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英第二十一軍集団内の人間関係:MontgomeryとO'Connorの場合

あらゆる人類の組織は、個々の人間が集まってできている。そして人間居るところ必ず、人間関係による対立が存在する。立場の差や才能の差、人当たりの良さや、強情さ、誰に好かれている嫌われているなど、様々な種類の感情が渦巻く人間関係は、嫉妬、怨恨を掻き立て互いの協力を難しくする。

多くの場合、大きな目標の為に一致団結、とすることが理想であっても、そうなることは非常に稀で、人は互いに至らぬ点を一つ一つ妥協し、解決しながら進むことしかできない。これは戦争を扱う組織である軍隊でも変わらない。幾百幾万もの人類の集合体である軍隊は、むしろ、このような困難の一種の集大成とも言える。多くの場合、これらの問題を踏まえ、上に立つ立場の人間はコミュニケーション能力が高い人材であることが多いが、溢れ出る軍事芸術の巧みさより、コミュニケーション能力分不相応に出世してしまう人間という人物も偶にいる。その一つの例として、コミュニケーション能力が不足した人間が上に立つと、下のものたちと言わずと知れた英第二十一軍集団を治めた、Montgomeryの場合がある。

話は1944年の英第二十一軍集団の結成よりも前へと遡る。1940年、ドイツ軍による西方電撃戦の結果、ダンケルクより命からがら逃げ出してきたMontgomeryは、戦前の軍事教育並びにそれを指導した軍事エリート達、近衛連隊から王立陸軍大学へと通ったような人々、に対し大きな不信を抱くようになった。結果、Montgomeryは、これらの軍事エスタブリッシュメントを敵視し、特にBrookeといった例外を除き、戦前から高位であった人々とあまり仲が良くない結果となった。

既存の軍事エリート達へ期待できなかった結果、Montgomeryは配下の指揮官は可能な限り自分が見出して昇進させた指揮官で固めようとした。この一例がフランス戦でMontgomery麾下の旅団長であったDempseyや、大隊長であったHorrocksであり、44年のスケルデの戦いで活躍したEvelyn Barkerであった。

帝国参謀本部総長であったAllan Brookeは、Montgomeryの軍事的才能に惚れ込んでおり、結果、基本的にはMontgomeryの人事に口出ししなかったが、自身戦前組であり、それゆえにエスタブリッシュメントとも仲が良かったBrookeは時たま、役職のない有能な人材の活用として、Montgomeryの麾下に自身の好みの指揮官でない者を任命することもあった。その内の一人がO'Connorである。ノルマンディー上陸作戦に先んじ、Brookeの一存にて、O'Connorは第VIII軍団へ任命された。

当時55歳とMontgomeryより高齢であったRichard O'Connor中将は、Cameronians Scotland Rifle連隊出身の歴戦の将校で、一次大戦では幾つものメダルを受賞しいた。第二次世界大戦では北アフリカ戦の初戦で活躍し、リビアよりエジプトへ進軍してきたイタリア軍を跳ね返すにとどまらず、逆侵攻の快進撃により北アフリカイタリア軍を壊滅させたことで有名であった。しかし、ドイツアフリカ軍団が介入すると、英軍は後退を余儀なくされ、その後退の最中、O'Connorはイタリア軍の捕虜となってしまう。しかし、43年にイタリアが戦争から離脱するとその混乱の最中、捕虜収容所より脱走し、英軍本隊への復帰を果たす。捕虜になったことからポストを失っていたものの、初戦の実績より優れた指揮官であることは確かであり、Brookeには彼のような人材を遊ばせる余裕はなかった。経験なクリスチャンで正義の人として知られたものの、物腰低くかった。彼の人柄を示すエピソードとして、Dempseyとのやり取りがある。1934年、戦間期の軍隊に馴染めずにいたDempseyは軍隊を辞めることを考えていたが、O'Connorは粘り強く彼を説得し、結果、彼は軍にとどまることとなった。人当たりも良かったO'Connorは、殆どの人間と上手くやっていける才能の持ち主であった。しかし、Montgomeryは殆どの人間に含まれないような人間だった。

O'ConnorはMontgomeryの好みの指揮官からは程遠かった。O'Connor自身はMontgomeryとある程度寄り合おうと善処したものの、指揮のスタイルなども大きく違い、それ故、二人の関係はぎくしゃくしたものとなった。結果二人は、時にはよく共同で働けるものの、多くの場合衝突し、最終的には破局を迎えることとなる。

最初の衝突はO'Connorの任命直後に発生した。Montgomeryは近衛機甲師団長のAllan Adairを「猪突猛進さが足りない(Lacks the drive)」ことを理由に解雇しようとしたところ、任命直後だったO'Connorが任命直後でまだ師団長の能力を評価仕切っていないことを理由にそれを止めた、というものであった。この件で、どの程度まで、理由が内実を占めていたのかはわからない。Adairは近衛出身の近衛師団長という、Motgomeryが嫌う軍事エリートのこの上ないほどの現物であり、Montgomery自身彼を「師団の王のように振る舞っている」と苦言を漏らしたことがある。実情はともあれ、この件ではMotgomeryも自身の手法にある程度問題のある程度の強引さがあることを認めたのか、これ以上の追求を行わなかった。しかし、機甲師団の指揮官にある種、若さに似た猪突猛進さを求めるMontgomeryと堅実な指揮能力を求めるO'Connorでは求めるものが違いすぎており、これは別の師団の別の指揮官において再燃することとなる。

O'ConnorとMontgomeryは任命直後からこのような揉め事を抱えつつも、一応はノルマンディー上陸作戦という大事の中の小事と、互いの至らぬ点に見て見ぬふりをしつつ、日々を過ごした。いざ上陸してみると、彼らの関係は驚くべきほど改善した。これは二人の関係どうこうというわけではなく、O'ConnorのVIII軍団以外の軍団、すなわち、XII軍団、XXX軍団のパフォーマンスの低さが主な起因であった。特にViller Bocageに代表されるXXX軍団のパフォーマンスはあまりにも低すぎ、こちらの軍団の軍団長は戦役中の解雇に至っている。それら二つの軍団にあまり信頼を置けなかったMontgomeryは、消去法的にO'ConnorとVIII軍団を重用せざるを得なくなり、Epsom、Goodwood、Bluecoatなど、本線の作戦では必ずといっていいほどVIIIを主攻に用いた。

しかし、ノルマンディ戦の終盤に北アフリカ組のHorrocksが負傷から回復し、前述のXXX軍団のBucknallを置き換えると、以降、主攻はHorrocksのXXX軍団ものとなる。O'Connorもこれに思うところがあったからか、「贔屓から外れたかな」と書き残している。それでもO'Connorは比較的優れたパフォーマンスを発揮し、Market Garden作戦ではあまり知られていない側面方向の作戦を担当し、主攻方向以上の領土を獲得することに成功している。

O'ConnorとMontyの破局はこの直後訪れた。Market Garden作戦後、低地諸国へ迂回したライン河超えが直近に起きないことがわかり、またスケルデ制圧によるアントワープ港開放まで補給状況が改善することがないことがわかると、戦線の整理による戦力の経済化が重点となった。ここで、米軍のBradleyとMontyの不仲もあり、Bradleyが米軍の作戦軸を英軍に向けて寄せることを拒否するという事件が行った。これは、両者協議の上、代案として、米第七機甲師団がVIII軍団に譲渡される代わりに英軍によって両軍間に生まれていた隙間は産められる、という手法により解決されることとなった。この譲渡された米七機甲師団を主軸にO'Connorは米軍とのギャップを詰めるConstellation II作戦を実行することとなる。これは、機甲師団の機動力を活かすというよりも、その火力と装甲を有効に活用する、緻密な指揮能力が必要とされる作戦で、米第七機甲師団は与えられた任務に対し、よく戦った。結果、O'Connorは師団長のSilvesterの能力に信頼を持つようになり、また、信頼とともに、個人的な親睦を深めていった。

しかし、Montgomeryはそうは思わなかった。10月13日にVIII軍団のHQに来、Silvesterをみると、その54歳という年齢に不満を持ち、ひと目見ただけで老年を理由に解雇する決断を行った。そこからMontgomeryの行動は素早かった。直ぐ様Eisenhowerに掛け合うと、7日後には解雇に必要な準備を終えていた。これはO'Connorには二重のショックであった。まず、O'ConnorはそもそもSilvesterの能力に不満を持っていなかった。それに加え米軍が英軍の指揮下にある、ということに不満を持っていた第七機甲師団は、自身の指揮官の解雇によりさらに不満を持ち、それは転じ、第七機甲のO'Connorへの不信へと発展することをO'Connorは正しく予期していた。しかし、Montgomeryも譲らない。この対立は更に発展していくこととなる。

10月20日O'ConnorはMontyにこの命令を撤回するように直訴するが、退けられる。進退窮まったO'Connorは、辞表を旧友かつ上官Demspeyへ提出する。34年にDempseyが除隊を考えていた際、引き止めたのはO'Connorであった。奇しくも、立場が逆転することになった。ここでDemspeyはO'Connorを引き止めた上、解雇撤回の懇願をMontgomeryへ提出するが、Adairの場合と違い、今回、Montgomeryの意思は固く、これも効果はなかった。

アメリカ人の解雇をめぐり、英軍が内部で揉めている内に、最後の一撃がアメリカ人よりもたらされることとなった。Silvesterの本来の上官であるBradleyはSilvesterの解任について「第七は米軍でも足を引っ張った(セーヌ川の渡河にて五日程度米軍の停滞させたことに関し、詳しくは『征論』収録『忘れ去られた『Lorraine戦役とその忘れられた論争について』参照)」と、これを認めた。Eisenhower、Bradley、Montgomeryと西方連合軍の最高指揮官三人が同意したことにより最早、Silvesterの解任が覆る可能性はなくなった。

この一件を通じ、当然のことながらO'ConnorとMontyの仲は修復不能なほどに悪くなった。結果、MontgomeryはO'Connorは代わりを探し始めることとなる。これはO'Connor自身の有能さより難航し、MontgomeryはしまいにはMG作戦の空挺部隊の指揮官であるBrowning中将などまで候補にすることとなる。本国のBrookeもこの動向をつかみ代替を探す一方、BrookeはO'Connorの優秀さを認識しており、解雇などのようなやり方ではない穏便な解決を探した。

これは、Brookeの権限を活用した、アクロバティックな方法によって解決されることとなる。運良く当時、インド軍司令であるMayneが大将に昇進し、ついては内勤に転じる予定となっていた。これを利用しBrookeは空のポストとなるインド軍司令にO'Connorを「昇進として」与えることを提案した。これは昇進であり、また、インドにはWavellやAuchinleckなど、北アフリカでO'Connorと戦った旧友たちがおる為、適当なポストであった。一方、Montgomeryはようやく後任の候補を四十九師団長のBarkerという形で見つけた。二つが合わさり、この人事は実現することとなる。

VIII軍団と、主戦場であるヨーロッパからの解任はO'Connorを悲しくさせ、これらの一連の事象は流石のO'Connorも応え、彼は以後、自らMontgomeryへ口を利くことはなくなる。しかし、Montgomeryから遠いのインドでは、これ以上二人の関係が悪化するはずもなく、問題は最終的な解決を迎えた。

これがMontgomery英第二十一軍集団内の人間関係の衝突とその一つの顛末である。Motgomeryの軍事エリートに対する敵視、二人の指揮スタイルの違い、O'Connorの頑固さ、これら全てが合わさり、この拗れは発生したと言える。それらを踏まえると、この結果は必然のように思える。しかし、そうなのだろうか。

この話には、後日談がある。O'Connorが退役し、またMontgomeryが老人となると、MontgomeryはO'Connorへ手紙を出すことになる。そこには一切、謝罪の言葉は書かれていなかったが、このような文にて締めくくられていた。「ここ数年、君との友情を特に恋しがるようになった。もし気にしないのであれば、もう一度会えないだろうか」プライドが高いMontgomeryから来るものとすれば、これは謝罪文に最も近い何かであろう。そして、Montgomeryほどの人も、老いからくる寂しさには打ち勝てなかったのだ。

驚くべきことに、O'Connorはこの誘いに応じることになる。MontgomeryはO'Connorとの会食の後、手紙でこのように述べている。

「楽しかった。また会おう。」

彼らの再開された友情は、Montgomeryの死まで続くこととなる。


Source:
”The Forgotten Victor: General Sir Richard O'Connor"
"Montgomery, Friends within, Foes without"
"Factions in British Army"

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