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臨機応変に編成せよ!:第二次世界大戦前後におけるソ連軍戦車部隊編成史

第二次世界大戦中、わずか五年間の間にソビエト連邦は十万台以上の各種戦車を生産し、それを装備した赤軍は名実共に世界一の戦車軍であった。

しかし、その運用の熟に練は多くの苦難が伴ったこともよく知られている。

第二次世界大戦を通じてのソ連軍の戦車の開発や、縦深戦闘ドクトリンの実践の熟練、運用の成熟などは、グラントなどを中心に、既に多くの文献が書かれている。本稿では、あまり日の当たることのない、その編成史について描く。

戦前の機械化運動

内戦直後のロシア軍は、非常に前近代的な、人と馬で戦う軍隊であった。それの近代化は、20年代後半、当時の赤軍参謀本部次長であるトリアンダフィーロフらにより主導された。トリアンダフィーロフらは縦深作戦という理論を構築し、その実践としての機械化部隊の重要性に説き、そこから赤軍機械化を推進していった。

トリアンダフィーロフ自身の1926年の構想は1918年の英仏独のドクトリンとさほど変わらず、砲兵による突破口形成の重要性を主題として語り、戦車や機動兵力の役割に関しては触る程度にとどまったが、1929年ではこれは大いに発展され、戦車(特に軽戦車)、自動車、騎兵、その他機械化車両による突破後の敵後方への縦深に渡る戦果の拡張について述べるまでになった。

このことを受け、赤軍は機械化の糸口を探るようになる。同年、『赤軍の機械化ならび自動車化担当局(управление механизации и моторизации РККА )』が設立され、赤軍初の機械化連隊が設立された。翌年にはこの連隊は機械化旅団へと発展された。この旅団は戦車、自動車、砲兵、偵察部隊、そしてそれらの支援部隊からなり、110両のT-18豆戦車と27門の砲を装備する、諸兵科連合部隊であった。この部隊は様々な訓練により機械化部隊の有用性の研究に使用された。

2年間の研究の後、機械化部隊の有用性ならびにその運用について一定の知見を得た赤軍は、その発展として、1932年に独立した作戦行動が可能な部隊である機械化軍団を設立する。これは二個機械化旅団と一個狙撃兵旅団よりなる、九個大隊(内六個戦車大隊)規模の組織であった。

ここで、少しソビエト連邦の赤軍の部隊編成の特性、特に西側との差異について述べる。ソ連では、一般的に、親部隊が単一兵科の編成を取る場合、師団・連隊制を取り、諸兵科編成の場合、軍団・旅団制を取ることが多い。この時、連隊・旅団に所属する大隊数は通常、二~四個であり、よって、単一兵科編成の師団と諸兵科連合の軍団が、同一規模であることケースという、西側の師団・軍団制度の読者からは些か混乱する事象が起きる場合があることを、ここに特記する。また、混乱に拍車をかけることに、複数の師団規模部隊を纏めた軍団というものも、存在した。加え、戦時の混乱の中で編成された部隊はかなずしもこのルールに則っているわけではなかった。これらを踏まえ、新規に登場する編成構造に関しては、その規模が何個大隊規模であるかを記載し、大まかな編成規模の指針とする。

1932年の機械化軍団内の機械化旅団そのものも30年のものより大きく増強されており、軍団は全体で500両の戦車と200両のその他車両を有する、強力な機甲部隊であった。続く4年で赤軍機械化軍団は拡張され、1936年には4つの機械化軍団と6つの独立機械化旅団を有するにまで至った。

当時の赤軍の公式なドクトリンは、1929年版『赤軍野外教令(Полевым уставом)』であり、その中の戦車は、「戦車は歩兵を直接支援するための道具である」というものであったものの、この教令の痛烈な批判者であるトゥハチェフスキーが赤軍兵器局長であったこともあり、赤軍は公式ドクトリンから逸脱した機甲戦力の拡張を進める。

しかし、これは、当時の陸海軍人民委員兼軍事革命評議会議長であるヴォロシロフの方針と相反した。ヴォロシロフ自身は赤軍を旧態依然たる1929年の赤軍野外教令に則り、形はそのままで規模のみ拡張することを目指した。歴史家のオレグ・ケン(Олег Кен)は、より中央に近く、五カ年計画の進捗の実情を知っていたヴォロシロフ自身は、より工業的に当時のソビエト連邦に分相応な発展を願ったのではないかと推測している。一方、トゥハチェフスキーは工業的な実情を気にせず、縦深作戦ドクトリンに則った、理論的な最適解を目指した。トゥハチェフスキーとヴォロシロフ、二人の元帥の対立は、軍全体へと波及し、ブジョンヌイ、シャポシニコフ、ティモシェンコなどを始めとするヴォロシロフ派と、ガマルニク、ウボレヴィッチ、ヤキールらを始めとするトゥハチェフスキー派で軍内を二分することになった。

この二人の対立は赤軍全体に、長い影を落とすことになる。

1936年に赤軍野外教令が改定されると、それは一件、論争がトゥハチェフスキー派の勝利に終わったかのように見えた。1928年の赤軍野外教令と異なり、1936年版は、「戦車は機動性大にして、強大なる火力と威大なる打撃力を有する」ものとされ、「戦車は敵の後方深くに突入し、その予備、砲兵、司令部及び後方諸廠を破壊、もしくは敵の退路を遮断する」とされた。即ち、トゥハチェフスキーら、縦深作戦ドクトリンに則った運用である。

しかし、これに対し、ヴォロシロフ派は、政治的陰謀を使い反撃を行う。

1936年より始まった大粛清において、ヴォロシロフ派はスターリンとのつながりの強さを活用し、これを軍からトゥハチェフスキー派を一掃する好機として活用する。結果、トゥハチェフスキー派のガマルニク、ウボレヴィッチ、ヤキール、そしてトゥハチェフスキー本人が処刑されこととなった。

そして、この政争の為、急速に進んでいた赤軍の近代化は、一時、停滞することとなる。

開戦前夜:どの戦訓に従うか

1938年に、小規模な改革が実施されることになる。まず、実情に合わせ、すべての機械化旅団、機械化軍団は、戦車旅団、戦車軍団へと名称を変更する。また、戦車旅団は、その装備する戦車の種類から、BT快速戦車などを装備する軽戦車旅団と、T-28やT-35などを装備する重戦車旅団の2つへと分けられた。また、大粛清の期間中、縦深作戦の実践母体たる戦車軍団は拡張されなかったものの、独立戦車旅団に関してはソ連産業の発展に伴い拡張され、元の6から24個独立軽戦車旅団と4個独立重戦車旅団へと、大きく増加した。

1939年になり、大粛清の余波が落ち着き始め、スペイン内戦やノモンハン事件、そしてポーランド戦の戦訓を取り入れる余裕ができ始めると、赤軍は戦車部隊の編成に再度メスをいれる。

これらの戦訓は主に技術的、戦術的な側面が強く、諸兵科連合の強調や、後のT-34やKV-1へ繋がる軽装すぎる戦車ではなく、バランスの良い戦車の必要性などであったが、編成的な課題も存在した。特に重要視されたのは、スペイン内戦と、ノモンハン事件の双方の戦訓は、旅団の規模でさえ、戦車の大規模な使用は多くの場合困難を伴うということであった。ましては軍団規模の戦車の集中運用は兵站の面からも、当時の赤軍では支えきれないと考えられたこともこと判断を後押しした。また、おそらく、縦深作戦推進派をヴォロシロフが軍から一掃していたこともこの事に寄与したことは難しくない。これらが合わさった結果、1939年11月、全ての戦車軍団は解散させられ、戦車軍団配属の戦車旅団は独立化させられた。

続く、冬におきたフィンランドとの冬戦争は、これらの決断が正しいかのように見せた。冬戦争にて各種戦車旅団などからなる部隊はビボルグの方向へ目指して縦深における突破を試みたが、敵の抵抗もされど、主に地形の走破の失敗という形にて、戦果の拡張に失敗した。小型の旅団構造でもこのような失敗が起こりうるのならば、軍団構造はやはり不要だったのだと、この結果は改革の実施者たちを安堵させた。

しかし、翌年、この改革は真逆の挑戦を受ける。ドイツ軍の西方電撃戦での成功は大規模な戦車・自動車化部隊による機動の実践が可能であることを示したからである。即ち、実践は可能であり、ソ連の実践者たちが失敗しただけということ他ならなかった。これに対し、トゥカチェフスキーを始めとしたスタフカの面々は、過ちを認めないという形ではなく、失敗の大胆な受容とそれを起点として修正に動いた。結果、前年に解体したばかりの大規模編成の復活され、それ以上に、巨大な構造が生まれることになる。

独立化させられた戦車旅団は再度集約化され戦車師団(九個大隊)を編制した。これは二個戦車連隊と一個自動車化連隊からなる編成であり、狙撃連隊が自動車化されるなど、多少の変化はあったものの、1932年の戦車(機械化)軍団と同規模の組織であった。

一方、新規に作られた機械化軍団は非常に大きな組織であった。真の意味で諸兵科が連合されたこの組織は、二個戦車師団と一個自動車化師団を基幹とし、一個自動二輪連隊と各種支援部隊を有し、それらに加え、戦闘機と中距離爆撃機からなる一個航空旅団を有することとなった。戦車1000両以上、150門以上の砲、700両以上の各種車両、5000両以上の各種トラック、15機の航空機、二十七個大隊、総勢36000名にもなる、平時の均質編成の部隊としては史上最大規模の部隊であった。

前年に独立化された戦車旅団は再度再集結させられこれらの戦車師団の戦車連隊を形成した。

1940年6月9日に発令されたこの再編成の結果、赤軍は新しく8つの機械化軍団と、2つの独立戦車師団を有し、同年中に新たに1つの機械化軍団が加わり、機械化軍団の数は9へと増えた。この数はこと大規模な戦車・機械化軍団の数、ならびに戦車数そのものでは、西方電撃戦で成功を収めたドイツ軍を上回るものであった。

しかし、この改革には幾つか疑問符がつけられる。そもそも、彼ら自身の経験に基づいた変革ではなかった。むしろ、この編成の変更と真逆の結論を彼らの戦訓は導き出していており、この大規模部隊はただたんに勝ち馬に乗り遅れない為に作られたと言っても過言ではなかった。たしかに、縦深作戦は縦深にわたる攻撃を可能とする大規模機甲集団の必要性を規定していたが、それを行うとされた部隊は前述の通り、ここまで大きな戦車集団ではなかった。それらは、彼らは巨大な機甲戦力を幾つも有するに至ったが、それを扱うドクトリンはまだ制定されていないことを意味した。彼ら自身でどう扱って良いのかわからない強力な部隊の存在は、それらの部隊の指揮官とその上位の指揮官を五里霧中の状態においた。

1941年のカタストロフ

1941年6月22日、ドイツ軍によるソビエト連邦の侵攻が始まると、これらの機械化軍団は戦場に繰り出される事となる。第六機械化軍団のように初日の戦闘に参加した少数の部隊もいたものの、多くの機械化軍団は最前線ではなく、予備として少し後方に置かれており、結果、機械化軍団は前進してくるドイツ軍機甲集団に対する反撃に使用されることが多かった。

しかし、これらの反撃の多くは凄惨な結果に終わった。

前年末に編制されたばかりであるこれらの軍団の多くは、ろくに軍団規模の長距離機動訓練を行っておらず、移動するだけで故障や燃料切れによる落伍者を大量に出した。特に、第五機械化軍団はその戦力を1/3を行軍だけで損失した。

戦闘においても、同様の問題が存在した。戦闘における編成的な問題は大きく2つあり、片方が諸兵科連合軍団である優位性を活かしきれていないという点で、結果、戦車師団と自動車化師団は別途戦闘に突入し、個々に撃退されるという事例が多発した。もう一方の問題は、行軍同様、継続する戦闘における兵站運用訓練が十分に行われていなかったという点である。戦域のいたるところにおいて、ソ連の戦車兵たちは初動にて戦闘の優位性を確保したものの、燃料と弾薬の補給を適切に行えず、結果、戦果の拡張どころか、保持している陣地を失うという自体に直面した。例えば、初日より戦闘に参加していた第六機械化軍団は非常に困難な状況であるにも関わらず、善戦し、二日目には限定的な反撃を行い、多少の成功を収めたが、翌日には残弾を打ち尽くし、後退を余儀なくされた。

また、優秀なクルキン少将に率いられた第三機械化軍団も同様の問題に直面した。少将自身のイニシアティブにより開戦準備を進めていたこともありバルバロッサ初日の殲滅を免れ、翌日よりラセイネイにて反撃を行った。これは、進撃するドイツ機甲集団の側面に対し、自身の隷下にある戦車師団を先鋒に、自動車化師団で側面を守りながら行う、教本通りの作戦であった。これは側面を比較的薄くしていたドイツ機甲集団、第六装甲師団に突き刺さり、師団は停止し防戦に回らざるをえなくなった。3日間に及んだこの反撃戦において、一両のKV-2が第六装甲師団の連絡線へ到達し、その補給を一両日にわたって止めるなど、少なくない戦果があげられたものの、最終的に、第一装甲師団の一部が反転し第三機械化軍団の包囲に回ったこと、ならびに、第三機械化軍団へ適切な補給が行われず、戦闘継続ができなくなったことにより終結し、第三機械化軍団は後退を余儀なくされた。この戦闘の特に問題であった点は、燃料、弾薬不足であり、第三機械化軍団の戦車損失の約半数はこれらによって放棄されたものであった。

これらの補給上の問題以外にもこの種の機甲軍団には問題があった。巨大すぎる部隊は、部隊の運用と再配置を困難にした。アリートゥス周辺の戦いに第六戦車師団が巻き込まれていた為、第三機械化軍団はラセイネイの戦いの初動において、一個戦車師団しか投入することができなかった。また、戦略予備に配置されていた第二十三機械化軍団は6月30日に前線への移動命令が下されたが、列車移動に一週間、そこから集結にもう一週間を費やした為、本来の任務には付近の別の機械化軍団が回されざるを得なかった。

また、編成上の問題として、軍団はその戦力と重要性に反し、対空部隊が脆弱であった。そのため、各軍団、師団はルフトヴァッフェによる攻撃により、多量の戦車の損失を出していた。

これらの問題の集大成が6月末に行われた、ブロディでの戦車戦であった。進撃してきたドイツ軍、三個戦車軍団、750両の戦車に対し、赤軍は六個機械化軍団、3400両の戦車を集結させ、攻撃した。クルスクに次ぐ規模の戦車戦において、赤軍は2600両以上の戦車を失い、敗走した。一方のドイツ軍も85両の戦車が撃破され、200両近くが修理を必要とする状態となり、少なくとも攻勢の継続が困難たる状態になった。しかし、赤軍側が受けた被害に対し、圧倒的に軽微であったことも確かで、再編成も一週間程度で終了し、攻勢は翌々週に再開した。それは、あまりにも大きな犠牲に対し、あまりにも小さな戦果であった。

生存の為の再編

1941年の初戦が終わると、幾つかの戦訓が導き出され、スタフカは再度、編成の変更に着手する。彼らはまず、一つの決定的かつ、重要な結論を出す。機械化軍団の解体である。

少なくとも、巨大すぎ、また彼ら自身どのように使って良いかわからない軍団規模の機械化部隊は、貴重な戦力の無駄遣い以上、何者でもなかった。また、現実として、その時必要とされたのは、32000人よりなる諸兵科連合の強力な縦深作戦用の軍団ではなく、とにかく、綻びしかない戦線を埋めることのできる部隊であり、脆弱な狙撃兵師団、狙撃兵軍団を補強できる部隊であった。

問題はどこまで解体を進めるか、であった。1940年末の解体は師団以上全ての機甲部隊の解体であったが、こと師団規模(九個大隊前後)の組織に関しては、戦前の戦車軍団の知見を使用することができた。また、眼前のドイツ軍の成功を前に、「戦車は歩兵を直接支援するための道具である」への回帰は完全な時代錯誤にも思えた。

この葛藤の中、1941年7月、まずは機械化軍団が解体された、その内の各種師団、戦車師団ならびに自動車化師団がリリースされた。この内、自動車化師団はほとんどの場合さらに狙撃兵師団へと再編成され、自動車は所属の軍直下の兵站装備として吸収された。この解体は戦闘中の部隊は対象外とされたものの、その殆どが包囲殲滅されているか、少なくとも軍団機能を失っていた為、比較的迅速に進められ、9月末には完全に完了した。

また、師団編成も見直され、小型化された。7月6日付のスタフカの丁令により、戦車定数は375両から215両へと削減され、各種支援部隊も削減された。人員も11000人から6200人規模へと大幅に削減され、その編成において10個師団が編制されることとなった。

しかし、改革はそれで終わらなかった。戦線が下がるのは止まらず、前線ではとにかく直ぐに来る戦力が求められた。

8月23日、ついにスタフカは大規模機甲部隊の夢を諦める。既に配備されているもの、ならびに編制中のものを除いた新規の戦車師団の編制は、禁止されることとなった。これまで師団などが担っていた役割は新設された独立戦車旅団(四個大隊)によって実施されることとされた。この戦車旅団は三個大隊からなる戦車旅団と、自動車化大隊からなる諸兵科連合部隊で、地域的な攻勢や反撃を行うための93両の戦車を有し約1800名程度の小型の部隊であった。特記事項として、この旅団は従来の戦車師団の対空火器の2/3を保持しており、戦車数が1/3になっていることを踏まえると、対空火力はほぼ倍増する形となっていた。

また、装甲戦力による支援を切実に必要としている歩兵の為、新規に、狙撃兵師団などを支援のための独立戦車大隊も新設された。これはほぼ戦車連隊内の戦車大隊と同様の構造で、36両の戦車、202名からなった。1941年を通じ、200以上の独立大隊が編制された。

新しい戦車旅団は前線にて一般的に喜ばれたが、問題がなかったわけでもなかった。新規の部隊の旅団ー連隊ー大隊は過剰統制の問題を引き起こし、また、独立して運用される単一の諸兵科連合部隊としては、歩兵が少なすぎた。この問題を解消するために、12月9日、スタフカは編成を再度変更し、四個大隊の構造は維持したまま、旅団を二個戦車大隊、二個狙撃兵大隊へと変更した。

1941年の厳しい冬を、赤軍はこの独立戦車旅団・独立戦車大隊の二本柱にて戦い抜くこととなる。

1942年から戦後まで、回帰と、その後

1942年の春が見えてくると、赤軍にも多少の余裕がでてくることとなる。大量に編制された独立戦車大隊の供給と、戦線の安定化をもたらし始め、まだ戦車の数は十分とは言い難かったが、作ろうと思えば余裕は作れる程度には状況は変わっていた。

この余裕の現れとして、独立戦車大隊の構造改革がある。独立戦車大隊は、この時期、独立戦車連隊へと形を変えた。これら独立連隊は戦車の定数こそほぼ戦車大隊と同じで、数両戦車が増えた程度であったが、大きな違いとして、これら連隊の支援要員の増加があり、これは、彼らがこれら独立部隊が使い潰されるものではないと認識し始めたことを示唆した。

またこの余裕の一方で、夏が来ればドイツ軍が再度攻勢に出ることは自明であった。その方向に関して、多少の予測はついたものの、それはついぞ確信をもたらさず、スタフカの基本方針は強力な予備の形成に傾いた。そして、戦略攻勢を止められる兵種は戦車部隊しかないと考えられ、大規模戦車部隊の構想が再度浮上した。そして、この度は、スタフカも必要不可欠と、認可した。

新規に編成が組まれた部隊は、二個戦車旅団と一個自動車化旅団からなり、戦車数が100両程度に減っているなど全体的に小型化していることや、兵站部門の自動車化が進んでいるなど、多少の変化はあったものの、それは1938年の戦車軍団に酷似していた。また、名称も、1938年同様、「戦車軍団」とされた。かつての失敗を繰り返さないため、他人の道具をそのまま持ってくるのではなく、彼らはトリアンダフィーロフやトゥハチェフスキーら、縦深作戦の父たちが残した遺産へ回帰した。

1942年の夏、ブラウ作戦が発動される。スタフカは主攻方向はモスクワ方面と考えており、戦車軍団はそちらの方向、ならびに戦略予備にのみ配備されており、コーカサス方面に戦車軍団は展開していなかった。しかし、一度その攻勢が停止すると、新規に編制された29の戦車軍団の半数近くである14個をコーカサス・スターリングラード方面へ展開し、その反撃戦である天王星作戦ならびに小土星作戦においてこれらを使用し、見事作戦目標の達成に成功し、

1942年を通じ、戦車軍団の構造は修正を繰り返した。この中でも大きなものは、重戦車を装備する三個目の戦車旅団の編入で、この結果、軍団の戦車数は181両まで増加した。

また、これらの成功の結果、その一段階上の構造の復活した。戦前の機械化軍団の規模に匹敵する規模の機甲機動部隊、戦車軍の創設である。1942年から1943年にかけこれらは編制され。最初期は臨時編成として、次は定数編成として、二個戦車軍団と一個戦車旅団を有する形をとり、最終的には定形編成ではない部隊へ回帰した。この時期には、彼らも自らのドクトリン理解が進んでおり、何をどうすれば良いのか、十分に理解していた。

この独立戦車連隊、戦車旅団、戦車軍団、戦車軍の制度にて、赤軍は第二次世界大戦を最後まで戦い抜くことになる。恒常的組織である戦車連隊、旅団、軍団に関しては、最適化された構造を作り、そして、上位組織にかんしては、戦前の機械化軍団の失敗に則り、戦車軍団や戦車軍は恒常編成を持つ組織ではなく、臨機応変に編制される組織とされ、必要に応じ編制と解体を繰り返した。彼らは、臨機応変に編制するということに成熟したのだ。

参考文献

今回はだいたいWikipediaとTank frontです…
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