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翻訳記事:『朝鮮戦争における戦車という問題について』

我々が真に必要としているのは、たとえ戦車を見たとしても逃げない兵士だ。

ジョン・H・チャーチ准将からチャールズ・B・スミス中佐へ
1950年7月2日

第二次世界大戦終了後、米軍はそのドクトリンのあらゆる観点を見つめ直すに至った。当然、その見直しには戦車も含まれ、1946年に将来の戦車の役割を研究したStilwellボードは、以下のように結論付けた。「最も効果的な対戦車兵器は戦車であり(中略)駆逐戦車という戦車とは独立した兵器コンセプトは90mm砲を装備したM-26パーシングの登場により意味をなさなくなった。戦車は歩兵連隊の編制表に標準的に加えられることとなり、戦車大隊は各歩兵師団に標準的に装備されることとなった。

しかし、第二次世界大戦後の軍縮の結果の予算的な問題により、これらの再編制をした部隊は稼働状況を維持できず、多くはそのまま解散することとなった。一方、1949年の野戦教範(Field Service Manual)は大戦中の戦訓を多く盛り込んだ上改訂されており、「ある一つの兵科が勝利を齎すことはない」と、諸兵科連合を強調していた。それらの結果、1950年6月25日に北朝鮮軍が韓国を侵略すると、米軍は戦争を戦うにふさわしいドクトリンを持っていたが、そのドクトリンを実行する戦力を有していなかった。それらの結果、起こった一つの特記すべき事象は、1950年7月5日におきた、北朝鮮人民解放軍の戦車部隊によるタスクフォース・スミスの撃破である。

チャールズ・”ブラッド”・スミス中佐は1950年7月1日より第二十四歩兵師団、第二十一歩兵連隊、第一大隊を率いており、この部隊は二個歩兵中隊を中核に、二門の75mm無反動砲、二門の4.2in迫撃砲、六門の2.36in携行対戦車ロケットランチャー「バズーカ」、そして六門の105mm榴弾砲を保有した。タスクフォース・スミスは釜山へと空輸された後、北上し、敵の攻撃に備えていた。

烏山の北へと配置された彼らは、7月5日、前身する敵と会敵する。0800時、六門の榴弾砲はタスクフォースへと迫っていた八両のソ連製のT-34と交戦を開始する。しかし、これらの戦車は砲撃をものともせず、また、無反動砲にバズーカもほとんど効果を上げなかった。続く2時間の間に、33両のT-34がアメリカ軍の陣地を通過し、米兵が損傷を与えることができたのは、内2両に過ぎなかった。1時間後、戦車部隊の第二陣が到着し、そして1145時には北朝鮮第四師団の第十六と第十八歩兵連帯に所属する三両の戦車を中心とした部隊が米軍の陣地へと迫り、結果、タスクフォース・スミスは敗走することになる。

米兵たちは砲や重兵器の破壊処理をし、戦場を背にすると、可能な限り素早く南へと逃げた。次の朝、天安に現れたタスクフォースは、150名の兵を失っていた。チャーチ将軍の命令に従い、タスクフォース・スミスは戦車が現れた後も逃げずに戦った。しかし、問題は彼らには戦車を傷つけることができる対戦車兵器が不足していた。タスクフォース・スミスの壊滅は、マッカーサーの司令部、ペンタゴン、そして、国務長官であるディーン・アチソンをも動かし、なんとしてでも韓国にて交戦中のウォルトン・H・ウォーカー少将(訳注:第二次世界大戦ではパットンの第三軍にて第二十軍団を率い、メッツ攻略戦を指揮したウォーカー少将と同一人物)の第八軍へ必要な機甲戦力を届けようとする努力へと発展することとなる。

時を移して、今、アメリカ軍は政治的情勢の変化により、むこう数年間において縮小することが決まったが、その状況下でも現行のドクトリンに即した軍編制を維持することは非常に重要である。(訳注:本論文が書かれた当時、米軍は冷戦・湾岸後の軍縮にて多くの部隊が縮小・解散されていた)特に近年、湾岸戦争後、地上戦は、それこそ1944年フランスでの第3軍のような、時代錯誤的なものになる一方、未来では「少数の歩兵の特殊部隊による侵入が強力な力を持つ介入となる」との意見も存在する。そのような近視眼的な姿勢は非常に危険なものである。なぜならば、諸兵科連合作戦はドクトリンであるエア・ランドバトルの展開において必須であるからである。よって、翌数年の間においても、軍が縮小をされる際も、正しい兵科比率が見つけ出されなければならず、維持されなければならないのである。

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国は戦車を生産することをやめた。戦車の生産ラインは民用品の生産に転換されたか、もしくは完全に解体された。軍は支出は大きく削減され、戦車を含むあらゆる種類の自動機械の研究開発日は1945年から1950年の間、年間500万ドル程度でしかなかった。比較として、クライスラー自動車会社の同期間の研究開発日は、年間、2500万ドルを数えた。この不足を韓国に展開した米第八軍は直に感じることとなる。

朝鮮半島と38度線

1949年から1950年にかけて国防長官ルイ・ジョンソンによって軍へ課された緊縮財政は、各実働師団の編制の縮小を招いた。第八軍においては、各歩兵連隊における三つ目の大隊の解体、ならびに各師団の戦車大隊を一個中隊規模への再編制を意味した。また、各歩兵連隊に配属されていた連隊戦車中隊は存在そのものを抹消された。しかし、第八軍の縮小はその先へと進み、削減された編制よりも更に弱体化を測った。戦車部隊においては、すでにのべた中隊の解体のみならず、残った中隊も中戦車であるM4A3シャーマンやM26パーシングを使用せず、より軽量のM24チャーフィーを使用した。開戦に先立つ数年間、第八軍の兵站部(G4)は米本国向けて何度かレポートを提出しており、そこでは中戦車が要請されたが、しかし、「極東方面は中戦車の展開に値する優先度を有していない」とされた。

タスクフォース・スミスの敗走は直ぐ様、東京からワシントンへと伝わった。北朝鮮軍のT-34が米軍の烏山の防衛線を突破した日、第八軍の要請はようやく満たされ、第八軍の兵站部門(G-4)は、60両のM-24チャーフィー軽戦車と54両のパーシング中戦車を陸軍省から受領することになる。しかし、この要請時、米国では戦車は一両たりとも生産されておらず、第八軍へ送られる戦車は現役あるいは予備役に属する他の部隊か、保管状態にあるものを使うしかなかった。新しい戦車は開発中ではあったが、財政的な問題により試験も標準化もされていなかった。軍は800両のM-26パーシングをM-46両のパットン戦車へ改造している途中であったがそれらはすぐに使用可能な状態になかった。

ペンタゴンでは、軍参謀総長管理補佐官(Assistant Chief of Staff for Administration)のマシュー・B・リッジウェイ中将が戦場にて必要とされている戦車を調達する任についた。余談だが、中将は翌年より、韓国にて総司令の任を与えられ、その問題を自ら体験することとなる。1950年7月13日、リッジウェイ中将は野戦軍総司令による米国内での戦車の生産ならびに調達に関する勧告書を認可することになる。それは以下のような内容であった。

・戦車の開発プログラムは(訳注:トップダウン型、あるいは予算先行ではなく)、現場からの要請からボトムアップでつくるものであるべきである
・軍は800両のM-26パーシング中戦車のM-46パットン戦車への改造を完了させるべきである
・軍はデトロイト軍工場に保管されている車体と砲を使い、さらなる300両をさせるべきである
・軍は183両の105mm榴弾砲を装備したM-45を90mm砲を装備したM-46へ換装するべきである

単純計算をすると、これらの施策を実行した場合、軍は1283両のパットンを韓国へ配備できることが期待された。しかし、軍にはこれらの施策を実施したとしても、それらを戦場へ配備し維持するロジスティクスを有していなかったことが後にわかった。また、この勧告書はM-24の後継として、T-41軽戦車が生産、配備されることを示唆したが、それ以外の(既に生産が始まっていたM-46を除く)新型戦車の配備は、早くとも1952年の12月移行となった。つまり、第八軍は、それまで、現有戦力にて戦争に立ち向かわなければならないことを意味した。

いずれにせよ、第八軍の将兵たちには北朝鮮軍の戦車の有用性は自明でしかなく、それらへの対抗策として応戦可能な米軍の戦車をなんとかして戦場へ配備する手段が模索された。一つ目の案は現在軍が有している戦車部隊を集積化することで一個臨時戦車大隊を編成することであった。これは第七、ならび第二十五歩兵師団の戦車中隊と第一騎兵師団の偵察戦車中隊らからなるものとした。第八軍のG-3(作戦部)は、これらは「命令があれば直ちに編制可能」と評したものの、このような部隊の効力については疑問符がついた。

たしかに、集積化された臨時戦車大隊は、各中隊が有している戦闘力により、戦闘部隊として活用することはできることが期待できたものの、これらの中隊は集積化運用の為の指揮系統を有しておらず、また独立大隊としての運用に必要な参謀、支援、補給設備も有していなかった。また、それらを各師団や第八軍より拠出させ、なんとか賄ったとしても、大隊が有しているのは、M-24軽戦車でしかなく、北朝鮮軍が装備しているロシア製のT-34に対抗できるかについては疑問符がついた。

しかし、第八軍の別の計画は、より現実的な結果をもたらせそうであった。在日米軍が棚卸しをしたところ、三両のM-26パーシングがエンジンならびに電装系の故障にて倉庫にて鎮座していることが判明した。タスクフォース・スミスの惨状の前に、これらの戦車を修理し、臨時戦車小隊を編成し、可能な限り素早く戦闘へ参加させることが決定された。1950年7月10日、第8064重戦車小隊(臨時)が編成された。これは3両のM-26を有し、サムエル・R・フラワー少尉と、計19名の第一騎兵師団の兵員よりなった。また、これに加え、更に一つの臨時部隊、第8066機械化偵察小隊が編成された。これは神戸基地に駐屯していた元戦車兵たちと、東京に配備されていた5両の暴徒鎮圧用のM-8グレイハウンドからなり、指揮官に大尉、副官に少尉、それに加え、25名の兵よりなった。第8066小隊は第8064小隊に先んじて、7月中旬頃に釜山に到着し、新設された大邱の第八軍司令部の防衛の任にあたった。

1950年7月12日、フラワー少尉らと彼らの3両の戦車は横浜を発った。4日後、彼らは釜山に到着し、韓国に到着した最初のアメリカ軍の中戦車となった。国連軍の南部防衛線の瓦解に対応する為、27日、彼らは晋州へと鉄道移動するよう命令を受けた。その時、北朝鮮軍の第六師団は晋州を防衛していた第十九歩兵連隊を馬山方向へと追いやろうとしてた。28日の0300時、第8064小隊は晋州の駅に到着する。戦車部隊は完全な状態で戦場に到着したわけではなかった。彼らは慢性的なエンジンのオーバーヒートに悩まされており、数時間の走行でも冷却用ファンベルトが過変形してしまう問題を抱えていた。フラワー少尉は新しいベルトを要求したものの、これらの輸送は間に合わず、また日本にて複製が試みられたものの、それらはいずれも短すぎるか、長すぎた。

T-26パーシングの冷却機構、4つのファンがそれぞれファンベルトにて動力を受け取る機構となっている。
via M26Pershing

7月31日の朝、北朝鮮軍の第六師団は晋州市内へと突入する。フラワー少尉の隊、ならびに第8066小隊を回収するため、戦車用平台を有した列車が晋州へと送られるが、それらは到着することはなかった。ジョン・ウィンターズ少尉と第8066小隊のHQセクション(M-8装甲車1両と2.5トントラック1両、ジープ1両)は晋州の駅にてこの列車を待っていたが、予定の朝になっても車両が来なかった為、晋州脱出を決断し、自走し馬山を目指す。数マイル退却したところ、彼らは爆破された橋に出くわす。M-8とジープはこれを迂回することに成功するが、トラックはぬかまりに嵌ってしまい、牽引されざるを得なくなった。しかし、彼らはそれ以上の問題に出くわさず無事、馬山へ後退することに成功する。

同日、正午ごろ、晋州での戦闘が落ち着いた為、フラワー少尉は撤退の為の列車が到着するまで駅に残る猶予があると判断する。しかし、13時頃になると、線路をつたって行軍してきた北朝鮮軍との間で戦闘が再開する。戦車は.30口径と.50口径機関銃にて応戦する。この戦闘でフラワー少尉が小火器の攻撃にて負傷するものの、彼らは敵の攻撃を撃退することに成功する。

この攻撃を受け、戦車隊は直ちに撤退を決断し、先に第8066小隊のHQセクションが取ったのと同じ道にて脱出を試みる。しかし、前述の破壊された橋にたどり着くと、彼らは戦車を放棄し、フラワー少尉の為に担架の作成を試みる。この時、突然、北朝鮮軍の兵士たちが下車した戦車兵たちに発砲を開始する。この時、ブライアン・シュラッダー曹長が唯一、戦車に残っていた兵で彼は.30口径機関銃を発砲しながら、川沿いの兵たちに向けて戦車を向かわせる。六名が戦車の下をくぐり、運転手用の脱出ハッチを通じ車内に避難することができ、シュラッダー曹長はそのまま戦車にて晋州へと戻ろうとする。しかし、道中、南江にかかる橋の上にて、ついに戦車のエンジンがオーバーヒートしてしまう。シュラッダー曹長と6名の兵士たちは戦車を放棄する決断をし、そこより徒歩にて再度、馬山を目指すことにする。最終的に、彼らは第25歩兵師団の線に無事たどり着くことに成功する。一方、残された兵たちの運命はそう幸運ではなく、残った兵士たちは、戦死するか捕虜になった。戦死した者の中には、フラワー少尉が含まれていた。

馬山にて戦闘するM-26
via wikipedia

第8066機械化偵察小隊は晋州での戦闘を生き延びることに成功したが、その2日後に第8064機械化偵察小隊と同様の運命を辿ることとなる。 第二十九歩兵師団第一大隊の援護を任された第8066小隊は、8月2日、中岩里より鎮州に向けて強行偵察中に奇襲を受けることとなった。この戦闘にて、小隊の5両の装甲車の内、4両が破壊され、ウィンターズ中尉は戦死した。

臨時編成されたこれら2つの小隊は、共に非常に短命に終わった。これらは、司令部が敵の戦車に対抗する為にひねり出した、文字通り必死の策であったが、即席の組織、訓練されていない装備の使用、そして無計画な戦闘への投入の結果、個々人による勇敢な振る舞いにも関わらず、ほとんど戦果を残すことができなかった。もし両小隊が証明できたことがあるとしたならば、それは、第八軍が、北朝鮮軍のような確固たる意志を持った正規軍に対応する準備ができていなかったことである。その観点から見ると、両小隊の戦果は、まさしく期待通りであった。

第八軍の参謀が編成した最後の臨時部隊は、第8072臨時戦車大隊であった。1950年7月17日、東京のキャンプ・ドレイク(旧米軍朝霞基地)で発足したこの大隊は、陸軍武器科によって修理されたのM-4A3シャーマン戦車を装備していた。新しい大隊を構成するために、第八軍の様々な部隊から21人の将校と兵が拠出された。大隊長のウェルボーン・G・ドルヴィン中佐は、後の1975年に退役し、名誉中将となる人物であった。1950年7月12日当時、ジョージア州フォートベニングのゴルフ場にて、辞令を受け取る。そこには彼が当初予定されていたオーストリアでの任務から韓国への転任と、そこで第8072臨時戦車大隊を指揮することが書かれていた。また、大隊を編成するのに十分な人員が日本にいなかったため、テキサス、フォート・フッドの第二機甲師団から将校9人と下士官兵146人が選別され、第八軍の将校5人と兵士65人に加わった。

ウェルボーン・G・ドルヴィン中佐。第二次世界大戦では第191独立戦車大隊の一員として、イタリア・南仏戦役に参加した。
via Eighth Army Rangers First in Korea

ドルヴィン中佐は、7月19日に日本に到着すると、彼の部隊が本当に寄せ集めであることを知る。一部の兵に至っては、PX(酒保)の店員などであった。しかし、朝鮮半島の情勢が切迫していたため、ドルヴィン中佐は、一刻も早く最初の中隊を戦闘に投入せしめよという強い圧力を受けていた。結果、第8072臨時戦車大隊の第一中隊は、先に投入された臨時小隊、同様、国防費倹約の犠牲となる。彼らは、第8066小隊の装甲車と同様、待ち伏せを受け、中隊は戦闘初日に有する10両の戦車のうち4両を失った。

7月28日、大隊のA中隊は日本を出発し、3日後に釜山に上陸した。大隊の先頭部隊が朝鮮半島に到着した翌日から戦闘に入った。大隊の戦時日誌は、この時の混乱を反映している。

1950年8月1日、発足から15日後、第8072中戦車大隊(注記:原文ママ)は、大隊は日本の東京のキャンプドレークと韓国の馬山の間に分散して展開しており、人員と装備の一部のみが戦闘準備ができている。人員は不足しており、装備は部分的にしか充足していない。訓練は企図すらされておらず、追加の装備と人員に関しては約束のみで、残されたごく僅かな時間で、戦闘に備えるなければならない。

しかし、第105機甲旅団第83連隊に支援された北朝鮮第六師団が釜山国境南部向けて進軍していた為、第八軍には、駆け出しの大隊に時間を割く余裕はなかったのだ。

8月4日、第8082臨時戦車大隊の残りが釜山に到着し、3日後に陸軍省はこの大隊を第89中戦車大隊に名称変更を行った。第89大隊の編成の特殊性の為、ドルヴィン中佐は、歩兵師団配下の戦車大隊に通常割り当てられる3個戦車中隊編制の大隊の代わりに4つの戦車中隊を有し大隊を与えられることとなった。ドルヴィン中佐はこの事実を第八軍司令部から巧妙に隠し、それを利用し、4つ目のD中隊を比較的安全であった鎮海付近で訓練中隊として使用することにした。結果、D中隊は十分な訓練が行われた9月5日まで戦闘に参加することはなかった。また、この4つ目の定数外中隊の存在は、部隊のローテーションを可能せしめ、8月下旬から9月にかけ、部隊は、休憩、メンテナンス、訓練のために戦列から外れることができた。ドルヴィン中佐の行動は、何年もの無関心により被った不利益を正すのには、極端な措置が必要であったことを例証している。

第八軍が戦車部隊の工面に苦戦している一方、国防総省は韓国に輸送可能な戦車大隊の調達に勤しんだ。1950年7月、第六戦車大隊が第二機甲師団から引き抜かれた上、フォート・ベニングとフォート・ノックスに駐留していた教育部隊から二個大隊が編成された。フォート・ノックスで編成された第七十戦車大隊は、ドルヴィン中佐の第8072戦車大隊同様、様々な人員と資材の寄せ集めであった。中隊の内二つはロックアイランド工廠製のM-4A3シャーマン戦車を装備しており、三つ目の中隊の一部はフォート・ノックスで銘文と共にコンクリートの台座に置かれていた(!)M-26パーシング戦車を装備した。部隊の発足から5日と経っていない、1950年7月17日、これらの「記念碑戦車」たちは、架台から降ろされ、急遽編成された大隊の残りの部隊とともに、戦場の方角へと輸送された。大隊は1950年8月7日に釜山に上陸し、またもろくに訓練を受けぬまま、戦闘に突入した。

また、生産ラインでも、同様に問題が発生していた。長年の休止期間の後に戦車の生産をすることは容易ではなかった。戦車の生産ラインの構築には長いリードタイムが必要であった。戦車を生産するためには、数千の部品を製造し、それらを組み立てる必要がある上、それらの製造にも、各々、専門の治具・工具や金型が必要であった。また、熟練したエンジニアや作業者も必要であった。結局、戦車生産の再活性化に多大な時間がかかった為、1952年10月に至っても、在韓米軍には、新型のM-46パットンよりも、第二次世界大戦の骨董品のシャーマン戦車の方が多く配備されていた。幸い、M-46は完全な新規設計の戦車ではなく、既存の第二次世界大戦時のM-26の車体に新しい砲塔を組み合わせただけのものであり、前述の通り、砲塔があれば改造は可能であった。もし陸軍が、前述の800両のM-26のM-46への改造を行っていなければ、1953年まで米軍は、第二次世界大戦時代の戦車だけで戦わなければいけなかった公算は高い。

1950年に戦車の開発と生産が「現場からの要請に基づき、ボトムアップ」にて行われることになった時、戦場ではこれまでの予算削減を念頭においたトップダウン式の厄介な副作用が数多く明らかになった。M-46の配備は戦前に開始されたにもか関わらず、M-46の技術的問題の多くは未だ解決されていなかった。1951年2月12日、当時、韓国でM-46を装備してい二個大隊の内の一つである第六十四戦車大隊は、58両の戦車の内35両が行軍中に故障する悲劇に見舞われた。故障内、30件は、十分なテストが行われていたはずのエンジンオイルクーラーファンの問題によるものだった。

朝鮮戦争において第八軍が直面した最後の問題は、本質的に兵站上の問題であった。ドルヴィン中佐が新たに編成した第8072戦車大隊と、米国からの増派途中の大隊の充足率を保つ為、入手可能なあらゆる種類の戦車が戦場へと投入されました。結果、異なる種類の戦車が混在する結果となり、また、戦後の兵站システムの縮小もあり、第八軍ならびに、米本国の兵站・補給システムに深刻な負荷がかかることとなった。第8072戦車大隊のB中隊はハワイ州兵から譲渡されたM-26戦車で編制されている一方、他の3個中隊はM-4A3E8シャーマンを装備していた。第6戦車大隊はM-46パットンのみで編制されていたものの、第70と第72戦車大隊はM-26中隊とM-4A3中隊の混載編制であった。第1海兵戦車大隊と第73戦車大隊はM-26パーシング中隊のみの編制であったが、大隊にはブルドーザーブレードを備えたM-4A3シャーマンと、シャーマンのシャーシをベースにしたM-32回収車両が配備されていた。結果、1つの戦車大隊は3つまたは4つの異なる車種の戦車・装甲車両を有していた。また、同じ型の戦車であっても、異なる種類のエンジンが搭載されていることも珍しくはなかった。

擱座したM-46の砲塔を回収する戦車回収車。
via M4(105) and M4A3(105) Shermans

もう一つの深刻な問題は、師団内に訓練を受けた兵科支援要員が不足していたことであった。戦前、第八軍隷下の師団は中戦車配備対象外の師団であった為、これらの師団の整備中隊は整備させられることになる戦車について知識・経験が不足していた。

戦争の最初の数か月間、全ての部隊指揮官は、既に老朽化していた戦車を使用することによって引き起こされた機械的故障を経験することとなった。1950年7月から1951年1月にかけて、機甲作戦の実施は多数の機械的故障によって妨げられることとなった。この期間、アメリカ軍が経験した戦車の存問の60%以上が機械的故障によるものであった。一方、敵による損耗はわずか11.5%にすぎなかった。また、ほぼ同数の戦車(11%)が地雷によって失われた。パーシングとシャーマンが第二次世界大戦の時代の骨董品であったという事実が、機械故障の発生率の高さの主たるもので、中でもエンジンの故障率が高かった。ファウラー中尉と第8064小隊の隊員が戦争の最初の1か月で発見したように、M-26のエンジンの信頼性は最悪であった。トドメに、戦区には、上述の理由故に生じた膨大な作業量に対処するのに十分な訓練を受けた戦車整備士がいなかった。この状況は、重装備整備中隊が動員され、韓国に派遣されることになる1951年まで是正されなかった。

1950年7月1日から1951年1月21日までの国連軍の戦車損失の内訳。最下段が配備数。配備数に対し、M26/M45/M46の機械敵損失率が抜きんじて高いことがわかる。
via M4(105) and M4A3(105) Shermans

近年、(訳注:元記事執筆年時、1992年)アメリカ軍は資金削減と兵力規模の縮小の時代へと移行を進めている。ここで、朝鮮戦争の経験を繰り返さないことが重要である。もし我々がタスクフォース・スミス(あるいは第8064、第8066、または第8072)のような失敗を繰り返さないためには、ドクトリンにそぐう上、柔軟性を維持できる部隊編制を維持することが重要である。その部隊編制の設計に関しては、広範な検討が行われなければならない。縮小の際にも、維持するには高すぎる、あるいは重すぎるという理由だけで、特定の兵科、部隊を削除することがあってはならない。指揮官は敵の射程内にて重要な訓練を行うわけではなく、あらゆる兵は記念碑となっている戦車に乗り、戦争を行わなければいけない事態に直面してはならない。

たしかに、パナマ侵攻やグラナダ進行のような、少数の兵力の展開が今後の戦争の主流たる形態であるというのは間違いではないように思えるが、一方で、『砂漠の嵐』のような作戦が行われないと考えるのは、早計に思える。アメリカが次に戦うであろう敵を想定するのは私の目的ではないものの、一つの戦争にのみ備えた軍を編制することには警鐘を鳴らしたい。もし、第八十二空挺師団が第七軍団のM1A1エイブラムス戦車やM2ブラッドレー歩兵戦闘車の支援なしにイラクの共和国防衛師団の戦車と相対していたのならば、あるいは重車両の展開を支えるインフラ・工業力がなければ、『砂漠の盾』から『砂漠の嵐』への滑らかな以降は行われなかっただろう。

有効的な諸兵科連合部隊の機甲要素の編成には、それを支える工業部門が不可欠である。それはただ戦車を生産するということだけではなく、現代的な戦車に不可欠な、それらの修理、予備部品の生産、電気的部品の作成などをも含むものである。朝鮮戦争勃発時、英雄的な即興により、かき集められた戦車は、戦闘可能な状態な状態であった。しかし、それらを維持するためのインフラは軍民の双方に存在していなかった。もし、湾岸戦争時、クウェートの砂漠にて側面機動中の第七軍団の各大隊が30両の故障による落伍者を出していたのならば、結果はどうなっていたであろうか。あるいは、最新鋭のM1A1ではなく、アニンストンかフォート・ノックスの保管所に五年ほど放置されていたM-48やM-60を使用しなければいけなかったのならば?

彼の回想録にて、ロートン・コリンズ大将は軍全体に蔓延った即応性と準備の不足をワシントンの指導者へと向けた。彼は軍の必要性を算出しなかった犯人として、彼自身、ならびに、統合参謀総長のオマール・ブラッドレイ大将、トルーマン大統領ならびに彼の政府、そして、議会をあげた。軍の戦史局長であっったオーランド・ワード少将は、「『大きな常備軍』というものに対する抵抗」も第八軍の困難の原因にあげている。

1950年の7月、米陸軍は韓国にて戦わざるをえない状況に追い込まれた。その際、誰もブラッド・スミス中佐に編制がドクトリンに即したものであるか、諸兵科連合を適切に運用できるものであるか聞くことを行わなかった。韓国での戦闘は、軍及び政府が戦うと考えたような戦争ではなかった。軍司令、ダグラス・マッカーサー元帥はスミスの任務をこう評した。「戦力の体裁を整えるだけ……傲慢な体裁だ。」しかし、傲慢さは北朝鮮軍の戦車を止めることはなく、また、次の戦争での敵を止めることはないだろう。

原文
ARTHUR W. CONNOR, JR, "The Armor Debacle in Korea, 1950: Implications for Today"1992 Jan 01
https://apps.dtic.mil/sti/citations/ADA528176


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