主張した際、彼が主張したかったのは、カント自身はプラトン以降の研究の文脈をも理解しているためで、より正しい文脈的意味を理解できると言いたかったのであろう。しかし、意味は意味であり、意味していないことを意味することは不可能なのに対し、意味されていないことを意味するのは不可能であるが、意図をもって意味したわけではないこと、つまり無意識的に意図した意味を読み取ることは十分に可能である。」

E.D.Hirsch、『Validity in Interpretation(解釈の正当性)』

みんな大好き、「解釈」の言葉が(タイトルとしてだけれども)出てきた。文脈的意味というものを読み解くことが、解釈であろうことはある程度自明であると思う。我々の戦いは、ここからはじまる。ただ、この先のネタバレだけれども、最終的に「解釈」次元にて、全ては持ち越されることとなり、そこを僕らは、当たり前なのだけれども、抜け出せない。

この文脈的意味において作者よりも読者がより理解している解りやすい例が、医者の例である。ある患者(作者)が、自らの痛みや不具合を文章に書いたとしよう。さて、この文章を読んだ読者(医者)が、患者よりも、その病理について詳しいことはあるだろうか?ーーー大いに有り得る話である。この際、医学という文脈においては、作者よりも読者の方が詳しいためである。カントが哲学についてプラトンよりも詳しかったように。(なんたる傲慢!)

さて、Hirschの修正が入った、意味と文脈的意味の立場というのは、私が調べられた限りだと、割と広く信じられているようである。すなわち、文脈的意味における解釈という次元においては、作者よりも読者がより理解しているということは、重々にして、可能である、という立場である。

もちろん、このことに自覚的な著者、特に哲学的文章の著者たちは、このことに恐怖したものだと思われる。一度、自らの手を離れたら、その文章は無限の意味を持ってしまうからだ。個人的に好きなのはデリダだ。彼は多々、「私の意味が明確であることを願う」や、「文章の外には何もない」などと書き、徹底して自らの文章が解釈されないように動いたように見れる。しかし、当然のことながら、彼の文章は多重の解釈に晒され、文脈的意味は複数の、偶に互いに矛盾する、形を取った。

さて、デリダがこのような恐怖を抱くに至った犯人である、今回の実のところの主役であるが、主役にすると私の頭がおかしくなるので私が無視することに決めたローラン・バルトの話を(ほんの少しだけ)しよう。彼は1967年に「作者の死」という論文を書き、これはフーコーの1969年の「作者とは何か」と共に、先のHirsch的な理解、すなわち、近代以前の作者の手の内を離れない「意味」から、「文脈的意味」が重要となる世界観への以降を予期した。そして、インターネッツのみんな、ローラン・バルトは正しかったよね?

ただ、ローラン・バルト自身は、こと、読者が作者よりより理解していることがあり得るか、という事象に関しては、あまり気にしていなかったようだ。どちらかというと彼は社会合意によって形成された文脈的意味は、作者の意図がなんであれ、それを押しつぶしうるという話をしたかった印象があるので、ナイーブな過程のもとにある「本当の意味」なんてものを探るという行為そのものに意味を見いだせなかったのかも知れないし、そのことを僕は攻める気になれない。(社会構成主義の文脈の議論をやりたかった的なお話だと私は思っている的な話)

さて、当たり前の解釈論の経緯を明らかにしたところで、私はなんだか知りたかったこと、すなわち僕らにはまだ文章を読んだ際に作者以上に理解できるかの入り口でぐるぐる回っていることに気づいた。そこで、気づいたのは、解釈論が解釈論で停滞するのはわかっていたことで、私がそれ上で知りたかったのは、どちらかというと、作者が信用できるか、という話なのではないかな?という話だ。

たとえば、ハーバーマス的な意味で「あなたが私の恋人と一緒にいるところを見た」との言葉が、その文字を含んでいないのにもかかわらず「あんた私の恋人と浮気してるでしょ?」という疑問であることを解釈するのに、我々は然程抵抗を覚えないであろう。

より実学的な話をするなら、相手側史料と互いに矛盾する戦史史料でも良い。

しかし、作者は、これらの如何なる文章も、かつてデリダが語ったように「文章の外には何もない」と一刀両断することもできる。公式が「あれは監督の妻ではない」との声明を出した時、僕らはどの程度信じれば良いのだろうか?

あるいは、不正を糾弾された政治家が、「そのような意図はなかった」と言った時、ああ、そうだったんだ、と安直に胸を下ろすことができるものだろうか。

当たり前だが、片方のスキームだけを採用する事は、搾取可能な脆弱性たりうる。たように「文章の外には何もない」ことを全面的に採用すれば、発声者の不正が見過ごされ続けるのに対し、全ての解釈に作者が反論せねばならぬ状況は、あまりにも過酷だ。

Hirschの『意味されていないことを意味するのは不可能であるが、意図して意味していないこと、つまり無意識的に意図した意味を読み取ることは十分に可能である。』は、この際、あまり重要な意味を有さない。結局、文章が解釈しうる無限の可能性の中で、意図されていない意味に部類されるものは削ぎ落とされ、結局僕らは、解釈可能なものの中で、どれが正しいのか、争うことになるからだ。

始発点に戻ろう。元引用を忘れてしまったのだが、たしかスウェーデンの劇作家兼演出家が、舞台に一人の俳優を椅子に「座っていろ」との演技指導を出した後、数々の批評家を呼び、その劇の感想を聞いた所、批評家たちは「待ち人」や、「無常」など、演出家が一言も発していない演技に関する批評を披露した、というものがある。大いなる関係性を示唆しているように見えた、との感想があがった舞台の演出とされたものが、衣装班のぬるい縫い付けであったということも経験したこともある。だいたいの問題は、「みんなそこまで考えていないよ」で済むはずなのだ。

しかし、少なくとも思想上は、作者より作品を理解することは、全然可能とするのが主流はである。そして、「無意識により」の免罪符を元に、我々は枯れ尾花に龍や大河を見出すのをやめられないだろう。それは悲しいことなのか、あまり、よくわからない。

少し前に気に入った話で、『ヘーゲルは自分がどの程度まで正しいのか分かっていなかった 』との題名の論文があった。なので、ゼロプラスゼロイコールゼロの話で、作者も読者も何もわかっていないし、誰もなにもわからない、という話をしたくなる気分のときも、ままあるし、特に、今日はそんな日に近い。

考えが発散してきた。この文章もそろそろ終わらせるべきだろう。

実は、こんな長い文章を書かなくても「作者より作品を理解することは可能である」ということを、証明する方法はあった。というか、その方がスマートだ。実例を示せばいい。残念なことに、カントやプラトンは死んでしまっているので、彼らの例を使うことは難しいが、それの代用となるものがある。その一つが、次のインタビューだ。

私は、このインタビューが大好きなので、これで今日の話を締めくくりたいと思う。

インタビュワー「あなたの父親はコンピューターサイエンティストで、あなたの母親は音楽家でした。時に、宇宙人の宇宙船が地球へ着陸した時、どのように彼らとコミュニケーションを取るのでしょうか?」
スピルバーグ「それは良い質問だね。その質問は好きだよ。(笑)でも、君はその答えを知っているじゃないか。」
インタビュワー「(スピルバーグが直近に作成した『未知との遭遇』のストーリーのように)彼らは音楽をコンピューターにて作り、会話ができるようになる」
スピルバーグ「そうだね。(笑)僕自身、それを意図的に描いていて、劇中の登場人物たちが僕の父に僕の母だったと言いたいものなんだけれども、実のところ君が今この場で質問するまで、そのことに気づかなかったんだよ!」
(開場喝采)
スピルバーグ「教えてくれて、ありがとう。」

収まりが、よろしくて?

参考文献
But their faces were all looking up
Texts in Context: Revisionist Methods for Studying the History of Ideas
The epistemology of reading and interpretation
Reading of Theoretical Texts
Validity in Interpretation
The Death of the Author

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