見出し画像

テルフォード・テイラーへのインタビュー:何故戦争犯罪は国際法廷で裁かれねばならないのか

『テルフォード・テイラーへのインタビュー』
インタビュワー:リンダ・マグワイア

テルフォード・テイラーはニュルンベルク裁判にてアメリカの主任検察官として活躍した。このインタビューは1994年2月11日にニューヨーク市にて行われた。

訳注:1994年は湾岸戦争、ソ連崩壊後、ユーゴスラビア内戦中であり、インタビューは、1993年の旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の設立に応じ、行われた。テルフォード・テイラーは上記の他に、アイヒマン裁判にてオブザーバーとして参加していた。

https://dl.tufts.edu/downloads/8336hc26m?filename=s1784x64h.pdf

リンダ・マグワイア:ニュルンベルク裁判の頃、連合軍の検察官の中で、アメリカが長崎への原爆投下や日系米国人の強制収容について戦争犯罪に問われるのでは?との疑問が呈されることなどはありましたか?

テルフォード・テイラー:記憶にある限り、それらが議論されたことはなかった。もちろん、我々が為そうとしていたことを踏まえても、長崎は不要であったとの意見は一般的ではあったが。今考えると、一度目の広島への原爆投下の後、戦争はどうせすぐに終わるのだから、2つ目の原爆を長崎へ落とす必要性はなかったように思える。以来、多くの人たちがこの件について議論を重ねているであろうことは疑いの余地がないが、当時、このことについて話している人はほとんどいなかった。正直に言うと、私ですら最初の爆撃と二回目の爆撃に差があるとは、幾分かの歳月が経つまで気づかなかった。カルフォニアでの日系人の強制収容に関しては、当時から私は反対していたことをここに示すが、あの頃は開戦直後の世論に後押しされていた。しかし、先の例と同様に、当時、大きな論争になっていたような記憶はない。もちろん、少ししたら、知っての通り、多くの議論を長きにわたり生むこととなり、結局収容キャンプが閉鎖され、保証金が支払われるに至った。しかし、当初、開戦直後は、誰も戦争犯罪として追求されるだろうとは考えていなかった。

リンダ・マグワイア:貴方は著書の『ニュルンベルク裁判の解剖(The Anatomy of the Nuremberg Trials、未訳)』にて、「ニュルンベルク裁判にて確認されたニュルンベルク諸原則を強制的に執行する恒久的な方法は存在せず、諸原則は多くの場合無視される。しかし、過去の判決例と国連の承認を得た倫理的、ならびに法的な文章としては、ニュルンベルク諸原則は国際的な法効力を持つと考えられる」と書いています。であるならば、なぜ我々はニュルンベルク同様の法廷の設置を経験していないのでしょうか?

テルフォード・テイラー:その理由は明白のように思える。第二次世界大戦が終わった時、ドイツには、政府も残ってはいなかったし、軍隊も残ってはいなかった。そして、ヒトラーの時代に行われた事象の記録や文章は全て綿密に保管されていたのだ。すなわち、ドイツ政府が崩壊した結果、連合国は事実上、望むように人を裁くことができたのだ。そして、被告人はすべてそこにいた。状況は些か特殊で、そしてそこには今日的な障害を生むものは何もなかった。

ニュルンベルク裁判が始まる前から、そのようなものは必然的に多数の関係者と多数の国家を扱うことから、国際的な枠組みにてなされなければならないであろうことは明白だった。そのため、戦争が継続している頃から如何にして戦争犯罪者を裁くかに関し、多くの議論がなされており、戦争が終わり次第、戦争犯罪を裁かなければならないという事に関し、強い要求があった。ニュルンベルク裁判の他、占領下に置かれた各国にて、同様の国際法の枠組みに則った裁判が、おそらく2000件近く行われた。1944年から1952年頃まではニュルンベルク諸原則の実用と、その実用の際に生じた問題に関する議論の時代であった。もちろん、それまでにも戦争法廷というものは存在したが、それらは第二次世界大戦のものに比べれば取るに足らないものであった。

もとの質問に戻ろう。なぜ我々はニュルンベルク同様の法廷の設置を経験していないかと貴方は問うが、私は逆に、どうすればこれらの法廷を設置することが出来るのだろうか?と、問おう。昨今の戦争では、戦争が行われている最中は、容疑者や証人などの人にも、また物理的な証拠にもアクセスすることができない。一意見にはなるが、戦闘行為が終結するか、容疑者が確保されるまで、法廷を設置するべきではない、と私は考える。

リンダ・マグワイア:貴方は、(クウェートに侵攻した)イラクを戦争犯罪として法廷に引きずり出す論拠はあったと思いますか?

テルフォード・テイラー:それは、政治の問題だろう。少なくとも、そこに戦争犯罪があったことは事実で、サダム・フセインらに対する証拠を見つけることは難しくなかっただろう。しかし、政治的な理由により、それらは行われなかった。そして、そのため、イラクの戦争犯罪に関する議論は必然的に政治的なものとなり、戦争法とは一切関係ないであろう。どのような政治的な要素が関わっているかに関する議論となるだろう。

リンダ・マグワイア:カンボジアとソマリアに関してもおそらく同様のお話になるのでしょうね。

テルフォード・テイラー:おそらくそうだろう。とはいえ、私はそれらの国についてほとんど知らないが。

リンダ・マグワイア:ボスニアとクロアチアに関する戦争犯罪に関する法廷の場合はどうでしょう。もちろん、法廷が実際に開かれた場合、ですが。

テルフォード・テイラー:その問いに答えるのは非常に難しい。誰も戦争へは行きたくないものだ。とはいえ、セルビア人は欲しいものを得るために多くの労力を費やし、彼らがボスニア人の為に引くことを期待するのは難しい。戦争はおそらく長引くであろうし、そして惨状は悪化しうる。しかし、今だけを切り取るのならば、両陣営共にそれらの問題の解決に前向きであるようには見える。

リンダ・マグワイア:つまり、政治的な紛争の解決を優先させる為に、ユーゴスラビア法廷の案は取り潰され可能性があるということですか。

テルフォード・テイラー:少なくとも私は、セルビア人との合意形成において、相互放免に類する、セルビア人が合意できそうな項目を含まないということは非常に難しいと考えている。

リンダ・マグワイア:国際法廷の批判者は戦争犯罪などは国内法廷にて裁かれるべきであると主張します。もし、その二つで選ぶことができるのであれば、国内法廷ではなく国際法廷で裁くべきであるという主張の論拠は何になりますか?

テルフォード・テイラー:まぁ、理由を言うならば、国際次元で行わなければならないから、となる。最初期の戦争に関する法は、明文化されておらず、慣習法であった。それらを明文化する最初の試みは1863年に行われた。

リンダ・マグワイアリーバー法ですね。

テルフォード・テイラー:その通り、リーバー法だ。しかし、その戦争法の枠組みはアメリカ陸軍のみを対処とした。しかし、私が知っている限り、海軍は、様々な法体系の枠組みを作るのに積極的であった。リーバー法の十五年程前の1846年か1847年頃、12カ国ほどの主要国家、それも海洋国家が、集まり、海上封鎖などに関する慣習法を成文法化しようとすることが試みられた。そして、これらのルール、あるいは法は、国際的なものであった。条件によっては国内的な枠組みより国際的な枠組みの方が良い場合もあるのだ。

リンダ・マグワイア:つまり、差異の理由は、物事によっては自然と国際的な取り組みを行わなければならない場合があるから、ということになるのでしょうか?

テルフォード・テイラー:そのとおりだ。もちろん、ルールは往々にして国内的にも、国際的にも適応可能なものだ。時々に応じ、どちらの枠組みで取り組むか、というのはその時々の状況と誰が関係しているかによることになる。ニュルンベルクでは、裁判に参加したい人々が多くいた。そして、国際的な参加が誰もが望んだ方法であった。しかし、貴方は正しくもある。国内法廷にて取り組んだほうが良い場合もあるだろう。また多くの場合、どちらでも適切な取り組みとなるだろう。しかし、例えばボスニアの場合、複数の国家の政治的な関心があるであろう為、国際的なプロセスにしたほうが良いであろう。

リンダ・マグワイア:当然ですが、このような法廷は多くの深刻な問題に直面します。我々はユーゴスラビア法廷にて裁判に必要な情報を集めるのに苦労していると聞いていますし、政治的な障害もあるでしょう。何人かの政治家は、他国の政治家を裁くという行為は危険な前例となり、将来後悔することになるかもしれないと感じています。このような状況下で、ユーゴスラビア裁判の第二回法廷の最大の問題は何になると考えておりますか?

テルフォード・テイラー:そもそもになるのだが、第二次法廷がどのようなものになるのか、そもそも開催しうるかについて我々は何も知らない。そのような状況下では、最大の問題はただ単に裁判を開催できる状態にする、ということだって大いにありうるだろう。

リンダ・マグワイア:他に、戦争犯罪で裁かれるべき国家はありますでしょうか。

テルフォード・テイラー:裁かれるべき人はいる。私は少なくとも、旧ソ連邦、インド、南アフリカなどだ。例えばグルジアなどでは、今まさに戦争犯罪が行われている。そして、私が思うに、戦争終結までにこれらの数は増えることだろう。しかし、これらの犯罪はきっと裁かれることがないだろう。

リンダ・マグワイア:貴方は、戦争犯罪を含む麻薬取引、テロなどの国際犯罪の対応の為、恒久的な国際法廷の設置すべきと考えますか?またそれは、可能、もしくは、更に一歩踏み込み、追求されることであると考えますか?

テルフォード・テイラー:私は全面的に賛成だ。私は成すべきこととして、全面的に賛成する。難しいのは、なにかが起こってからでなければ、誰もそんなことやりたがらないということだ。ボスニア法廷の推進者たちは、最初はこれは戦争法の活用につながると思っていた。しかし、今では最も熱心な推進者ですら、最善の結果は、可能な限り多くの良い証拠を集め、戦争犯罪者たちを捕まえることができなくても、彼らの人生が可能な限り困難なものにすることであると考えている。

リンダ・マグワイア:戦争法に関し、犯罪の発生地に問わず、訴追することができる「普遍的管轄権」のような概念が適応されることは、世界的に一般的な考え方ですか?例えば、デミャニュクの場合では、オハイオの自動車工がイスラエルによって彼が『イヴァン雷帝』と呼ばれる強制収容所の看守であるかが裁かれました。その中での弁護士の弁護の一つは、当犯罪が行われた時、イスラエルは存在せず、彼を裁く権利がない、というものでした。イスラエルはこれに対し、彼を裁くにおいて、領域も国家も元にしておらず、幾らかの犯罪は、「普遍的管轄権」の名の下で裁かれるべきであると応じました。

テルフォード・テイラー:当然だ。そのことはアイヒマン裁判にて重要な論点となった。事実として、アイヒマンがイスラエルへと移送され、ベン=グリオンが彼をイスラエルの国内法廷にて裁判にかけることを明確にした時、私はニューヨーク・タイムズ紙にそのことについて論じる文章を寄稿した。私はベン=グリオンに賛同せず、彼を裁くには、よりよい方法があるとあると考え、ドイツにて法廷を開くことの意義があると論じた。私は、アイヒマンに関し、イスラエルよりドイツが知るべきであろうと考えていた。また、幾つかの海法では、普遍的管轄権のような考え方が適用されている。

リンダ・マグワイア:ニュルンベルクを振り返り、あの裁判で最も誤解されていると思われる部分は何になりますか?

テルフォード・テイラー:私は、最も誤解していたのはドイツで、彼らのニュルンベルク裁判への反応だと思う。ニュルンベルク裁判がドイツ人たちの利益の為に行われていたことを理解していたドイツ人は殆どおらず、ニュルンベルクが起きなければ、ドイツの状況は悪化していたであろうことを理解したドイツ人は皆無であった。

国家が自国民を被告とし、戦争犯罪を捌いたほぼ全ての状況にて、被告は多くの場合有罪判決を受けたが、実際に刑罰が課されることはほとんどなかった。例えば、ヴェルサイユ条約の交渉にて、フランスとイギリスはドイツより第一次世界大戦中にドイツ人が犯した戦争犯罪を裁判にかけるという確約を得ようとしたことを覚えているおられるだろうか。この要求には、かなりの数になる人名のリストが付随していた。しかし、これらのリストに載った人物に対し、何かが行われたことはほとんどなかった。実際にドイツが国内の裁判所に持ち込んだ事例は2件に過ぎず、それはドイツ軍の潜水艦によりイギリスの病院船が沈められた事件に関するものだった。どちらの事件でも、潜水艦は病院線が弾薬を積んでいたと理由で沈没させられており、もし事実ならば、その病院船は正当に沈没させられる権利があった。しかし、片方の事件では、船内に弾薬がなかったことは決定的に明らかであった。しかし、何らかの理由で潜水艦の艦長は弾薬があると考え、沈没させた。

その後、艦長は生存者から弾薬がなかったことを知ったが、それにもかかわらず、艦長は船から出た救命ボートを二隻沈めた。これは、戦後、イギリスがドイツに対し訴追を強く求めた事件の一つだった。そして、ドイツは実際に裁判を行ったが、艦長自身は行方不明であった為、裁判は艦長の攻撃を実行した二人の部下に対して行われた。この二人は命令に従っただけであったのにも関わらず、それぞれ四年の求刑を言い渡された。さて、実際に彼らがどれだけ刑務所にいたかのだろうか?たった、三ヶ月だ。彼らの刑務所からの逃亡は見過ごされた。

また、ウィリアム・カリー中尉の場合も見てみよう。もしベトナム戦争中、戦争犯罪で起訴されるべき人物がいたとしたら、それは彼であった。彼は、ソンミ村虐殺の指揮官であった。そして、当初、彼には終身刑が言い渡されたが、裁判が進むに連れ、刑期はどんどん短くなっていき、そして、最後には大統領が減刑を言い渡した。カリーが実際に牢に入っていた期間はわずか三日ほどにすぎなかった。

貴方の質問へと戻ると、ニュルンベルク裁判がどのように誤解されていたかについて答えると、終戦直後、ほとんどのドイツ人は日々を生きるのに精一杯で、弁護士として裁判に呼ばれたごくわずかの人々を除き、ニュルンベルクにはほとんどの関心が寄せられていなかった。そして、ドイツ人たちが我々の所作の重要性を意識し解釈し始めたのは、ずっと後になってからであった為、誤解されたと私は考えている。

私の著書、『ニュルンベルク裁判の解剖(The Anatomy of the Nuremberg Trials、未訳)』が今度ドイツにて出版されることは、興味深いことだと私は思っている。私は6、7冊ほど著書を書いたが、どれもドイツでは出版されておらず、この本が出版されることになった時、私はとても驚いた。特に、今のドイツは右翼の過激派の台頭が起こっている。そんな中、今後何が起こるかに関し、非常に興味がある。

ーーインタビュー、ここまでーー

訳注:テルフォード・テイラーは四年後の1998年に亡くなることとなる。そしてその五年後の2003年、国際連合は戦争犯罪も扱う常設の国際裁判所として、国際刑事裁判所を設立する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?